純とオートノミー

「こんなところにいたのか」

 二回目となる脱出会議が行われた日の昼過ぎ、五人での昼食を終えた龍弥りゅうやは、この施設の最も下階にあるランドリーで、竹平純たけひらじゅんを見つけた。名前に似合って、見た目だけは純朴そうな青年は、初日の暴挙が嘘に思えるほど曇り一つない晴れやかな笑顔で声をかけてくる。

「あ、龍弥くんじゃないか。元気してた」

「あぁ」

 簡単に殺せそうだから、殺そうと思った。

 優れた一名だけがここを去ることが出来る。提示された文章を文字通りに判断したらしい彼は、誰が止める間もなくいきなり行動に移したようだった。人を殺すとするなら、殺した側が優れていて、殺された側が劣っている。純が持つ余りに枝葉のないドグマは、龍弥には理解出来るものではなかったが。

 昨日は早く手が出ちゃって、ごめんね。二日目、つまり昨日。爽やかな笑顔で食堂の五人の前に謝罪に来た純は、怯える已愛いあ、怒れるロウズ、そして警戒する二条にじょう兄弟によって瞬時に追い返された。この男は気が触れている。人間として大切な倫理観や、その他の常識がねじ曲がっている。龍弥もまたそのことに当然気付いていたが、とりわけこの殺人鬼との接触を必ずしも避けなければならないものとは思っていなかった。

 それは、龍弥自身に与えられた奇跡、『紋章権能もんしょうけんのう』に関係している。発現した彼の能力は『行使されていない限り、他人の能力を行使出来る』というとんでもないものだった。

 龍弥はその能力の性質上、誰が自身の能力をどれほどの強さで行使しているのか常に把握している状態にある。つまり、『紋章権能』による一切の不意打ちは事実上意味をなさないし、それを利用して何かしらの反撃を加えることも出来る。使う人間が使えばほぼ最強に近く、なおかつ卑怯な感すらある能力だ。この『紋章権能』について、彼は誰にも話していない。

「あの怪物について、憶えていることはないか」

 洗濯機に昨日着た服を押し込みながら、純に話を振る。龍弥が気になっていたのはそこだった。思い返す。彼の前には崩れ去ったマンションとそれに埋もれた数十人分の死骸があった。羽アリのような見てくれの怪物が、その上に鎮座していた。月明かりを浴びて黒々ときらめくその巨大な身体から、コールタールのような液体が滴り落ち、鉄塊を溶かして、死体を泡立てる。漂う腐臭も感じ取れない恐怖の中、不意に振り上げられた怪物の爪が龍弥の顔面に迫って。

 初日から事あるごとに脳裏をよぎる謎の化け物の映像。思い起こすたびに背筋を凍らせるあれが一体何だったのか、気にならない訳がなかった。

「憶えているとも。龍弥くんには逐一語って聞かせても良いけど、君と僕の不快以外、生み落としそうにないね。ここが何処で、僕らがどうしてこんな状況にあるのか、そのヒントにはとてもなりそうにない」

 会話の二手ほど先を読んだ答えを返しながら、純は畳んだ洗濯物を持ち上げる。目が覚めたとき、各人の服はそれぞれの普段着であったものの、ポケットの中にあったはずの携帯電話などはなくなっていた。そして、この『奇跡館きせきかん』と呼ばれる建物の各人の個室に用意された服は、何の意匠も施されていない白衣だった。

「あれについて答えられそうなのは、一人しかいない。それは、龍弥くんも分かっていると思うけど」

 爽やかで悍ましい笑顔とともに、純はランドリーから姿を消した。残された龍弥は静かに心臓を落ち着ける。純が指した一人に声をかけてみるのは、目の前で少女に銃弾をぶちまけた青年に声をかけるより、ずっと勇気の要ることだった。

 廊下を進む龍弥に、羽音が聞こえる。それは次第に大きくなり、図書室の扉の前に立った瞬間、耳を覆いたくなるほどに増す。

 深く息を吐いて、鉛色の重い扉を開く。図書室は直方体状の二階層の広間を中央で縦に抜いた構造になっており、円柱状の吹き抜けのホールに沿うように大きな螺旋階段が伸びている。上下階ともに書架は部屋の左右に設置されており、二つの書架の合間の大きな空間は椅子や机などの読書用のスペースとなっている。職員のカウンターは中央ホールの奥面に弧を成し、弧に嵌め込まれた鉛の扉から、さらなる部屋と閉架図書の存在を確認できる。

 照明は壁面と天井に埋め込まれているようにしか思えない様子で、床以外の五面が淡く白い光を放っていて、他の部屋と同じく窓はない。前衛的なデザインと割り切るなら、あり得ないことはない図書室、そのはずだった。

 あり得なかった。かさかさと、モノがうごめく音がする。扉を開け、ついに耳を抑えた龍弥の視界に広がったのは、広い図書室の床を覆いつくすように散らばった蔵書の群れだった。書架から飛び出した無数の本が、寄せては返す波に似て、足元をくるぶしまで埋め、あるいは跳ね、あるいは転がりながら動き回っている。

 意味が分からない。思わず目を逸らすように顔を上げると、蔵書は天井からも透明な糸によって釣り下がり、落ちていく鳥が羽ばたくようにバサバサとそのページが捲られていく。もはや木漏れ日染みた五面の壁の明かりが図書の水面に揺れる。

 何だ。その枯れ葉色の瞳は、二の足を踏んだ闖入者を吹き抜けの図書館ホール中空から見下ろした。背からはところどころ破れた青水色の羽が生え、着込んだ何の意匠もない白衣の上からは煌めく細い糸がドレスのように垂れ下がり、どちらもが虹色に光を照り返している。

 図書館ホールの四方の柱に結び付いたつる植物の枝葉が、彼女の元で複雑に絡み合い、深い緑色のブランコに似た形を取っている。『寄生種を生み出し、従える』。オートノミーと呼ばれる彼女の能力は、誰が見てもとんでもないものだった。蔵書を散らばらせたのも、動かしているのも無数の寄生生物であり、彼女から垂れ下がっているのは全て線虫、彼女を支える植物は寄生樹だ。

 汚い、気持ち悪い。恐ろしい。そんな感情を抱いて当然の図書室にありながら、彼女と目が合った龍弥は、もはや見とれているといって良かった。図書室の中空に君臨する枯れ葉色の瞳の彼女のありさまは、まるで森厳とした樹海の女神のようだった。『寄生種を生み出し、従える』。意識が向けば簡単に相手を内部から食らい尽くすことができ、そのまま乗っ取ることさえ可能と思われる凶悪な能力、それが『自分より小さなものに害されない』已愛の能力と同様に常時発動しているため、自身の『行使されていない限り、他人の能力を行使することが出来る』能力によって一時的に借りることも、発動を予測することも叶わない。そう頭では分かっていたとしても、龍弥は顔色を変えて逃げ出すことをしなかったし、敵意が向けられないように祈ることをしなかった。ただ目が奪われ、時間が過ぎる。対面はじっと一分沈黙のまま続き、オートノミーが手に持った本に視線を落としたところで終わった。

 龍弥の足元で、虫の付いた本が跳ねる。いささか正気を取り戻した彼は思わず目をそらしそうになったが、見ると、虫たちは余白には興味がないような素振りで文字の上を選んで這い回っていて、あるページを這い終わると、次のページに潜り込んでそれを続けている。まるで、本を読んでいるようだ。龍弥は思いながら、耳から両手を外し、超然とした女性へと恐る恐る声をかける。

「オートノミー、さん。あの、あの怪物について、何かご存じなことは、ないですか」

 つい敬語になってしまった龍弥だが、対するオートノミーは聞こえているのか分からないような態度で静かに手元の本を数ページ捲ると、端的に口だけ開いた。

「探している」

 その言葉は、視界の限り数百冊の本を捲る音と共に、彼の耳にはっきりと届いた。改めて周囲を見回す。この図書室は、ただ彼女の能力によって荒らされているだけではない。彼女は探している。恐らく、自分が求めているのと同じ疑問の答えを。

 龍弥は、余りに超然的に思えた枯れ葉色の瞳の女性が、ここにきてほんの少しばかり人間らしく感じられた。オートノミーが図書室から出ることはほとんどなく、他の誰も図書室を利用できなかったが、それも仕方ないのではないかと彼は諦めた。

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