Exchange 【エクスチェンジ】

深澤夜

Exchange

 二番線に入線し、運転士古市ふるいちは一つ溜息ためいきいた。

 今日は夢見が悪く朝からずっとそわそわしている。

 夢の内容は思い出せないが。

 ――何か悪いことが起こるんじゃないか。

 古市のそういう予感は当たる。

 平日の十八時。夕方のホームは混雑していた。

 長いホームの奥に交代の運転士の姿が見えてくる。

 仕業しぎょう表によれば、ここで古市は午後の乗務を終える。

 交代だ。

 列車は何事もなく、停止線ちょうどで止まった。



(ふぅ)



 ここで新宿行き快速と接続。

 快速の追いしを待つ、少しばかりの停車時間がある。

 ホッとして思わずスマホに手が伸びるが、慌ててその手を引っ込める。

 もし乗務中にスマホなどを見てるところを乗客の誰かに目撃されたら、苦情になってしまう。

 手早くブレーキハンドルや時計、鍵などをトランクに入れてふたをした。

 古市は運転席からホームに出て、待機していた運転士と交代する。

 交代運転士は深々とお辞儀じぎをしたままだ。

 ――力が入りすぎてんじゃねえか?

 古市はそう思って、軽く声をかけた。



「お疲れさん」



 すれ違う瞬間――会釈えしゃくのタイミングが絶妙で、顔はよく見えなかった。

 なんだかぼんやりした、色白の――名前は出てこないが、知ってる奴だ。



(何て奴だっけ? よく見掛ける――ええと)



 やっぱり名前は思い出せない。

 それでも古市は、その運転士を確かに知っていた。

 古市はホームを見渡す。

 すぐ横を川が平行して流れる、そこは谷間の駅だ。

 間もなく隣の一番線に快速が入ってくるだろう。

 その座席を逃すまいとあわただしく降り、ホームを走る乗客。

 ――苦情、か。

 わざわざ苦情など入れるような暇人は一人もいないように思うのだが――人の考えることはわからない。

 古市はまた溜息を吐いて階段を上り始めた。




* * *




 乗務を終えて古市は休憩に入る。

 谷間のホームから上がった地上階の事務室、その奥に休憩所はある。

 自動販売機、並んだベンチ、古ぼけて暗い色調のデカい絵画――。

 ふと、さっき交代した運転士の姿が浮かぶ。

 トランクから手帳を取り出し交代運転士の名前を記帳しようとしたが、この段になってもやはり思い出せない。

 交代した相手が判らないなどとバレたらとがめられる。そうなる前に対処しなくてはならない。



(ま、小池に頼んでそれとなく調べてもらうか。それとなくね)



 古市にとっての優先事項は決まっていた。

 ペットボトルのお茶を買い、更に奥のトイレの個室にこもる。

 そこでお茶をがぶ飲みしながらスマホを見ていると、スクリーンに通知が飛び込んできた。



『大丈夫か?』



 非番の同僚、田淵たぶちからだった。

 ツイスターのリンクが貼られている。

 写真四枚付きの投稿。

 時刻は二分前。八千リツイスト。カテゴリー二万二千。

 内容は駅の人身事故。

 写真からそれは次駅の二番線だと、古市には瞬時にわかる。

 凄惨せいさんに散らばった『おマグロ様』が、一、二、三……四。

 それは、最大で四人分もの人体のパーツだ。

 ――何だ。何が起きた。

 古市は目を疑った。

 こんな風に見るからにホームからの写真で『おマグロ様』を全部見られることはない。

 なぜなら通常、人身事故ではかれた人間の大部分は車両の下にもぐり込むからだ。

 だがそこに当然うつっているべき、黄色い車両の姿がない。

 ――列車は?



〝電車逃げた〟

〝処刑列車。セガールが乗ってる〟

〝電車止まらなかった〟

〝速度超過だったし、事故っても警笛けいてきもブレーキもなかった〟



「――あいつ!!」



 今しがた交代したばかりの運転士だ。

 古市は個室を飛び出す。

 事務室のドアを開けると、そこは大パニックだった。

 全ての電話が鳴り、全ての駅員が走り回っている。

 茫然ぼうぜんと、古市はながめた。

 窓口は閉鎖され、外から事務室が見えないよう目隠しの板が張り付けられている。

 通用口では、お客に状況を説明する係の者が出たり入ったりをしながら怒鳴どなり散らしている。

 小池というポニテの若い内勤が、電話しながら古市の横のキャビネットのところに立っていた。

 受話器どころか電話機の本体を持ったままだ。

 彼女は古市を、まるで汚いものを見るように見た。

 一瞬、受話器を胸のところで押さえ、冷たく言い放つ。



「古市さん、パンツ」



 下を見ると、古市はパンツを上げ忘れていた。

 ――鉄道員たるもの、どんな状況でも冷静でいなきゃいけないんじゃないのかよ。

 パンツを上げながら、古市は誰にともなくそううったえる。



「ATSはどうなってるんだ!」

「ATS作動しましたが止まりません! EB解除され、運行中です!」

「地上設備があるだろ! 絶対停止現示げんじしろ!」



 ATSは列車の遠隔制御システムだ。

 緊急EブレーキBを局から発令できるが、車上への停止指示は運転席のEB解除ボタンで無効化してしまう。

 EB解除が押されたということは、少なくとも運転士は意識不明とかではない。

 ――じゃあなぜ停止しない?

 そこまで考えて、古市は「考えても仕方ないか」と思い直した。

 ここは指令センターじゃない。

 他の駅の状況は、即時でも正確でもない。

 ――できることはないんじゃないか。



「タクシー来ました! 応援の人は乗って!」

「内勤二名、駅員四名! 次駅に応援に行ってまいります!



 古市は、大変なことになったなぁ、と思ってスマホを見た。

 ツイスターでも大騒ぎになっている。

 事故を起こした車両がATSを無視して暴走中のことも丸バレだ。



〝ATSって無視できんの? 意味ないじゃん〟

〝地上装置があるから止まるだろ。止まるよな?〟

〝だから打子うちこ式にしとけとあれほど〟



(打子式ときたか。面倒な奴が混じってるな)



 古市はそう思ってフフッと少し笑った。

 地上側の停止装置の配備は急務である――しかし方式についての意見がまとまらず、全駅への配備はずるずると遅れていたのだ。



〝暴走列車、飯田橋をスルー!〟

〝飯田橋で降ろしてもらえないと校了ヤバいんだけど〟

〝運転士寝てるんじゃね? 先頭車両の奴~~~起こしてきてくれ~!〟



(そういえば先頭車両の客、ツイストしてないのかなぁ)



 古市がそう思ってタイムラインをスクロールしてゆくと、新しい写真が何枚かでてきた。



〝神楽坂から暴走列車を捉えた!〟

〝法政から!!!〟



 暴走中の事故車両の写真だ。

 沿線から撮った望遠の写真で、大半は遠すぎたり、ズームしたものはブレている。

 そのうちに、いくつか素人の写真とは思えないものもあった。

 はっきりと運転席が写っている。

 だがそこには誰もいない。

 いや――グレーのぼんやりとした影が運転しているようにも見えるが、人には見えない。



(やっぱ素人クオリティか)



 乗っていないわけはない。

 ただ映っていないだけだ。

 しかしいやな予感もしてきた。

 ごく短い区間とはいえ、無人車両の暴走事故の例がないわけでもない。ATSが全車両に配備された現代でもだ。

 ――オレは、ちゃんと・・・・交代したか?

 交代はした。交代運転士は車両に乗り込んだ。

 だが奴が指差し確認するのを、古市は見ていなかった。

 もしかすると、古市が目を離して階段を上がってから、運転席から逃げ出した可能性も――。

 いやいや、とかぶりを振る。

 次駅への到着は時刻通り。無人で出せるスピードでは絶対にない。



「小池」



 横切ろうとしたポニテを呼び止めた。

 小池という若い事務の女の子――さっき古市のパンツが下がったままだと指摘した子である。



「なぁ、今、あの列車に乗務しているのは誰だ」



 ちょっと待ってくださいよ、と小池は席に着いてパソコンを操作した。



「――え?」



 小池は絶句する。



「記録によると――古市さん・・・・、あなたです」

「は?」

「今日はここで交代しません。いつもなら田淵さんですが、田淵さんは今日非番で――」



 馬鹿をいうな、と古市は自分の仕業しぎょう表を確認する。

 そこには、確かに今日この時刻に乗務を終了することになっていたのだ。

 田淵は非番。それだけは把握はあくしていた。

 さっき古市のスマホに一報を送ってきたのは田淵だからだ。



「そんなわけないって! オレ、さっき間違いなく交代したんだから! ほら、仕業表にだって!」

「古市さん、それ証言できますか?」

「当たり前だろ! 他にも見たはずだ! 誰か、誰でもいい。小池、君は? 交代の奴を見なかったか? ここを通ったはずだ」



 交代の運転士は、必ずここを通らなければならない。



「それが――たしかに入ってきたのはわかったんですけど、それが誰だったかはわからなくって、ただ『いつもの人』としか」

点呼てんこは?」

「知りませんよ。電話でしたんじゃないんですか?」



 なんだそれ、と古市は言った。

 乗務前点呼表にも記載きさいはない。



「じゃ、じゃあ――防犯カメラだ! 映像を見せてくれ!」




* * *




 未智みちは学校の後、友達二人と遊んだ帰りだった。

 コンプレックス東京・ドーム――その略称を、お嬢様学校の未智が口にすることはなかったが――複合施設のロケットペンシルビルのバウンドワンで楽しくワンバンした後、駅のホームで新宿方面下り電車を待っていた。

 平日の夕方だが、駅は家路いえじく人や野球の試合を見る客でごった返していた。



「いやあ、遊んだ遊んだ」

「でもさあ、学校帰りにバウワンはコスパ悪いわ」



 駅から見える、コンプレックス東京・ドームの丸い屋根のプクッとした頂点を眺めていると、目の前を快速列車が通り過ぎてゆく。

 未智も、その友達のユキとハルも新宿の先の住宅地に帰る。



「でもカンダァムのジェットコースターよりはよくね? 千五百円だよ?」

「カンダァムっていうなよ。大きい声で……」



 未智は少し恥ずかしくなって目線を下げると、少し離れたところの線路上に誰かがいるのに気付いた。

 二番線――下りの、つまり未智たちのいるホーム側の線路上だ。



(――?)



 色せたような制服を着て、肌の色も白い。

 手には長い懐中電灯を持ち、それを振ってこっちを呼んでいるようだった。



「――駅員さん?」



 それは確かに――制服も妙に古ぼけて感じるが、言われてみれば駅員だろうか。

 線路の上から手を振って、客に助けを求めている。



「どうしたんだろう」



 それに気づいたのだろうか――少し離れたところにいたサラリーマンのグループが反応した。

 四人のサラリーマン。

 彼らはもう一軒目を終えて酔っぱらってるのか何なのか、赤ら顔で上機嫌そうだった。

 彼らは線路に降り、駅員のほうへ歩いてゆく。



「――ちょっと――危ないんじゃない?」

「大丈夫じゃん? 駅員さんが手振ってるし、電車来ないんだよ」



 彼女らは遠巻きにそれを見守る。

 ホーム上のサラリーマン四人と駅員は、線路に落ちた何かを探しているようだった。

 やがて――カンカンと、列車が接近する警告音がひびいてきた。

 見れば、上からぶらさがった警告灯が点滅している。



『間もなく、二番線に参りますのは、総鷹線各駅停車新宿方面行きくだり列車です』



 アナウンスが流れる。



「――ちょっと!?」

「何してんの!? 電車来ちゃうんじゃん!?」



 ホーム上の客らは少しあわて始めた。

 きょろきょろと線路を見渡すと、さざ波のような不安が広がって行く。



「おい! 何やってんだ!」

「早く上がれ!」



 ホームに降りた四人も、それに気づいたようだった。

 線路上のし方を指差し、何かを叫ぶ。

 未智も振り返って、その指差された方を見た。

 電車のヘッドライト――。

 このホームへ入る、黄色い電車だ。

 迫ってきている。



『The local train of Soutaka-Line bound for Shinjuku will soon arrive at track 2. Please stand behind the yellow warning block』



「おい!! 早くしろ!!」

「誰か!! 手を貸せ!!」



 誰かが非常ボタンを押したのか、けたたましいベルの音が響く。

 客らはいよいよ騒然そうぜんとし始める。

 ユキは両手を祈るように胸のあたりで組んでいる。

 ハルは今にも顔をおおってしまいそうに、両てのひらを顔の前でひろげていた。

 無表情な黄色い車両が、もうすぐそこだ。

 警笛けいてきひとつ鳴らさず、減速もしない。



「反対側へ逃げろ!! あっちだ!! あっち!!」

「助けてくれ!」



 こちらのホームより、向かいのホームの客たちのほうがパニックにおちいっているのが見える。

 向かいのほうがより客観的に見えるのだ。

 未智はもうサラリーマンたちを直視できなかったが――向かいの彼らの様子から間接的に状況を知った。

 電車が到着――。



「誰か――」



 助けを求めた男の叫びは、電車の騒音と、人々の絶叫でかき消された。

 無情だ。

 入ってきた電車は――無情よりもはるかに冷徹れいてつに、線路の上を走ってゆく。

 まるで死刑を宣告するかのように。

 そして――通り過ぎていった。



「――なに。どうなったの」



 震えながら、ハルはこちらを見る。

 未智にもわからない。

 でも絶叫、号泣、嘔吐おうと――向かいの観客たちの反応から、何が起きたのかは明白だった。



「救急車を!!」

「手遅れだ!! 四人バラバラだぞ!!」



 飛びう怒鳴り声は、喧噪けんそう――そんな生易なまやさしいものじゃない。

 大パニックだ。



「に、逃げよう」



 ハルが言った。



「逃げようって――何から」



 逃げたぞ!! と誰かが叫んで、未智はびくりとね上がった。

 逃げたというのはおそらく、突っ込んできたあの電車だ。

 停車駅のはずが、線路上の五人をいて、そのまま走り去った。

 いや――轢かれたのは四人だと、誰かが言わなかったか?



「え、駅員さんは?」

「沢山来たから大丈夫!」

「そうじゃなくて――」



 確かに、大勢の駅員がブルーシートを抱えて飛んでくるところだった。

 大丈夫なことなど何一つない。

 ユキは――と人混みにその姿を探して、未智は目をいた。

 友人のユキはスマホを片手に、野次馬やじうまの後ろから手を伸ばして事故現場の写真を撮っていた。



「ちょっとユキ!! 何してんの!?」



 信じらんない、と思ったがユキだけではない。

 ホームのこちらでも向こうでも、さっきまで大きなショックを受けていたはずの客らは皆、スマホをかざして――写真を撮り始めていたのだ。



「いない! あの駅員がいないぞ!!」



 野次馬の中からそう叫ぶ声がした。

 そう。さっき線路上で客を呼び込んだあの駅員は――。

 現場から消えせていたのである。




* * *




 未智たちは、駅から出た。

 川を渡れば地下鉄の駅がある。

 だいぶ大回りになるが――あのまま今日中には電車は動くまい。

 橋の上で、大挙してやってきたパトカー、救急車、消防車とすれ違った。



「家帰ってお肉出てきたらどうしよう。吐くかも」

「だから見るなって言ったでしょ!! 写真まで撮るなんて!!」

「――見てよ、五分もしないうちに八千リツイスト。テレビ局からもリプ来てる。『通知鳴りまね~』ってやつ」



 チラッと見えたが――とてもテレビで放送できる写真とも未智には思えなかった。

 だが、そこにあの駅員の、古ぼけた制服は写っていなそうだった。

 野次馬もそれらしきことを言っていたが――あの駅員は、ひとりだけ一体どこへ逃げたのだろうか?

 地下鉄のホームまで来ると、次は八分後。

 丁度前の電車が出たばかりで、新宿方面へ向かうホームには人もまばらだった。

 未智はふと、その一角を見て不審に思った。

 前の、少し離れたところにいるサラリーマン四人組。

 ――どこかで見たことがある。



「どうしよ、『今日の七時のニュースで使いたいのでお話しさせてください』だってさ。あと一時間くらいじゃん! こういうときどう返事したらいいの!?」

「ユキさあ……ちょっと落ち着きなよ」

「『公益性をかんがみて許可します』って――他の人が勝手に返事してる! ねえねえ、何なのこのおじさん!」

「静かにしてっ!!」



 怒鳴どなったのは未智だった。

 ユキのことも、突然の非日常にテンションが上がってしまっているのはわかる。

 でも、今未智はそれどころではなかった。



「――ねぇ、あの四人組――見て」



 サラリーマン四人組は、もう一軒目を済ませてきたのか、ほろ酔いの赤ら顔で上機嫌そうだった。

 その横顔をどこかで見た。

 しかもついさっき。

 最後の声を覚えている。

『誰か』――だった。



「あの四人って――そうだよね・・・・・

「未智――考えすぎ」



 ハルは眼鏡を押さえて、その四人を遠巻きに、しかしじっくりと観察してから言った。



「考えすぎだよ。たしかに、一瞬ギョッとするけど――だって――そんなわけないでしょ」

「――だよね。でも私だけじゃない。よかった」



 幻じゃない。それが確かめられただけで充分だった。

 他人の空似そらに

 そういうこともあるだろう。

 たとえそれが四人そろっていたとしてもだ。

 しかし――ユキは最前までと違い蒼白そうはくになっていた。



「でも、アレおかしいって。似てるどころじゃない――。一人ならともかく、四人とも・・・・っておかしいでしょ!?」

「おかしくないでしょ。あんただってよく言ってるじゃん。おじさんなんか皆同じ顔に見えるって」



 ハルがやや怒気を込めて、ユキの疑問を否定した。

 ユキも負けずに言い返す。



「言ってるけど、そういうのじゃないでしょ!?」

「ならあんたの撮った写真と見くらべてみたらいいじゃない!」

いやっ!!」



 それだけは絶対に厭だ、とユキは言った。



「なんで? せっかく、『ン?』って感じで落ちてる首まで写真に撮ったんだしさ、いいじゃん! 見比べてみれば?」

「厭だ!! 言わないでよ!! 消すよ!! 消すから!!」



 ハルもムキになっている。

 未智は二人を止めようとした。

 その時、新宿方面行きの車両接近を知らせるアナウンスが流れた。

 それと同時に――四人のサラリーマンが動いた。

 他の客を手招きしている。

 呼ばれた客は大きなリュックを背負った外国人観光客で、無防備に四人に近づいてゆく。



「だ――ダメ! ノー! ストップ!」



 すると四人のサラリーマンは、次々とホームの転落防止さくを乗り越えては線路に飛び込んでゆく。

 地下鉄のトンネルから、轟音と風が入ってくる。

 列車が来る。

 観光客らも狼狽うろたえながら、どうしていいか判らずに手を広げて叫んでいる。



「ねえ! ハル! お願い! 緊急停止ボタンを――!」



 そう叫びながら、未智は――思わず身を乗り出していた。

 ホームドアの上からだ。

 どうしてもあの四人を放っておけなかったのだ。

 だが――もう眼前に、地下鉄が迫っていた。

 瞬間、驚愕きょうがくの表情を浮かべた運転手と眼が合う。

 迫る轟音。

 そして風圧。

 ドンという衝撃。



「未智!!」



 ――危ないところだった――のかも知れない。

 気が付くと未智は、ホームに倒れていた。

 尻もちをついているのにひざがガクガクしているのが判る。

 ひじにまで力が入らない。

 後ろから、ハルとユキに思い切り引っ張られたのだ。



「危なかったじゃん――!!」



 二人は泣きべそをかきながら、倒れた未智を起こした。

 ハルとユキはそれぞれ安心したように、さっきまで喧嘩けんかをしていたのがウソのように笑った。

 ホームドアが開き、彼女らは何事もなかったかのように地下鉄に乗り込む。

 こういうとき、普通は『走っている電車に近づくな』的な、結構キツめのアナウンスがあると思ったのだが――それは流れなかった。

 プシューッとドアが閉じる。

 そして何事も、本当に何事もなかったかのように電車は走り出した。



「ねぇ、ハル? さっきのことなんだけど――」



 振り返るとハルとユキがいない。



「ハル? ユキ? ――ちょっと、やめてよ」



 見回すと――他の乗客もいない。

 彼女ひとりだけだ。

 未智ひとりを乗せて、地下鉄は走っている。

 スマホを取り出すと、画面がバキバキに割れていた。




* * *




 駅の事務室で、古市は椅子いすに力なく腰かけていた。

 小池に『それ証言できますか?』とかれて、彼は必死で思い出そうとしていた。

 あの交代の運転士は誰だったか。



「邪魔です。マスコミが来る前に帰ったほうがいいんじゃないですか? 邪魔ですし」



 邪魔だろうな、と古市は思う。

 だが今一人になったら、彼は自分自身が邪魔になってしまうのではないかと心配していた。

 暴走列車は二駅隣――市ヶ谷手前で地上設備が発動し、緊急停止させられていた。

 駅員が停止した事故車両に向かったが、運転席はもぬけのからだったという。



『防犯カメラだ! 映像を見せてくれ!』



 さっき古市はそう頼み込んで、ホームの映像を確認したのだ。

 映像には、確かに交代の運転士が映っていた。

 だが後姿のみで、顔まではわからない。

 しかも制服が古ぼけていた。帽子も制服もトランクも、少なくとも現行のものではないのだ。

 古市はそれ・・にお辞儀じぎをして、『お疲れさん』と声をかけ、振り返りもせずに車両を離れていた。

 指差し確認もなし。

 映像の中で、不詳ふしょうそれ・・が運転する列車が出発進行する。

 こうして客観的に見ればそれは――明らかに不審人物だ。

『これ』と交代してしまっては、古市も責任をまぬがれない。

 鳴っていた電話を取った別の事務員が、古市を気の毒そうな顔で見た。



「本部からです。古市乗務員を帰すなと――」



 そら見たことか、と小池が一瞥いちべつする。

 そうなる気はしていた。

 古市が交代した相手は誰だったのか。

 その相手はどこへ行ったのか。



「誰もこいつを見てない? オレだけ? 駅じゅうのカメラの映像を出してよ。こいつが他に映ってないか調べるから」



 交代までにはこの事務所を通っているはずだ。

 少なくとも正規の運転士ならそうだ。

 そして――ここで誰もがそいつを見ているのだ。



「いえ、さっきも言いましたが――居たんですよ。ここに。でも――」

「誰も、そいつが誰かわからない? そんなわけないだろ」

「いや古市さん、あなたも同じことを言ってるんですよ? 他人を責められる立場ですか?」



 そうなんだよなぁ、と古市はつぶやいた。

 しかもどうやら、四人もの犠牲ぎせいを出した隣駅の事故現場でも、謎の駅員が目撃されているらしいのだ。

 乗務ではなく、線路上でだ。

 地下鉄でも事故があったらしく振り替え輸送も回っていない。

 それどころか沿線のあちこちで事故やトラブルが起きており、今や首都圏の軌道きどう交通は完全に麻痺まひしてしまっている。



(こういう状況だから、オレが幻の運転士にだまされたって言っても、まぁ、悪くはないよなぁ)



 ネットを見ていると、古市はホッとした。



「女子高生かぁ。可哀かわいそうになぁ。――助けようとした友達も巻き込まれて重態だって。あーあ……」

「古市さん、マジで邪魔です。引っ込んでてください。あ、逃げないでくださいね」



 小池は、内勤のくせに乗務員に対して何のリスペクトもない。

 彼女からすれば、電車の運転士など何の魅力もないのだろう。

 古市は「へえへえ」と言いながら休憩室に戻った。




* * *




 休憩室に入った古市は、唐突とうとつに、それ・・が誰だったかを思い出した。

 ――見たことがあるわけだ。

 そいつは、たしかにここにいた。

 だが、今はいない。

 いないのだ。




* * *




「すみません、今担当が不在でして。――はい。すみません。――小池と申します。小池がたまわりました」



 小池が受話器を置くと、またすぐに電話が鳴る。

 メモを残す余裕もない。

 溜息を吐いた。

 十八時過ぎに隣駅で発生した重大事故から三十分、ずっとこの調子である。

 応援に人を回してしまったせいで、人手が足りない。

 十九時からはニュースになり、また駅にくる人も増えて更に忙しくなるだろう。

『都知事と同じ小池です!』――ひと昔前、いやふた昔前ならそのネタで随分ずいぶん世渡よわたりできたのだろうが――いや、小池なんてありふれている。

 彼女は初めてその駅に配属されたとき、実際に『都知事と同じ小池です!』と自己紹介したのだ。

 大学では鉄板だったからだ。

 だが駅長に『俺も小池っていうんだよ』とにらまれて、以来一度もやってない。

 だから古市と初めて会ったとき『へえ、都知事と同じじゃん』と言われて少しうれしかったのだ。

 いずれにせよ、彼女はここへ来て自己紹介で滑って沼に転落してからというもの、キャラを造ることをあきらめていた。

 装飾なく。笑顔もなく。素で。

 家でつまらないバラエティ番組を見ているときと同じ顔で、彼女は仕事をしていた。

 駅の内勤なんて――愛想あいそは必要ないのだ。

 その時、休憩室の方から悲鳴が聞こえた。



「うわあああっ」



 男の太い悲鳴――今ここで電話をしていない者――古市だ。



「はい、少々お待ちください。折り返しご連絡差し上げます。小池が賜りました」



 受話器を置く。

 小池は立ち上がって、休憩室のドアを開けた。

 古市が立っている。

 壁を見たままで――。



「こ、小池――思い出した」

「何をですか」

「あいつだ。あいつはここに居た。ずっと」

「あいつって、古市さんが交代したっていう架空かくうの運転士ですか」

「か、架空じゃねえ! 架空っていうな! 人を、そんな、嘘つきみたいに――」



 ほら、と古市は壁を指差す。

 小池からは死角の壁だ。

 なんですか、と彼女は身を乗り出し、壁を見た。

 そこは――大判の絵がけられていた。

理想郷りそうきょう』と名付けられた、古い絵である。



「あいつは――ここに居た」



 何を言ってるんですか、と小池はその絵を見る。

 それは、ずっと昔からこの休憩室に掛けられていて、普段は誰もかえりみることのなかった絵だ。

 ただの絵。

 誰が描いたものとも知れず、もちろん高級な芸術作品でもない。

 喫茶店のモダンアートのようでもなく、ただ写実的に古い駅とむさくるしい鉄道員の描かれた、この世でここにしか飾る場所のない絵。

 どうやらその絵は、旧国鉄時代に吸収した東北の第三セクターから伝わったもので、描かれている駅は気仙沼あたりを走っていた当時珍しい全電化路線のものだった。

 九十年近くも前の風景のはずが、制服や設備も、不思議なほど今と変わりない。

 たしかに小池の記憶では――そこには三人の運転士が描かれていたはずだ。



「この中に居たんだ!」

「何言ってるんですか古市さん! しっかりしてください!」

「お前も見ろ! こっち来てよく見ろ! 三人居たんだ! ここに、確かに、制服を着た三人が!」



 それが、二人になっていた。




* * *




 三人居たって言ってもねえ――と事故調査委員会の連中はせせら笑った。



「三人だったんです」



 事故調のメンバーの老人――鉄道会社の取締役が「そうかなぁ」と小池を試すように言う。

 老人はおそらくどこからかの天下りだ。元役人らしい神秘的な表情でこちらを見ている。

 その日、小池に話を聞きにきた委員は三名。

 老人と、若い役人の男、それから一言もしゃべらないせた女。

 休憩室のベンチに腰を下ろし、あの絵を見ている。

 小池が真っすぐに老人を見たまま無言でいると、老人は諦めたように語りだした。



「実はね、この絵については色々ありましてね。九十八年大月駅――って知ってる? 生まれてないかなぁ」



 小池は毅然きぜんと返す。



「いえ、生まれてはいました。何があったんですか」

「まぁ、ちょっとした怪談話のたぐいですよ。今いうと不謹慎ふきんしんになっちゃうから、そのうちゆっくりね」



 別の若い役人――国交省の現役の役人が、老人の顔色をうかがうように言った。



「で、この絵には、三人いたはずだと。でも、それは――どうでしょうね――」

「ワシが保証しよう。三人だったよ。九十八年にはね」



 ワッハッハッ――と力強く老人が笑う。



「君らもこの世界でやってくなら、この絵をよぉーく見て、目に焼き付けておきなさい」



 役人は困っていた。

 小池は質問する。



「古市乗務員は、どうなるのですか」

「彼ねえ。証言を撤回てっかいしないうちは――現場げんじょう復帰は難しいだろうねえ」



 古市も、小池と同じ主張をしている。

 彼の場合はもっとかたくなだ。

 役人は、休憩室のベンチに座ってずっと壁の絵を見つめていた。



「とりあえずこの絵を持ち帰って――」



 それはダメだよ、とピシャリと老人が発言をさえぎる。

 しかしそれでは平行線と言いますか――、と役人は困惑こんわくを隠さない。



「いえ、はっきり申し上げると――私には、この絵にはもっと人が描かれてるように見えるんですよ」



 古い鉄道員が二人。

 会社員らしき四人組。

 そして年若い少女が一人。

 計七人。


 事故の翌朝、小池が発見したのだとう。



「はい。ここには三人でした。それが事故の日の夜、二人になっていて、そして翌日には五人増えました」



 困ったなぁ――と若い役人は腕を組んだ。




* * *




 該当がいとう事故車両の運転士は、事故調の調査にも関わらず不明。

 どこの誰かすらも、どこへ行ったのかも判らない。

 事故調査委員会は解散した。

 その絵は、今もその駅にある。



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