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 その日は分厚い雲が空を覆い尽くしていた。カモメはいつまでたっても現れなかった。気温も水温も普段より低かったが、それが理由なのかはわからない。ただ単に用事があったのかもしれない。明日はまた晴れの予報だから来るかもしれないし、来ないかもしれない。それを知る術は持っていない。

 翌日も俺は一人だった。体調でも崩したのだろうかと心配になる。泳ぐことよりもカモメと会って話すことが、プールへ通う目的になっていたのだと気づいてしまった。

 塾の夏期講習に申し込んでいる都合で、数日後には地元へ戻る予定だった。このまま会えなかったらと思うと焦燥感のようなものが湧き上がってくる。

 一人でプールから出た俺はまっすぐ帰宅する気になれず、なにかに誘われるように、帰り道とは逆方向へ進んでいった。むせ返るような潮の香りが体と心をべたつかせていく。

 海岸へたどり着くと同時に、目がくらみそうになった。夕陽が世界を染め上げていたからだ。砂浜も波も水面も、空気でさえも。

 その世界の中心にカモメがいた。砂浜に体育座りをして、寄せては返す白波を見つめている。青空に焦がれる向日葵のように。

 砂浜に降りて、その後ろ姿にゆっくりと近づいていく。ざくざくと砂を踏む音が心をざわつかせる。声をかけていいものか迷った。一人になりたくてこの場所にいるのだとしたら、俺は邪魔かもしれない。

「ごめんね、プール行けなくて」

 こちらを振り返らないまま、カモメは口を開いた。その声は普段と同じく明るかった。

「別に、約束してるわけじゃなかったし」

 少しだけ距離を開けてカモメの左隣に腰を下ろし、同じように膝を抱えて座る。

「素っ気ないなぁ。私は楽しみにしてたのに」

「じゃあどうして」

「どうして来なかったんだって話だよね。どうして嫌いな海なんか見てるんだろ、私」

 俺に対してというより、自身に問いかけているように聞こえた。

「海を見てると憂鬱になるんだよ。死のうとしたときのこと、思い出すから」

 軽快な声なのに、背筋が凍りつく。

「いろんなことに絶望しちゃってさ。一度死んでカモメに生まれ変わろうと思った」

「指定できんのかよ」

「一生のお願いってゴネる」

 言っていることがむちゃくちゃだ。深刻な話をしていたつもりなのに表情筋が緩んでしまう。

「でも、できなかった。させてくれなかった」

 視線だけを動かして、カモメの姿を捉えようとした。

「救われたの。ほら、あれはカモメじゃなくてウミネコだってこと、教えてくれた人がいるって言ったでしょ」

 天高く指を差した先。オレンジ色の空を鳥の群れが移動している。

「彼氏?」

「幼なじみってやつだね。……そのときは」

 カモメは抱えていた膝に顔を埋め、くぐもった声で言った。

「プロポーズされた」

 左手の薬指が光を集めてきらめく。祝福するかのように、ウミネコの鳴き声が海岸に響いた。

「よかったな」

「全然よくないよ。無理だよ結婚なんて。だって幸せな家庭を知らない二人なんだよ。うまくいくわけない」

 だんだんと涙声に変わっていくカモメを鼻で笑う。

「ばかだな」

 本当に無理だと思ったなら、特別な意味を持つ指輪なんて受け取るはずがないし、そんなふうに優しい手つきでなでたりもしない。

「ど、どうせばかですよーだ! 君よりずっと年上なのに、いつまでも大人になんてなれませんよーだ!」

 そう言って俺をにらみつける瞳は赤く染まっていた。

「大丈夫。カモメは優しいから」

「優しくなんかない」

「初対面の俺のくだらない悩みを聞いてくれたカモメは優しいだろ。痛みを知っているから優しくもなれる。もちろん、その痛みを他者へぶつけようとする人もいるだろうけど」

 カモメがぱちぱちと瞬きを繰り返すたびに、水晶のかけらみたいな涙がこぼれていく。

「カモメは優しくなれる方を選ぶから、大丈夫」

「どうしてそう思うの」

「思う思わないじゃなくて、そうなる」

 俺は体を乗り出して、正面からカモメを見据える。

「お互い幸せになるって、約束して」

 小指だけを立てて、カモメに向けて差し出す。子供だましのようなやり取りだったけど、乗ってくれると信じていた。長い人生のうちのたった一度の夏、たった数日しか関わっていない二人だけど、大丈夫な気がした。

「約束破ったら、一生アイス奢らせてやるもんね」

 華奢な小指が絡められる。誓うように、ぎゅっと力を込めた。

「せいぜい自分に返ってこないようにするんだな」

「わかってる」

 カモメは指切りの歌を口ずさみながら、まぶたを閉じる。あどけない瞳が閉じられてしまうと大人の女性の顔になることに気づいてしまって、心臓がうるさく音を立て始める。潮騒とウミネコの鳴き声が、それをかき消してくれることを祈っていた。


 滞在している祖父母の家へ、母親とその彼氏が訪れたのは翌日のことだった。

「君と、君のお母さんを僕にください!」

「へ?」

 真夏なのに上下スーツ姿で、顔を真っ赤にしながら頭を下げられる。

「……っ」

 自分が求婚されているような気分になり、思わず噴き出してしまった。ちなみに祖父母には「お孫さんと娘さんを僕にください!」と宣言していた。

 いつかこの人のことを父さん、なんて呼ぶ日が来るのだろうか。

「本当にいい人みたいだねぇ。安心したよ」

「うん。びっくりしたけど」

 塩素の海に揺られながらカモメに報告すると、自分のことのように喜んでくれた。

「俺、明日地元に帰るから」

「そっか」

 夏期講習に通ったり家でだらだらしたり、いつも通りの夏休みに戻る。カモメと出会えたこの夏は、きっと特別なものとして俺の中に残り続けるのだろう。

「そうだ、連絡先教えてよ!」

 その前に年齢と名前を教えろと思ったが、続いた言葉に口をつぐむ。

「その、も、もし結婚式とかやることになったら……来てほしいっていうか?」

 頬を染めてしどろもどろになるカモメに、少しだけ意地悪な気持ちが芽生えてしまった。

「やーだよ。好きになりかけてた人の花嫁姿なんて見たくない」

「……えっ!?」

 プールの水が青く見えるような。ウミネコをカモメだと勘違いしていたような。そんな錯覚をかき消すように、カモメの顔面に向けて水を飛ばす。

「ちょっと……!」

「また次の夏に来るから」

 水しぶきが光る。

「……うん。待ってる」

 瞳を細め、カモメは『お姉さん』の顔をして笑った。


end

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カモメのお姉さんと、夏の約束。 みずの しまこ @mz4_222

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