お風呂事変

 一瞥もくれないオートノミーを残して、立ち去る。

 図書室は虫だらけだった。足元を中心に随分と汚れてしまった龍弥りゅうやは、そのまま同じ階にある風呂場に向かった。更衣室でさっと服を脱ぎ、伸びをしてから、これまた鈍色の扉を開ける。

 男風呂は必要最低限の大きさで、入り口近くに三セットの椅子とシャワーが備え付けられていて、浴槽は五メートル四方のものと、その半分くらいの大きさのものがあった。小さい方は水風呂だ。龍弥は軽くシャワーを浴びると、そのまま鏡を眺めた。力を籠める。すると、それは簡単に現れた。右頬を中心に顔の半分を覆いつくすような赤黒い紋章。二条令吾にじょうれいごの手背に見たのと同じものだ。あの怪物について、オートノミーに聞いて、ちょうど全員に声をかけたことになる。しかし、以下の三つを除いて重要そうな情報は得られなかった。

 少なくとも食堂組の五人に関しては、自宅を含むあらゆる場所で、それぞれ別の形状をした怪物に襲われたこと。それらの怪物の体色は共通して漆黒で、コールタールのような液体を滴らせていたこと。そして、怪物に攻撃を受けた部位を中心に赤黒い紋章が浮き出ること。

 怪物以外に形容できないアレ。アレの正体が分かれば、自分たちの状況についての理解はずっと深まるはずだ。『奇跡館きせきかん』と呼ばれるこの建物のことも、『紋章権能もんしょうけんのう』と呼ばれるこの意味の分からない力のことも。

 パシャっと、桶の水で勢いよく顔を洗う。羽アリの爪が傷付けたであろう場所に浮き出た禍々しい紋章は、それで嘘のように引いていく。オートノミーと会って疲れたのか、少し頭が痛い。このまま浴槽に入ってもめまいが起きそうだ。龍弥は立ち上がり、息を吐いて、ガラガラと更衣室に繋がる扉を開く。

「えっ」

「あっ」

 声が重なる。ふらつき気味の龍弥の前に突然一糸纏わぬ裸体をさらしたのは、まずいことに男性ではなかった。湯河原ゆがわらロウズ。短く切り揃えられた黒めの髪に濃紺の瞳、血の通った健康的なピンクの肌をした彼女は、全裸の青年の前に立って一瞬で頬を紅潮させた。自分が風呂の男女を間違えたか。いや、そんなはずはない。表情が固まったまま思考を続ける龍弥の脳に、彼の能力から来る無音の警報がこだました。能力が発現する。目の前で。

「うぁあああああああああああああああ!」

 ロウズは叫んだ。叫んで、両手に握った燃え上がる炎の剣を真っ直ぐ振り下ろす。混乱しているのか目の焦点があっていない。龍弥はそれを転がって躱すが、ショートカットの彼女は獣を追い散らすように追撃してくる。彼女の右足の太ももに赤黒い紋章が広がっているのを事故的に確認しながら、龍弥は滑りやすい浴場を駆ける。

『帯熱した剣を生み出し、操る』。そんなシンプルながらも強力な能力を備えたロウズとこの風呂場でぶつかるのは、想定できる中では最悪の事態ではなかった。ロウズが病弱であることは彼女自身の口から聞いていたし、何より彼女には体力がなかった。近場にあるもので攻撃を弾きながら逃げ回る。この『奇跡館』の設備は、『紋章権能』では破壊できない。本来鉄を熔かすほどの炎熱を秘めた剣は、プラスチックの質感をした白い桶で何とか防ぐことが出来る。

 しかし、龍弥も運動部に所属した経験があるというだけで、自衛隊や警察に関わりがあったり、セミナーなどで特別な訓練を受けたりなどしたことはない。もうすでに息も絶え絶えながら、明らかに触れたらおしまいな音を立てて赤く輝く剣を振り回して近付いてくる人間は、誰であろうと脅威であることに変わりない。

 さらに言うなら、この状況下の彼女に、龍弥は良い思い出がなかった。

 湯河原ロウズ。彼女は決して悪人ではない。人が良く、初日からトラウマを抱いてしまったらしい小柄な少女、榎木園已愛えきぞのいあを慰めたり、五人組の中でも積極的に脱出案を練ってくれたりしている。

 ところが、彼女には二つの大きな欠点がある。

 一つは、単純に諸能力が低いこと。識字能力、思考力、持久力、感覚の鋭敏さ、単純な知識量に至るまで、彼女は日常生活に関する諸能力の才気が軒並み人並み以下だった。個々の分野ではささやかで気付かないが、それらがすべて合わさり、漠然と「何をやってもダメな奴」という印象を彼女に与えていて、彼女もそれを自覚していた。

 もう一つは、ここにきて最初の欠点よりずっと厄介なこと、つまり、頭に血が上ると長いことだ。

「湯河原さん、待ってくれ。落ち着いてくれ。俺が間違っていたら謝る、直ぐに出ていくから、一旦それを――」

 龍弥の叫びも空しく、彼が飛び入った冷水の浴槽に、炎熱の一撃が見舞われる。一瞬で湯が沸き立ち、たまらず龍弥は隣の大浴場に転がり込んだ。時間差で、水風呂に刺さった炎の剣が急激に温度を上げる。

 炸裂した水は、爆散する水蒸気となって大浴場の水面を駆け抜けた。息が切れ、顔を出しかけた龍弥は再び深く沈みこむ。揺れる水の中で考える。『行使されていない限り、他人の能力を行使出来る』。これを自分が持っていることが明らかになるのは避けたいが、いまここで死にたくはない。

 二条令吾『紫電を孕む殻を生み出し、拡げる』。大浴場の床に、今朝見た壁を勢い良く押し当てる。それは当然床を破壊することはないが、反作用の効果で、踏ん張りの効かない水中から龍弥の身体を斜めに飛び出させる。軽く宙に浮き、火傷をする間もなくタイルの床を転がる。派手に擦りむいたが関係ない。慌ててロウズの様子を確認すると、同じく何度かこけたのか血が出ない程度の擦り傷にまみれた彼女は、ほとんど嵩のなくなった水風呂に座り込んで不思議そうに辺りを見回していた。

「え? 何で私、え?」

 彼女は龍弥を認めると、自分のありさまを振り返り、じんじんとした痛みに顔をしかめながらも、慌てて足早に更衣室に戻っていった。一応事は収まったらしい。二〇分ちょっとの間をおいて、龍弥も風呂を出た。改めて確認すると、そこはやはり男風呂で、間違えていたのは散々暴れまわったロウズの方だった。

 階段を上る。同い年の女性の裸体を見て、命の危機にさらされて、心が動かなかったかと言えば嘘になる。けれど、それはこの施設で目が覚めるより前と比べて、ずっと些細なものに龍弥には感じられた。

 一般人とかけ離れた何かを生まれながらに持ってはいなかったし、後天的にも獲得した覚えのない彼は、自身のこの異常を、何となく『奇跡館』のせいだと結論付けた。

 白一色の施設での生活が、自分の心を鈍色に染め上げ、少しばかり果敢で、大いに無謀な行動に走らせているのかもしれない。

 あるいは、『紋章権能』を含めた『奇跡館』の奇跡が副作用として身体に化学的な影響を与えているのかもしれない。

 それは疲れによる思考停止が生んだ答えだったが、どうあれ間違いなく正解の一端は踏んでいるに違いないと彼は雑に確信していた。

「半死者の皆様。本日も笑顔でお過ごしですか。『奇跡館』が拡張され、地下階第二層が開かれました。第一選別に向けて、自身を高めては如何でしょうか」

 龍弥が個室のある最上階の奥の部屋、大広間に辿り着くと、軽快な音楽が響き、定期通信がはじまった。定期通信とは毎日の夕方にどういう訳か脳内に響く一分程度の音声のことで、一日目は『紋章権能』と呼ばれる能力について説明が行われ、二日目は『奇跡館』の各施設についての情報が開示された。施設自体が拡張されるというのは、今回が初めてになる。

「あ、皆嶌さん。どうも」

 ほとんど全員が自室に戻っているらしく、学校の視聴覚室ほどの広さがあり、簡易なテーブルと椅子が備えられた大広間には、龍弥の他に、榎木園已愛がいただけだった。身長一五〇センチ前半、同世代の女性であるロウズと一〇センチ近く差がある小柄な彼女は、無言で彼の前を通り過ぎたかと思うと、何かに気付き、パタパタと引き返してきて、その袖を引っ張った。

「怪我をしているじゃないですか。処置をしますので、治療室へ行きましょう」

 よく見ると、引かれてない方の手の袖が腕から細く滴る血で茶色く滲んでいる。風呂場で擦った痕だ。更衣室で着替えているときにタオルで止血したつもりだったが、不十分だったらしい。龍弥は已愛に引っ張られるままに階段を降り、食堂と図書館の横を通り過ぎて、突き当りにある治療室に辿り着く。扉を開き、龍弥をベッドに腰かけさせた已愛は、腕を捲らせ、近くの棚に備え付けてあった薬剤を使い、慣れた手付きで消毒を始める。

 榎木園已愛。ほとんど表情のないこの少女のことを、意外なことに龍弥は他の誰よりも知っていた。

 切っ掛けは、一日目の夜。眠れない龍弥が、何か脱出の手掛かりはないかと地下階を徘徊していたときのことだ。彼が治療室を訪れると、ごそごそと奥の方から音がした。誰かがいるのか。そう思った彼がこっそり足を進めると、大きな棚の陰に隠れ、ありったけの薬剤を飽和させたサイケデリックな色をした液体を、立ったまま瓶ごと一息に飲み込む已愛と目が合った。

 龍弥にはその液体に入っている薬剤が何なのか分からなかったが、少なくとも常人が口にしていい量ではないことは明らかだった。しかし、何をしているんだと、彼が叫ぶことはなかった。龍弥は常時発動している『自分より小さなものに害されない』という已愛の能力を知っていたし、それ以前に咄嗟に声が出なかった。

「こういうのは、慣れない人が手を出すと良くないんですよ」

 龍弥が改めて聞いた已愛の声は、彼が思っていたよりずっと低く静かだった。突然現れた彼の姿を認めた彼女も、特に取り乱した様子はなかった。撃たれてからロウズにくっついて行動していたことを思うと、龍弥には落ち着いた調子で話す目の前の小柄の少女の様子が信じられなかった。服薬はたったいま。薬剤のためというより、いまの彼女こそが榎木園已愛の本来の姿だとすれば、いままで彼女は「怯えた」フリをしていたのか。困惑した龍弥に気付いたのか、小柄な少女は瓶を洗面台に置くと、一言だけ返した。

「これからどうなるか、わかりませんから。ロウズさんは、しばらく私を守っていた方が長く持つと思います」

 持つ。已愛が使ったその言葉の現実味を伴った鋭利さが、この『奇跡館』にずっと閉じ込められ、やがて精神が壊れてしまうような最悪の未来を想起させて、重く龍弥の心を刺した。

 三日目、ロウズに襲われて、さらにそれは色を増した。

 時刻は午後四時近く、治療室で処置を終えた後、二人の姿は食堂にあった。

「気が早いね、お二方。デートかな」

 夕食まではあと二時間ある。軽口を叩きながら、調理室の扉から現れたのは、二条市陽にじょういちはるだ。冷凍食品も多く備えられていたものの、「作った方が旨い」という二条兄弟の言の元、兄の令吾れいごと弟の市陽が交代に料理番となって、五人組の毎日の食事は回っていた。今日の夕食は、茶髪に染め、ピアスにまみれた、ビジュアル系な弟の担当だ。彼は二人をからかった後、派手な付け爪を外してポケットに入れ調理室に戻ったかと思うと、数分で食器付きの小皿を二つ用意して食堂端の小さな四角いテーブルに着いた龍弥たちの前に並べる。

 已愛の方には、バナナのスムージーボウル、龍弥の方には、ジャガイモ、ピーマン、ベーコンを混ぜた炒め物だ。突然のことながら二人が礼を言うと、エプロンをしたキザな青年は、「ごゆっくり」と片手を振ってまた調理室に姿を消してしまった。

 助けられている、と龍弥は思った。已愛に、令吾に、市陽に、今朝、起きたときには、ロウズにも。純のように、他人に牙を向くことも、オートノミーのように超然として近寄り難いこともないが、しかし、龍弥には、この閉鎖空間でとりわけ誰かの助けになる才気はなかった。

『行使されていない限り、他人の能力を行使できる』というのが、凡人の彼の能力。この力を明かせば、何かの役に立つかもしれないし、これを利用した脱出案を誰かが思い付いてくれるかもしれない。

 しかし、それは不可能だった。まだ、何も分からない状況で、いざというときの自分の生存のための切り札をさらすことは出来ない。龍弥は豪胆な令吾や、衝動のままに力を振るったロウズとは違った。

 五人のグループにも、互いをある程度信じながらも自らの能力の詳細は教えないという暗黙の了解があった。そして、龍弥は能力の性質上、誰がどんな能力をどの程度の強度で行使しているか常に把握している状態にあり、この了解を真っ先に破っていた。現状を分析してここから逃げ出すことは、間違いなく一人では出来ない。しかし、いつまでも一歩を踏み出せない彼は、協力的な態度を示して集団に貢献し、事態を好転させる役回りには向かなかった。

 龍弥の心に、ここにきて何度目かの暗い影が落ちる。五人で見て回った結果、調理室に毒物はなかった。食器は破壊出来ないから、破片を食べ物に混入させることは不可能だ。それでも、調味料は量を変えれば容易に人を殺すし、調理の仕方によって毒物を生み出すこともあるだろう。調理室に置いてある爪楊枝や、個室にあるクリップなど、そのままの大きさでそっと隠して食事に混ぜることができるものも山ほど見てきた。日常のどの瞬間であっても他人を傷付けることは余りに簡単で、疑い始めれば際限がない。

 サイコパス染みた青年や寄生種の女王然とした女性と対峙したときとはうって変わって、用意された美味しそうな炒め物を素直に喜べない自分に、龍弥は思わず気分が悪くなった。

 怪我をしたずっと後に傷が驚くほど痛みだすように、過ぎ去ったはずの危機が恐怖となって喉を干上がらせる。ぐらぐらと、椅子が揺れるような心地がする。命の危険がある中で、出された食べ物を疑う。良く考えれば当たり前だ。当たり前のはずだ。死ぬこと、それは何よりも避けなければならない。

 いや、待て、自分はそもそも生きていると言っていいのか。記憶があった。この施設は、この能力は、そして、あの恐ろしい怪物は何だ。能力を発現しようとするときの紋章は、怪物に傷付けられた部位を中心に浮き出る。令吾は右の手の甲だった。なら、立ち向かったかもしれない。ロウズは右の太ももだった。なら、逃げ切ったかもしれない。自分は、顔面だった。頬から顔半分を覆うように赤黒い紋章が拡がった。あれが、あれが正しいなら、生きているはずが……。

「大丈夫、大丈夫ですから」

 目が泳ぐ、心臓が高鳴り、喉が干上がる。いまにも発狂しそうになった龍弥に向けて、やけにもぐもぐとした声がする。彼がはっと顔を上げると、小柄な長い黒髪の少女、已愛が彼の前に差し出された炒め物をスプーンで勝手に掬って食べていた。

「食べても大丈夫ですから。ほら、話を続けましょう」

『自分より小さなものに害されない』彼女の能力の特性上、已愛は体内に含んだ本来害あるものに気付くことが出来る。毒見にしては結構な量を持っていきながら、彼女は優しく、落ち着かせるような笑顔を龍弥に向けた。

「榎木園さん。おかしな言い方かもしれないけど、君は、強いね」

 食事を終え、龍弥は言った。本当のところ、彼はどちらかと言えば自身が已愛を守る力関係にあると考えていた。けれど、彼女の話し方、話の聞き方を通じて、それが全く違うと思い知らされた。会話をするだけで不安を取り除くような彼女の在り方。それは、手に入れたばかりの彼女の能力や、あるいは初日に飲み込んだ薬剤といった表面的なところから来るものではなかった。

「私は、誰かに希望を与えられるような人になりたいんですよ」

 已愛は、ありがとうございます、と一旦区切って話しはじめた。高名な登山家であった彼女の父は、彼女が八歳のときにクレバスへの滑落によって亡くなったという。報道関係者には、生涯山を追い求め、家庭を顧みることがなかったことを責めるものもあったが、已愛たち家族はそうではなかった。とりわけ、已愛にとっては、数々の名峰を巡り、白銀の雪と黒い岩肌に足跡を刻みながら、世界に人間の可能性を知らしめた父は間違いなくヒーローだった。

「だから。わたしだってなれるはずです。父の跡を継いで、みんなが希望を抱いてくれるような、素敵な人に」

 目の前の小柄な少女の目には激しい炎が燃えていて、それは冬日の暖炉のように、龍弥の心に灯りと熱を与えた。

 しばらくして、夕食が近づく時間帯になると、ふらついた足取りで、短い黒髪の女性、湯河原ロウズが顔を見せる。彼女は龍弥を見るなりとても申し訳なさそうな表情になりながら、逃げるように中央のテーブル席へ座った。已愛はそれを確認して、空になった自分のスムージーボウルを調理室に返却すると、パタパタとロウズの方に走っていく。

「こいつは、振られちまったかな」

「そんなんじゃないさ」

 調理室から様子見がてら顔を出した市陽は、一人ぽつんと食堂端の小さなテーブルに取り残された龍弥の元に歩み寄ると、面白そうに肩を叩いた。龍弥は言葉を返しながら、市陽と共に、已愛とロウズが話しているのを微笑ましく見守った。

「美味しかったよ。ありがとう」

「そりゃどうも。お粗末様でした」

 青年二人は、全く別の方向に歩き出した。暖かい空気に満たされた食堂には、もう何の暗い影もなかった。

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