ロウズ
午後四時三〇分、
「龍弥くん」
気付けば夢中でボールと戯れていた彼に、女性の声がかかる。部屋の入り口には、いつの間にか緊張した面持ちの
「昨日は、ごめんなさい。謝るタイミングが掴めなくて、こっちから声をかけられなかった」
湯河原ロウズは、後悔していたらしかった。自分がいつもの間抜けで間違った浴場に入ってしまったこと、目が合った龍弥に武器を振るって、あやうく殺してしまうところだったこと。
自分はやることなすことほとんどダメだけど、それでも誰かを無暗に傷付けたりしないように真っ直ぐ生きてきたつもりだった。しかし、結局のところ、已愛を攻撃した気狂いの男と変わらない行為をしてしまった。それが申し訳なくて、悔しくて仕方がない。
気付けば、黒いショートカットに濃紺の瞳の彼女は、その勝気な眉を歪ませ、ボロボロと泣いていた。それは彼女にとっても意外なことだったらしく、必死に服の襟口で頬をぬぐうが、涙は止まらない。次第に震え出す肩と共に彼女は崩れ落ちて、冷たい体育館の床に両膝をついた。
いきなり攻撃されて、勝手に泣きだされても困るだけだ。そう冷淡に言い切ってしまうほど、龍弥の心に余裕がないわけではなかった。ロウズの攻撃は『紋章権能』によるものだ。いくらか抜けているところがあるとはいっても、その力と状況さえなければ、彼女だって咄嗟に他人を殺しかけるまではいかないはずだ。
ここは『
ロウズだけではない。二条兄弟も、ユウも、そして龍弥も、きっと何処かしら歪んでしまっている。それは見えないかもしれない。龍弥が、以前では考えられない突発的な胆力を発揮したように。そして、運ばれた料理をきっかけにして彼から急激に不安や恐れが漏れ出したことに、正面で見ていた已愛しか気が付かなかったように。
気にしなくていい。湯河原さんはよくやっていると思う。上手い言葉を持たなかった龍弥は、詰まりながら何とかそれだけを自分の言語野から引っ張り出した。泣き続けている女性を置いて場を離れるのも気が引けるが、泣き止んでもらう方法は思い浮かばない。体育館の壁面の時計が五時を回る。本来なら、斜陽が照る時間帯。揺らめく照明の白に照らされて頬を濡らすロウズと、ためらいながらも彼女の背中に触れる龍弥。凡人二人の空間は、涙に満ちていても否定的な意味合いを持つものではなかった。
さらにまるまる一時間泣いて、時刻は午後六時過ぎ。龍弥がふらつくロウズに肩を貸して階段を上っていると、食堂に彼らが姿を現さないことを心配した一行と鉢合った。
「おや、龍弥くん。こいつはレディーを派手に振った……というわけではなさそうだ、失礼」
龍弥たちの姿を認め、安心したようにトントンと階段を降りながら軽口を叩きかけた
テーブルに並べられた出来立ての豪勢な料理。初日、
生きているか死んでいるかも分からない。景色も代わり映えしなければ、太陽の明かりも程遠い。そんな曖昧な場所で、不安を紛らわせ、自分の生を確かめようとすれば、最終的に手が伸びるのは自傷行為だ。
調理室から流れてくる音や匂い。毎日変わるメニュー。ラテアートや、ケチャップで描かれる似顔絵など、料理担当の二人の気分によって料理に施される種々様々な意匠。電子レンジなどしか使わない調理では間違いなく得られない、生き生きと五感に響き渡る刺激が日に三度保証されている。それは、ナイフで自らの腕に切れ目を入れ、流れる血と痛みによって改めて自らの生を実感する必要から、この場の六人を遠ざけていた。
それから、『第一選別に向けて各人の奮起を祈る』といった内容の薄い定期通信があり、龍弥は一人で風呂に入って床についた。その夜、夢を見る。月明かりに照らされた闇色の影、コールタールを被ったようなドロドロの黒い羽アリの化け物。その四肢から漏れだす液体は、地面を伝い、鉄塊を溶かし、死体を泡立てる。何処に目があるとも分からない黒い顔がこちらを向く。恐怖に身体が動かなくなる。眼前で、長い脚が振り上げられる。そして――。
「うおぁあああああぁああ!?」
彼が情けない叫び声だと自戒したのは、ベッドから勢いよく転がり落ちて二分ほど経ってやっとだった。息を整えながら、壁面に手を付け、天井の光量を上げる。当然二度寝する気分にはなれない。冷たい夜、彼はひっそりと部屋を抜け出した。
足を進める。簡易なテーブルと椅子しかない深夜の大広間には、意外なことに先客がいた。湯河原ロウズだ。彼女もまた良くない夢で目が覚めたらしく、悪い汗をかいており、呼吸も浅い。彼女は自身と同じような様子で廊下から現れた彼を認めると、黙って隣の椅子を促した。
沈黙が流れること数十秒、短い黒髪の女性がゆっくりと口を開く。
「
彼女は淡々と語る。跡取りのいない旧家、そこに生まれたのが、先天的に身体の弱い彼女だったこと。そして、諸能力までがことごとく劣っていて、少なくとも家門に相応しくなかった彼女が、あらゆる場面で疎まれ、酷い仕打ちを受けてきたこと。ロウズはふらりと立ち上がる。立ち上がって、右手に燃え立つ炎の剣を顕現させる。
「だから。あの日、あの夜。私を厄介払いした奴らが、目の前で化け物に殺されていったのは、私にとって不幸じゃなかった」
剣を振るう。空気が揺らめき、熱波が軽く龍弥の頬をなでる。彼は聞いていたので知っている。庭園さえ備えた六階建ての豪邸。そこに鹿に似た黒いコールタールの怪物が現れて、彼女の家族を殺してしまったところまでは。
家族や、友達が無事かどうか。二回生になってキャンパスが変わり、入ったばかりの大学の寮で襲われた龍弥は、そのことをなるべく気にしないように努力をしていた。自分のことで発狂しそうになるほど手一杯な現状で、全てを引き受けては身が持たない。無事を祈る。それが自分に出来る唯一のことだと思っていたし、已愛たち他のみんなもそう考えるだろうと思っていた。聞いた限り、例外はロウズだけだ。
「けど、私は怯えることしかできなかった。アレは、私が祈った奴らへの天罰じゃなかった。怪物は、変わらず私にも襲い掛かってきて、それで――」
その夜、きっと彼女の周りには敵しかいなかった。何度も、何度も、ロウズは幻影を斬り刻むように虚空に剣を振るう。――それからは覚えていない。少し経ち、そう言葉を区切って、彼女は鮮血に似た色の武器を手元から消し、席に着いた。
「ここにきて、私は自分のダメさに嫌気がさした。割れる皿だったらもう五〇枚は割っていたと思う。洗濯だって適当。部屋の鍵もなくしたから、いまは已愛のところに泊めてもらってる。気付かないうちに誰かに酷いことを言ったかもしれないし、何よりあなたを殺しかけた。人並みに接してもらっても、結局、私は私のままだった」
いまでは家族みんなに同情するよ。私だって私みたいな奴は要らないと思う。うつむいたロウズの口から笑いが漏れた。淡々と語る彼女は、もう横に座った龍弥を意識してはいなかった。無暗に広く明るい深夜二時の空気は、透明な後悔の涙の奥に控えたサイケデリックな彼女の本当を簡単に引き吊り出していく。
「……だから、きっと私は生まれるべきじゃなかったし、あのとき死んでしまえばよかった」
最後まで言い終わって、ロウズの虚ろな目が不意に横に滑って龍弥を捉えた。途端に暗く沈んでいた濃紺の瞳が光を取り戻す。あ、ごめんね、えっと、いまの聞かなかったことにして、お願い! 俄かに椅子から立ち上がってわたわたと慌て始めた彼女に、龍弥も反射的に頷くことしかできない。
ここまで語られてしまったら、どうして良いか分からない。それが珍しくもない二〇年を生きてきた彼の正直なところで、言葉を求められないならそれが一番だった。
自分は彼女より上等な人間だろうか、再び幕を下ろした沈黙の中で、ふと龍弥は考えた。ロウズのように、何事も不得意というわけではない。運動も平均程度には出来るし、通っていた大学だってまだ上から数えたほうが早い。
だが、何より自分は卑怯だ。そう彼は思った。彼だけが、この『奇跡館』に閉じ込められた全員分の能力を知っていたし、協力して脱出しようと言っておきながら、そのことを誰にも話していない。他の全員を殺してでも、自分一人が生き残る。そんな覚悟もなく、ただの臆病のために隠しているだけだ。
「ねえ」
ばつが悪そうに大広間を後にしようとしたロウズを、龍弥は呼び止める。
「湯河原さんは、何が好き」
一人残される沈黙が、自分の矮小さをくっきり輪郭付けるのが恐ろしくなって、彼は勢い話を振った。虚を突かれたような表情になったロウズは、うーんと顎に手を当て考える。
「絵を描くこと、かな」
とんでもなく稚拙に思える絵にも、時折数億円の値が付くように、誰に否定されたとしても、そこに何かの価値があると信じることができるから。抽象画専門なんだけどね、と付け加えて彼女は嘘のない笑顔を見せた。
「龍弥くんは、好きなもの、なに」
足を戻し、彼の隣の席にとすんと座って、彼女は尋ねた。汚い逃げから振った話題を純粋に問い返され、龍弥は反対に考え込む。好きなこと。アニメ、カラオケ、それから……。特に入れ込んだ覚えのない当たり障りのない小石を必死に浅い自分の底から退かしていくと、ひとつだけ、まだまともな大きさの岩に手が当たる。
「――演劇だね。高校のとき、部活に入っていたから」
この大広間のように端から端まで白くつまらない人生のなかで、少しは色があると言える趣味。熱を入れて舞台を作った友達との記憶。思わず笑顔が漏れる。真っ直ぐなロウズの言葉と長い思考の波に攫われて、少し前まで彼の心を埋めかけていた黒い影はほとんど流れ去ってしまっていた。
「へぇ、じゃあ将来は俳優になったりするのかな」
「じゃあ湯河原さんは画家だね」
ロウズの言葉に龍弥が返して、ぶふっと二人して吹き出した。自分がそこまで上等なものだとはお互い思っていない。それながら、相手の口から大層なものが出てくるのが滑稽で仕方なかった。
悪夢を見た。けれども、昨日の昼間のカラオケ大会といい、ここ数日は久し振りに楽しい時間を過ごしているという実感があった。深夜二時三〇分。大広間に響く笑い声は、本当に澄み切って階段口まで突き抜けた。
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