水槽の脳

 続く三日が流れるように過ぎて、七日目の深夜。皆嶌龍弥みなじまりゅうやの姿は地下階第二層にあった。足取りは重く、息も浅い。その理由は、この日の定期通信だ。


 あなたは死に等しい状態にある。

 あなたの身体は既に存在せず、脳は我々の水槽に浮いている。


 六人組で情報共有をしたので、知っている。各個室には、絵がかけてある。瓶に入れられた脳の絵が。龍弥の部屋のそれには確かに『あなた』という題名が付いていた。五日目、六日目の定期通信は、特に重要なことを伝えては来なかった。しかし、この七日目のそれは、天地がひっくり返るほどの衝撃を龍弥たちに与えた。

 いま自分たちが見て、感じている世界は、全て水槽に浮かんだ自分の脳に流れる電気信号で形作られた仮想現実に過ぎない。『水槽の脳』というその思考実験のことを知っている人間は、大学の哲学入門で触れた龍弥を含めて少なかったけれども、起きるたびに目にするあの絵は日頃から意識せざるを得ないものだったし、通信内容は更にそれに余りに鮮明な色を塗った。

奇跡館きせきかん』と呼ばれる施設に閉じ込められて長い時間が経つ。いままでは、生きているか死んでいるか、全てが不可解で、深い靄がかかっていた。だからこそ龍弥たちは、思考を暗く深く沈めてしまわない限り、少なくとも具体的な恐怖のイメージから逃れ、脱出に集中することができていた。

 しかし、今回の通信でそれは完全に崩れた。自分は、あの怪物に襲われて肉体的に死亡し、脳だけ隔離されて保存されている。『奇跡館』も、『紋章権能もんしょうけんのう』も、全て仮想現実だとすれば簡単に納得できるし、それは実際にありえない話ではなかった。

 だから、ありありと見えてしまう。自分の脳が水に浮かび、電気信号が流されている映像が。ふとした気まぐれ、あるいは事故、偶然によって、手の届かないところで、この意識が簡単に奪われてしまって、二度とは返ってこない状況が。

 分かりやすく発狂した者はいなかったものの、この衝撃は深く龍弥たちの世界を蝕んだ。昨日の夕食、塩の代わりに砂糖が振りまかれた絶望的な肉の味を思い出す。あれだけ饒舌だった二条市陽にじょういちはるが沈痛な表情で固まり、深いため息を吐きながら調理室に消えたとき、龍弥を含めたその場の誰しもの喉が干上がった。誰も通信の内容を真に受けようとは思っていなかったが、切って捨てるには情報が少なすぎたし、気にしないでおくには余りに鮮明な蓋然性を備えていた。

 がらんどうのバスケットボールコート、深夜によくトレーニングにくるという二条令吾にじょうれいごの姿はない。寝ているか、弟に付き添っているのだろう。特に理由もなくここまで歩いてきた龍弥は、眩いばかりで底冷えのする宵の焦燥的な空気に呑まれてしまわないように、出来る限り明るいことに思考を巡らせる。

 へぇ、じゃあ将来は俳優になったりするのかな。湯河原ゆがわらロウズの笑顔を思い出す。俳優、彼の人生の端の端に夢想されていた華やかな職業。その真似事をしてみるのに、この白い部屋は十分な広さがあった。

「さぁ、あともう少しだ」

 榎木園已愛えきぞのいあの父親は、高名な登山家だったという。龍弥はいまや雪化粧をした岩場に立つ登山隊の隊長だ。雲間の太陽が薄く照らす乾いた夜明けの空気の中で、四〇〇〇メートル級の極北の山顛さんてんが目の前に姿を現す。部下に声を飛ばしながら、一歩ずつ前に進む。滑落すれば命のない漆黒の岩稜を越え、ついに神々の座とさえ謳われる頂に辿り着く。

 胸を落ち着けて息を吐く。それに応じるように、一陣の風が吹き抜け、吹雪が晴れる。視界の果てまで広がる純白の大地、遥か眼下を渡る鳥の群れ、手が触れそうな太陽。人類のほとんどが直接見ることのないそれを、龍弥の両眼はいましっかりと捉えている。

「我ら登頂に成功せり!」

 後方から、隊員たちの歓喜の声が響く。空を割り、木霊すら返らないこの極寒の頂に、膝を折り、思わず涙を流す。ここで、このお芝居はおしまい。思いのほか入れ込み過ぎて泣きそうになってしまった龍弥が涙をぬぐっていると、階段口の方から拍手が聞こえた。

「やぁ、龍弥くん。素晴らしい。一瞬気が触れたのかと思った」

 現れた青年は、劇場主にも似た足取りで軽薄に口を開きながら彼の前に歩み寄ったかと思うと、慇懃無礼の手本のように、おぞましいほどうやうやしくお辞儀をした。

「……何の用だ」

「うん。君を探していたんだ」

 尋ねられて、顔を上げる。その狂気をはらんだ爽やかな笑みに、龍弥の心臓は静かに高鳴り始める。深夜の曖昧な空気を引き裂いて、目の前の男、竹平純たけひらじゅんは自分の白衣に手をかけた。

「色々と試したんだ」

 何をしてくるのかと数歩後退った龍弥の目の前で、純は突然上着を脱ぎ始める。そこで、愕然とした。細く、しかし筋肉の残る白い身体。そこに刻まれた、様々な生々しい傷跡。見て分かる。切り傷、刺し傷、打撲、首元の索状痕、ほとんどが、最近のものだ。

 自傷行為。純もこの状況に動揺していたのか。そう思ったが、違う。目の前の男の口角が歪なまでに吊り上がる。闇夜の井戸の底のような粘度のある黒々とした瞳が鈍く輝く。純の言動と態度は、無数の傷跡が目的に従った行為の結果であると告げていた。

「龍弥くんたちと同じ疑問だよ。ここで、僕は生きているのか、死んでいるのか。それとも、ここはただの仮想現実で、本当の僕は他のところにあるのか」

 それが、気になったんだ。言って、純はハンドガンを虚空から取り出した。彼の瞳と同じ深い黒色の武器は、彼の手元でくるくる回ると、マジックのように二丁に増えて、傷だらけの両手に握り直される。

「見ての通り、ほとんどを試した。僕の推論はまとめられつつある。けど、まだもう一つ、足りないことがあるんだ。それは、残念ながら僕で試すわけにはいかない。結果を確認出来なくなっちゃうからね」

 だから……。目の前の男が言葉を締める前に、嫌な予感が龍弥の全身を包む。いま自分たちがいる階層は『奇跡館』の最下層、つまり袋小路だ。身体を反転させ、階段口へ駆け込む。同時に、爆発的な無音の能力の使用警報が身体を駆け巡り、背後から複数の銃声がした。鉛玉が龍弥の踏み越えた階段に弾ける。跳弾は武器を構えた殺人鬼の頬にぱっくりと血の線を残したが、純は楽しそうに叫ぶ。

「そう。そうだよ龍弥くん。ちょっと一回死んでみてくれないかな。たった一回きりで良いんだ」

 一回もへったくれもあるものか。階段を駆け上がりながら、龍弥は考える。知っている。奴の武器は、火器だ。まともに逃げれば一階にある自室に辿り着く前に捕まるし、長い直線の廊下を走っている間に後ろから狙われれば終わりだ。なら、いっそのこと戦ってやろうか。そう思ったが、それはできない。

 深夜のいまなら、ロウズの火炎の剣も、令吾の紫電の壁面も、ユウの声も借りられる。不意を打つことも可能で、そうすれば地力の差を埋めることは不可能ではないかもしれない。けれども、この白い空間と日常の中でも、龍弥は一般人の感性をまだ完全には失わずにいた。さぁ殺してやるぞと追われれば、一目散に逃げだすだけの感性を。

 背後から高笑いが聞こえる。追い縋る怪人から逃げ切るためだけに龍弥の頭は働いていた。深夜だ。いまほとんど誰の助けも望めない。期待できるとすれば……。

 一つ上階の階段口、そこから最も近い横開きの扉、これでもかという勢いで開き、一気に飛び込む。

 

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