泡沫の愛

きさらぎみやび

泡沫の愛

 人魚姫は恋をした。


 海の王の娘の一人、マーヴィエはいつものように地上に行ってはいけないという言いつけをこっそりと破って、夜の砂浜で遊んでいた。

 水底で見るうねった光とは異なり、地上で見る月の光は眩しいほどに彼女を照らし出していた。

 地上に出るときは万が一を考えて、足元まで覆うスカートを身に着ける。彼女の足元を見れば誰もが彼女が人間でないことに気がつくだろう。

 今夜は満月の晩。

 月の光を受けて、彼女の纏う淡く青いドレスが複雑な光を放つ。

 彼女はこんな月の夜に月光を受けながら、波打ち際で佇むのが好きだった。


 じっと月を見つめていたから、誰かが近づいてくるのに気づくのが遅れてしまった。振り向けば男性が一人彼女の後ろに立っており、月を眺める彼女を愛おしそうな眼差しで見つめている。

 男が彼女に声をかける。


「危ないな、こんな夜の海に女性が一人なんて」


 マーヴィエは初めて目の当たりにする人間に驚きつつも、努めて冷静に答えを返す。


「大丈夫よ、慣れているから。あなたこそこんなところで何をしているの?」

「僕かい?僕はちょっとした探し物さ」


 そう言って男は手に持ったずだ袋を持ち上げる。袋からはじゃらじゃらと何か硬いものがこすれる音がしていた。


「それは何?」

「気になるかい。じゃあ特別に見せてあげよう」


 男は中身が見えるように袋を彼女の前に差し出して、そっと袋の口を開ける。


「うわぁ…凄い」


 袋の中にはいっぱいの貝殻が入っていた。それはまるでヴェールで包まれたかのようにほのかな淡い光を放っている。


「夜光貝を見るのは初めてかい?」

「ええ、こんな素敵な貝殻を私は見たことがないわ」


 夜光貝は月の光をその身に溜めて、暗闇で光を放つ。

 今夜のような満月の晩には、溜めきれなかった光をその身からあふれ出させるために砂浜の中で淡く光り、男はその光を頼りに貝殻を探しているのだと話した。


「これを集めていったいどうするの?」

「アクセサリーを作るのさ」


 男はヨギと名乗った。この海に面した小さな町で、ささやかなアクセサリー工房を営んでいるそうだ。


「君は?ここで何をしているんだい?」

「月を見ているの。私の住んでいるところからでは、こんなに奇麗に月は見えないから」


 マーヴィエの言葉にヨギは少し考える仕草を見せ、彼女に提案した。


「それならこの夜光貝を使ったアクセサリーを、ひとつ君にプレゼントしよう」


 いいの?と問いかけるマーヴィエに、ヨギは微笑んで答える。


「ああ、もちろんだとも。3日後の晩に、またここで会えるかい?」


 マーヴィエは頷き、自分の名前を名乗った。


「ええ、いいわよ。私の名前はマーヴィエと言うの」


 二人は約束を交わし、3日後にヨギは約束通り夜光貝のネックレスを一つマーヴィエにプレゼントした。

 貝のふちを銀で覆い、小さな穴をあけて紐を通した、小さなネックレス。

 それを首からかけたマーヴィエを見て、ヨギは嬉しそうに言い、マーヴィエもそれを聞いて微笑んだ。


「良かった。君にとてもよく似合っているよ」「ありがとう、嬉しいわ」


 二人は恋に落ちていた。



 二人が逢瀬を重ねるのは、月の見える晩、夜の海。

 募る思いは絶えることなく、マーヴィエの心を苛み続けていた。

 ああヨギ。夜の海辺だけでなく、太陽の光の下であなたの顔を見つめることが出来たらどんなに素敵なことでしょう。



 マーヴィエは決心し、王の城より更に深く、光も差さない深海に住む海の魔女にお願いする。

 どうかあの人と添い遂げさせてください。私を人間にしてください。


 魔女は言う。


「その願い、叶えてやってもよいが、それならお前は一生その人間を愛し、愛される自信はあるかい?もしそうでなければ、その時は泡となって消えてしまうだろう」


 マーヴィエは魔女に胸を張って答える。


「ええ、もちろんよ。あの人の事を愛せなくなることなんて、私は決してないわ」


 それを見た魔女は静かにかぶりを振ると、懐から一つの瓶を取り出してマーヴィエに渡した。


「…そうかい。それなら何も言うまいよ。お前にこの薬をあげよう。地上に上がった時にこの薬を飲めば、お前は人間になれるだろう。ただし二度と人魚に戻ることは出来ないよ」



 その次の満月の晩。マーヴィエは波打ち際でヨギを待つ間にその薬を一息に飲み干した。

 彼女の体はたちまち鰭と鰓を失い、代わりに2本の足が生まれた。

 その日もマーヴィエに会いに夜の海にやってきたヨギに、マーヴィエは告げる。


「私、家を出てきたの。もう二度と帰れないわ。だからあなたの元へ行かせてください」


 ヨギは喜んでマーヴィエを迎え入れた。

 その時初めて二人は接吻キスを交わしたのだった。

 マーヴィエの胸元にはヨギが送ったネックレスが月の光を受けて淡い光を瞬かせていた。



 二人は仲睦まじく工房を営んだ。


 マーヴィエはその豊かな感性でいくつものアクセサリーを考案し、彼女が描いたスケッチをヨギが素晴らしい手業でアクセサリーに仕立てていく。


「ヨギ、今度はウミユリを模ったイヤリングを描いてみたの。どうかしら」

「ああ、素晴らしいよマーヴィエ。これは作るのが楽しみだ」


 海の生物をモチーフにしたそのアクセサリーたちは、すぐに街の評判となる。作るはしから飛ぶように売れていったため、二人は職人を雇うことにした。ところがどれだけ作ろうがその分どんどん売れてしまうため、二人はまた職人を増やす。

 そんな事が続いていくうちに、たちまち二人のささやかな工房はその国で知らないものはないほどの大きな工房となっていった。


 街中の女性がヨギの工房のアクセリーを欲しがり、ついには王族や貴族までもがヨギの工房にアクセサリーを求めるようにまでなった。

 ヨギはたびたび王城まで呼び出され、豪華な晩餐会や優雅な舞踏会で持てはやされていた。


 王城内を歩くヨギの周りには常に彼を取り囲むようにして豪奢な衣装で着飾った貴婦人たちが群がっている。


「ねえヨギ、わたしは今度はウミホタルのブローチが欲しいわ。作ってくださらない?」

「あら、抜け駆けはよくなくてよ。ヨギ、わたしにはベニサンゴの指輪を作ってくださいな」


 ヨギは困ったような嬉しそうな顔で応対する。


「おやおやご婦人方、喧嘩はなさらないでください。お望み通り、皆様に素敵なアクセサリーをこのヨギが作って差し上げますよ」



 遠くまで歩くのが不得手なマーヴィエは、工房で一人留守を任されることが増えた。

 いくつもの新たなスケッチを描き上げていたが、彼女の心には寂しさの風が吹き抜け始めていた。

 一人虚しく胸元のネックレスを見つめる日々。月の光に晒されることの無くなった夜光貝は、すでに光を放たなくなって久しい。


 月の光も届かない新月の晩。その日もヨギは王城に呼び出され、工房に戻ってきたのは夜も更けてからの事だった。

 工房でヨギを迎えたマーヴィエは彼がひどく酔っているのをたしなめた。最近では王城から返ってくる度に強い酒の匂いと香水の匂いにまみれている。


「ヨギ、今日もお酒を飲みすぎよ。体に良くないわ」


 酔って前後不覚になっているヨギは彼女の言葉を意に介さない。


「構うものか。俺はいまやこの国いちばんの芸術家となったんだ。酒に酔ってなにが悪い」


 かつて素晴らしい手業を見せたヨギは、酒に飲まれてもはやその技術を失いつつあった。工房では大勢の職人がアクセサリーを大量に拵える。

 マーヴィエはヨギがすでにかつてのような人ではなくなっていたことに気がついていた。


(こんな人ではなかったはずなのに…)


 ヨギが初めて作ってくれたネックレスを握りしめ、マーヴィエは部屋の隅で一人さめざめと泣きはらす。

 彼女は涙に濡れながら、豪華な屋敷のベッドで酔いつぶれて眠るヨギをじっと見つめていた。


 初めて海辺で出会ったあの月の晩。優しい笑みをくれたあなたはいったいどこへ行ってしまったの?


 彼女はそっとヨギに近づき、一筋の泪を零しながら彼の唇に自らの唇を重ねる。それは初めて交わしたあの柔らかな接吻とはほど遠い、ひどく冷たさを感じる接吻だった。



 二人の唇が重なったその途端、あたりは真っ白な泡に包まれた。泡はそれに触れるすべてのものを溶かしながらみるみるうちに広がっていく。そして二人の大きな工房を全て丸ごと包み込むと、一気に弾けた。


 最後に唯一残されたのは、悲しみに暮れる一人の女性だった。


 彼女は魔女との約束の通りヨギを愛した。愛し続けた。しかし、悲しいかな、ヨギにはそれができなかった。


 マーヴィエはもはや跡形もない工房を後にすると、ヨギと初めて会った海辺が見渡せる崖に一人静かに立ち、荒波の打ち付ける夜の海に身を投げた。

 そして二度と浮かんでくることはなかった。


 後にはただ、小さな夜光貝のネックレスだけが残されていた。


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