言わずには、いられない
永瀬文人
第1話
神崎には、毒がある。
だから谷井は彼女と顔を合わせるたび、気分が転落する。神崎の毒に、あたるのだ。
急な休暇をとった翌日、谷井が出社すると、同僚達がかわるがわる話しかけてきた。こじれた風邪の発熱は、朝、ようやく引いていたものの、まだ、しわがれた声しか出せず、気を抜くと咳が止まらなくなる。
「無理するなよ。高熱の出る風邪が流行っているらしいからな」
「おい、大丈夫か。今日は、主任が熱でダウンだってさ」
神崎は無言で、谷井の机にカップを置きに来た。ほのかに、生姜湯の香りと湯気が立ちのぼった。職場に入って二年目、まだまだ新人扱いの谷井に飲み物を淹れる者など、まずいない。
礼を言いかけた瞬間、彼女は白く華奢な人差し指を唇の前に立てる仕草をしてみせた。
礼は要らない、とは。奥ゆかしい。こんな面が神崎にはあるのだ。
腰をぐっと伸ばし、反らせるようにして神崎は言った。
「こういうのが、優しさよ」
軽いジャブ。いきなり戦闘体制か。
「言葉で心配しているようなことを表すなんて、あてつけがましい限りじゃない」
同僚達は一様に、あてつけがましいという枠の中へ放り込まれた。
「ねえ、そう思わない?」
愛想よく、神崎が同意を求めてくる。引き込まれそうだ。
微笑む神崎は愛らしい。ただし、この時の顔の角度は、常に決まっている。
「今日、主任に休むように言ったのは、実はわたしなの。これって、さりげない労りでしょ。風邪の菌をばら撒かれたくないし、どのみちしっかり治すまではあの人と会話できないわよ。うつったら、大変、大変」
神崎の人差し指は、喋るな、というジェスチャーをしたまま止まっている。まだ咳の出る谷井は、主任と同じ扱いということか。
口中に苦さが湧くようだ。谷井は手洗いへ行って、うがいを念入りにした。
席に戻ると、同期の中田が耳打ちをして来た。
「神崎さんが言っていたぞ。谷井が突然休んで、二人分も働いたのに、給料が同じなのは理不尽だって」
谷井の喉は、乾いてひきつる。毒が威力を発揮だ。言ってくれるな、そういうことを。神崎もそうだが、中田もだ。机の上のカップを見よ。神崎にも、慈悲の心がなくもないではないか。けれど中田は、なおも憐れむような目つきをして谷井を見ている。俺はお前の味方だぞと、暗に表明しているかのようだ。
中田に文句を発せられず、谷井は空になっている神崎の席を目で示して喋る。
「わざわざ、言わなくてもいいのにさ。嫌なことを」
「それも、陰口をな」
谷井への同情を含んでいた中田の小声は、神崎に関する陰口の披露にすりかわっていくとみえた。いつものように。
「おかしいわよね」
キャビネットの向こうから、神崎の声が甲高く響いて来た。
「思ったことを口に出さないのは、不誠実よ。わたしは、思ったことを言わずにはいられない性分なの」
神崎はたった今、誠実な人間として位置づけられた。
神崎の周りには、不道徳かつ無神経及び非常識並びに無礼もしくは未熟者と定義された人間が、日々、増殖していくことになっているのだ。
それらを踏み台にして、彼女の格も株もぐんと上昇していく。神崎自身が熱意をもって分析した末に紡いだ言葉という、一種の努力の賜物でもある。
とはいえ神崎と接すると、後味の悪さに蝕まれるのは、決して少数派ではあるまい。
「面と向かって言えないくせに陰でこそこそ言うなんて、人間性が疑われても仕方がないわよね」
神崎の呼気は、突然どす黒いものとなって吐き出され、話し相手の元にはくすんだ吹き溜まりが出来上がる。
けれど、谷井は思う。神崎は、あまのじゃくなだけではなかろうか。悪意は忠実に語るが、耳障りのよい気持ちは吐き出せないのかもしれない。内側に溜まったカスばかりを、知らず知らずのうちに選んでいるのだ。それが他の人間には全くないカスだとは、言いきれない。ただ問題なのは、自身の発言の効能をさっぱり気にかけないことである。
数ヶ月前、神崎は別セクションである中田とその上司から注意を受けたことがあった。
神崎が回すべき書類の期限が既に切れていたとか、そんなミスだったらしい。だが、事後処理は厄介らしく、一時的とはいえ、中田の上司は感情的になって神崎に接した。小声で、神崎についての辛い批評を中田としているのが、谷井の耳にも入った。
そして翌日の帰り際、谷井は見てしまったのだ。神崎が一人で嗚咽を堪えている現場を。洗面所の手前の廊下の隅で、神崎は人目を憚るように顔を覆っていた。かけられる言葉などなく、ひっそりと谷井は立ち去った。
この処理の一件が、それまで蓄積されていた中田の上司の心労にどう影響を及ぼしたのかは定かでない。ともかく、中田の上司はごたごたが露見した翌日から体調を崩し、数日後には、静養を医者から勧められたとかで、会社を去った。
ついに神崎はミスに関して謝りもしなかったと、中田がこぼしていた。
毅然とした眼差しで、神崎が自分の上司に報告していたのを谷井は耳に挟んでいた。
「あの注意の言葉は、わたしへの明らかな侮辱混じりでした」
一本橋。神崎は左右に両手を伸ばし、いつもゆらゆらと渡っているかのようだ。意に反して、時折、神崎は足と口を滑らす。その反動で上がった冷たい飛沫を浴びるのは、廻りにいる人間だ。
いや、それがどうだと言うのだ。傾いだ身を安定させられず、冷水の中に落ちる神崎本人ほど、心のすくむ者はあるまい。
谷井の机の脇を通りすがり、神崎はカップをちらりと見下ろして言った。
「冷ましてから飲んだんじゃ、意味がないわよ。温かいうちに、どうぞって運んで来た気遣いが、水の泡になるじゃない」
くわばら、くわばら。神崎には、アク抜きが必要だ。ごく短時間の沸騰。それだけで、彼女はきっと、完全に無害になる。
本心なのか、否か。神崎を眺める谷井も、不器用に一本橋を歩いている。表面しか見なければ、判断を誤る。荒れて濁っているのは、きっと水面だけ。……それともこれは、神崎にかぶれた中毒なのか。
ひねてみせているなら、神崎はただのバカだ。谷井は生姜湯を一気に飲み干した。
舌の細胞という細胞が、苦みに触れて縮こまった。何だろう、と思う間もなく眩暈がして、視界が暗くなっていく。
神崎は、生姜湯に何を入れた?
一本橋。踏み外したのは、一体、誰だ。
「タチの悪い風邪をうつされたら、収支が合わないわよ。働きに来たがために医療費がかかることになるなんて、許せないじゃない」
神崎の声は、遠くから低く鋭く聞こえてくる。
神崎の毒が谷井に染み込む。浸透する。呑み込まれていく。
中田の上司の顔が、ふと脳裏をかすめた。
畜生。神崎。言わずには、いられない。どうしても。
殺してやる……。
神崎が本気で笑いをかみ殺そうとする時、嗚咽を漏らしているようになる癖があることを、谷井は知らない。
言わずには、いられない 永瀬文人 @amiffy
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