奇跡館
――――
八名の皆様。
ここは『
あなた方には奇跡が与えられました。
あなた方のうち、最も優れた一名だけが、報酬を得て、ここを去ることが出来ます。
第一選別は、一〇日後に始まります。
それまでの生活をお楽しみください。
着ている服に覚えはあるが、ポケットに手を突っ込んでみると、その中に入っていたはずのスマートフォンや財布などは一切なくなっていた。
誰もが唖然とする暇もなく、大広間の鈍色の扉が開き、長い廊下が現れる。困惑しながらも足を進めると、廊下には左右に四つずつ、計八つの扉があり、それらは、いつの間にか各人の衣服のポケットに入っていたカードキーによって、一人に一つずつ開いた。数人がそこがビジネスホテルほどの備え付けを持っている個室だと確認するより先に、龍弥を含めた別の数人が下りの階段へと向かった。
降りた階には、同じく長く白い廊下に沿って、図書室、食堂、男女トイレ、風呂場、ランドリー、治療室が配置されていた。全ての設備を確認して食堂へと戻ったころには、遅れていた何人かを含めて、全員がそこに揃っていた。学校の教室程度の大きさの食堂の奥の扉を開けると、同じ広さの調理室があり、床に埋まるように置かれた貯蔵庫が姿を現した。
足を戻した食堂で、その場の全員の頭に目覚めてからずっとこびり付いていた疑問が、無視できないほど大きく膨らむ。
「わたし、死んだはずじゃ――」
最初に口を開いたのは、八人の中で最も小柄な女性、
龍弥には、夢のような記憶があった。いつも通りの日常を送っていたある日、大学から自宅に帰ろうとした彼の目の前に、余りに鮮烈な何かが現れた。四メートル近くうずたかく積った鉄筋コンクリート九階建てのマンションの残骸と、埋もれて腐臭を放つ数十人分の亡骸、そして、その丘の上に鎮座した羽アリのような見てくれの黒く巨大な怪物。
息が止まる。一瞬真っ白になった脳が酸素を再び得たころには、怪物の姿は龍弥の目の前にあった。前足でさえ龍弥の身長を超える巨大な羽アリ、月明かりを浴びて黒々と輝くその身体から、コールタールのような液体が滴り落ち、足元の鉄塊を溶かして死体を泡立てる。匂いも感じ取れなくなるほどの恐怖の中、不意に振り上げられた怪物の爪が、彼の顔面に迫って。
はっと気を取り戻して辺りを見渡した龍弥は、ほとんど誰の表情にも同じ恐怖と驚愕が浮かんでいることを見て取った。生きているはずがない。生きていたとして、五体満足なはずがない。それなのに、生きている。生きていて、身体の何処にも掠り傷一つない。
あなた方には奇跡が与えられました。
あなた方のうち、最も優れた一名だけが、報酬を得て、ここを去ることが出来ます。
戸惑う誰しもの耳に、再び先ほど聞こえた合成音声の一部が繰り返される。
「えっと――」
そう、誰かが口を開こうとした。『奇跡が与えられた』と、合成音声はそう言った。それは、いま脳内を巡った余りに生々しく、夢とも妄想とも否定できない映像が本当に起こったものであることを確からしくする言葉だった。
みんな状況は同じようだ。龍弥を含めた数人が目線を彷徨わせる。ここまで、ろくに会話もなしに歩いてきた。けれど、分からないことが多すぎる。何とか誰かに話しかけて、情報を共有し、まずは状況の整理だけでも……。名前は最初に見た顔写真の映像にあった。彼は最初に声を上げた、榎木園已愛という少女に目を向ける。
――そこで、見えた。已愛を抱き留める湯河原ロウズ。彼女たちの正面に立つ
「おい――!」
龍弥が叫ぶ前に銃声が響いた。数にして六回、およそ三メートルの距離で撃ち放たれたリボルバーの弾丸は、ロウズの盾となるような形で已愛の全身に叩き込まれた。悲鳴が上がる。龍弥を含めた数人が距離を取る。青年が弾切れの銃を宙に放ると、次の瞬間、彼の同じ手にはオートマチックのハンドガンが握られていた。
彼はそれを弾丸を受けていないもう一人のショートカットの女性の方に向けるが、そこで少し驚いたように薄く目を開く。正面に眩いほどの炎熱を発する紅の剣を振り上げたロウズの姿が映っていたからだ。純がそれを躱すと、燃え立つような怒りの形相が追撃する。吹き散らされる風。連続する爆発にも似た武器同士のぶつかり合いが続くが、それを制したのは殺人鬼にも足る笑みを崩さない青年の方だった。
乱雑に打ち付けられるマグマにも似た切れ味の剣を次々と出現するロングバレルの銃器で簡単にいなす。一切の怪我も負わない青年に対し、およそ一分で女性の体力が限界を迎えてその足元がふらつきはじめた。
大きな隙だった。だから、いままで状況にのまれるままに見ていた人間が動いた。純が足払いをかけて、ロウズを組み敷き、後頭部に拳銃を押し当てるより先に、彼らの間に二条兄弟が飛び込んだ。体格の大きい兄、
静寂。青年、純は深く息を吐き、大きな標的に腰を低くする。令吾は変わらず、無言の圧で眼前の敵を見下ろす。気迫が違う。一触即発だ。二人の間に静かな火花が散る。意味も分からず二回目の衝突が始まる。
そう、ほとんど誰もが息を呑んだが。
「お、おい! やめろ、あんたたち!」
必死に叫ぶ声が響く。足をもつれさせながらも二人の間に走り込んだのは、他の誰でもない、
「怪我人が出る前に、とにかく、一旦落ち着いてくれ! 俺たちがいまするべきなのは、こんなことじゃないだろ!」
怪我人が出る前に。その言葉を聞いて、二条兄弟とロウズが、銃弾で撃ち抜かれ床に寝かされたはずの小柄な少女、榎木園已愛の方を向く。聞こえる静かな衣擦れ。彼女は、何事もなかったかのように上半身を起こして呆然と周囲の様子を眺めていた。その身体からは一滴の血も流れていないし、一つの傷もない。ただ、撃ち放たれた六発分の弾丸だけが、彼女の口から咳と共に吐き出される。
ほとんど誰しもが絶句した。
静寂の中で、カランと弾の床に跳ねる音だけが響く。
あなた方には奇跡が与えられました。
あの言葉がまた脳を過る。奇跡。撃たれた瞬間を完全に目撃していた龍弥と、撃った張本人である純だけが『自分より小さなものに害されない』という榎木園已愛の超常的な力の発現の瞬間を、直接確認していた。純の銃器や、ロウズの剣などを含んだそれが『
沈黙は長く続かなかった。悲鳴も上げずに一人の女性がその場から逃げ出した。長く艶やかな黒髪に、美しい容姿。
「……」
食堂の入り口に立った二人目の女性は、薄い水色の長髪を掻きながら振り向くと、その枯れ葉色の瞳で、龍弥の姿を認める。瞬間、彼女の白磁のような頬が静かにうねった。それは、細長い何かが皮膚の内側を泳いでいったような動きだった。
数十秒前に逃げ出したもう一人の女性の姿は脳から弾き出されていた。見合った。ただ、それだけで、心臓までが水色の髪の彼女の瞳に吸い込まれるような思いがした。
会話が通じるか疑問だった。価値観が理解できるか分からなかった。
そもそも、彼女が自分を同じ生き物と認めてくれるかも、自信がなかった。
オートノミー。明らかに人に付けるものでない名前。他の、名前からして少なくとも日本国籍を持った人物と姻戚関係があるに違いない全員と違って、彼女は明らかに海外の人間だったし、何なら人間かどうかも怪しいとさえ思えた。
実際に、龍弥と同じくらいの身長をしたオートノミーは、水色の髪、白磁のような肌色、なによりまとう超然的な雰囲気から、神を降ろした人形だと言われればきっと誰しもが納得しただろう。
目覚めてから、ほとんど常に全員の先頭に彼女の姿があった。混乱や狼狽のためにときおり歩みを止めかける誰しもを無視して、彼女は一人進んでいき、それに慌てて龍弥たちが追い縋ったのだった。
背中を見ていただけで、容姿や雰囲気が人間離れしていることには気付いていた。それが、振り向いて、こちらに意識を向けている。
龍弥にとって永遠に思われた一瞬は、物理的にはすぐに終わりを迎えた。
オートノミーは、数分前にあった喉が干上がる争いすら遠くに流してしまうような目線を彼から外すと、優雅で静かな足取りで、しかし降り注ぐ全ての喧騒を食い潰すに足る圧を帯びて、上階の個室に向かう階段口に消えていった。
そのあと、各人は無言で解散の形となった。八人は、それぞれ三日間生活を続けていく中で、皆嶌龍弥、湯河原ロウズ、二条令吾、二条市陽、榎木園已愛の五人からなる集団と、その他の個人に分かれていった。
――――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます