留まる煙と吐き来る煙と

カピバラ番長

読み切り



二十歳になった俺は、煙草を手に取った。

万馬券でもスロットのレバーでも酒の瓶でもなく、人気のない銘柄の煙草を。


『メンソール…ミントが効いてておいしいんだ』


手にした煙草に誘われて、昔の記憶が蘇る。

家の隣に住んでたスタイルのいい女の人。

あの人が煙草を吸っていたのを始めて見たのは何才頃だったろう。


青に近い紺色の軽自動車に寄り掛かり、紫煙を燻らせるショートヘアのあの人。

細く飄々と立ち昇る煙と、何処か遠くを見ながら口元に運ぶその姿に俺は憧れた。

白っぽい棒を小さな四角い箱から取り出して、薄い唇で加えて、ライターで火を灯す。

今でも目に焼き付いてる、カッコイイ光景だ。


『ん?なんだいボウズ。向こうに行きな。煙いだろ?』


シッシッ、と初めの頃は手で払われていたっけか。

でも、しつこく覗いていると次第に向こうも面白がり始めて、気が付けば向こうから挨拶されるようになったんだ。


『いいかい、よく見てな。まずは持つところにあるカプセルを潰すんだ。これ、丸い絵があるだろ?次に咥える。そうしたら息を吸いながら先端に火を付けるんだ』


あの人は、小学生だった俺に吸い方を教えた。

勿論、煙草を触らせては貰えなかったし、空き箱に触れさせてすら貰えなかったけど。

でも、【咥えて、付けて、吐く】。たったそれだけの仕草に胸が高鳴った。


『火が付いたら、まずは一吸いだ。そうすると口の中に旨味が広がっていくんだ』


記憶の中にいるあの人に従って、口の中に煙を吸い込む。

舌の上だけじゃない、奥歯や喉の入り口付近まで広がるミントの味で思わず頬が緩んだ。

あの人の言った『旨味』の意味がようやくわかった気がして。


『そしたらもう一度吸うんだ。そうすると肺にまで煙が入る』


言われるがままもう一吸いする。

が、訪れるのは安心でも安らぎでもなく途轍もない違和感だ。

全身が総毛立ち、目には涙が溜まり嗚咽が溢れかえる。


「ゲホッ!ゴホッ!ン"ッハッァ!」


拒否反応を起こした身体は辛抱堪らず、咳き込んで異物《けむり》を外に吐き出そうと躍起になる。


「ハァ、ハァ、ハァ…」


一通り追い出して、涙の漏れた目のまま手にした煙草を見る。


『ははっ、最初はみんなそうなるのさ』


記憶にないあの人の言葉が脳裏を過る。

ご丁寧に笑顔までついて。


「っふ、ははっ、拗らせ過ぎたか」


恥ずかしさに身悶えしつつも再び煙草を咥える。

今度は肺に入れずに口の中で留めて。


『そうだ、面白いもん見せてあげるよ。…そら、ハートだ。』


ふわりふわりと空中を行く煙の輪っか。

吐き出す煙でどうやってハートを作っているのか、どれだけ聞いてもあの人は笑うだけで教えてはくれなかった。


見よう見まねで作ろうと試してみるが、出てくるのは歪さを増した煙だけ。

優しいかぜで空に登る煙は、悪戯に形を変えて茜雲に混じっていく。


「凄かったんだな、あの人」


いつの間にか、ほとんど持ち手だけになってしまった煙草を、火を消して携帯灰皿にしまう。

…凄いもんで携帯灰皿のメーカーすら覚えてたから同じ物だ。

今の時代型落ちになっても買う方法があるせいで自分の気持ち悪さに歯止めが利かない。


「…いつか、会えたら教えてもらうか」


二つを胸ポケットにしまい、帰路へと向かう。

空は紅く焼けていて、橋を歩く人たちの足も速い。

それに倣うため、橋の手摺りに乗せていた肘を下ろした時だった。


「パパと同じ匂いだー!」


俺の腰ぐらいの背しかない女の子が走り寄ってきた。


「何やってんの!

すみません、うちの娘が…ん?煙草、ですか?」


次いで走って来たのはその子の母親らしき女性。

右手には、橋の先にあるスーパーの袋を持っていた。


「え、ええ。まぁ」


中途半端に言葉を返し、胸ポケットにしまった煙草の箱を見せる。


「ほら、おいで。

珍しいですね。私も昔、同じ銘柄を吸ってたんですよ。あと、夫も」


今度は離れないようしっかりと女の子の手を握った母親が、袋を持った手で煙草を吸う仕草を見せた。


「へぇ、そうなんですか。今はもう吸っていないんですか?」


「ええ、この子が出来た時にやめたんです。旦那も禁煙…とまでは行かなくても吸う所を選んだり、回数を減らしたりはしてくれたんですけどねぇ」


母親は苦笑いを見せて娘の頭を撫でる。

えへへと笑う女の子がとても愛らしい。


「そうなんですか、いいお父さんですね」


「ホント、私には勿体無い良い旦那でした」


「でした?」


引っかかる言葉につい聞き返してしまう。

バツの悪そうな顔をした母親は娘に視線を落として、独白するように口を開いた。


「ええまぁ、少し前に亡くなっちゃいまして…」


「ん〜?」


言葉の意味がわからないのか女の子は首を傾げて母親を見返した。


「あ…すみません、立ち入った事を…」


「いえいえ、私も迂闊でしたから気になさらないでください。…さ、そろそろ行くよ。お兄さんの迷惑だからね」


言葉ではそう言いつつもどことなく悲し気な表情を浮かべた母親は踵を返そうと女の子の手を引く。

けれど女の子は繋いだ手を強く引っ張り抵抗を始めてしまった。


「えー?パパはー?」


「え?」


「バカ!」


女の子の視線の先にいるのは俺で、ついでに指も指されていた。

…そうか、匂いが同じだったから勘違いさせちゃったのか。


「バカな事言わない!ほら、お兄さん困ってるだろ?」


「やだー、パパもー!」


珍しい事なのか、母親は駄々をこねる娘をどう落ち着かせるのか困りあぐねている様子で。

恐らくは素の口調なのだろう。先ほどまでの物腰柔らかな言葉遣いから少しだけぶっきらぼうな様子が出てしまってる。


「あの、もしそちらがよければ一日くらいお付き合いしますけど…」


自分の口から出た言葉にハッとする。

初対面の、しかも子連れの母親に対して俺は何を言ってるんだろうか。

……幾ら今の口調を懐かしく思ったからって、これじゃあまるっきり不審者だ。


「いえ、でも…」


「パパー?」


「あっ!沙耶!」


手を解き、デシャヴ的に寄った女の子がズボンの裾を掴む。

膝程度も背丈が無いせいで必然的に見上げて来る沙那と呼ばれた女の子。

くりくりとした可愛らしい瞳に見上げられ、何と言うか庇護欲のような感情が湧いてくる。


「なんだい沙耶ちゃん?」


「抱っこー!」


「ちょ…!」


「……構いませんよ」


無邪気に頼まれ、母親の方を見遣って微笑んでみる。

すると申し訳なさそうな顔と共に[了承]のアイコンタクトがもらえた。


「よ…と、それー」


沙耶ちゃんの脇を掴んで目一杯高く持ち上げてみる。

キャッキャと喜ぶ沙奈ちゃんは無邪気にバンザイをした。


 「ほら、沙那。その辺にしておきなさい」


 「えーー」


母親に止められて不服満天の顔をしながらもそれ以上の要求をしなくなった沙那ちゃんを下ろし、目線が同じになるよう屈む。


 「じゃ、今度会ったら沢山遊ぼう?それならどう?」


 「…約束?」


 「約束」


普段はよほどいい子なのだろう。たったそれだけの説得で沙那ちゃんは頷き、母親の方へと駆けていく。

だからこそ余計に我慢している様子が目に付き、きっと守れないだろう約束で煙に巻いてしまった事が申し訳ない。


 「…じゃ、俺はそろそろ」


なんて思えどよそ様の家にこれ以上の干渉は教育にも響くだろうしと、二人に背を向けようとした。

…時だ。


 「…あの」


母親に呼び止められた。


 「……娘がこんなに楽しそうだったのは久しぶりで。それで、大変言い辛いんですけど」


母親の脚の裏に隠れ、後ろ髪引かれたように俺を見つめる沙那ちゃん。

彼女のその頭を撫で、見下ろした後に母親はもう一度俺の方を見た。


「もう少し、お時間いただいてもいいですか。夕飯くらいは、出せますから」


申し訳なさそうに微笑む母親と、その足元で目を輝かせる沙那ちゃん。

…本当はあまり良くないのかもしれないけど。だけど、頷く理由はあっても、断る理由は見つからなかった。


 「えぇ、構いませんよ。……もう少し、沙那ちゃんとも遊びたかったしね」


 「やったー!」


両手を挙げたまま嬉々とする沙耶ちゃんに、思わず父親になった自分の姿を流れ行く茜空のうろこ雲に思い描いてしまう。

何度か夢に見たあの人との恋仲。年もそれなりに離れてたし、引っ越してからはどこに居るのかも分からない相手なんだから今更叶うわけも無いけれど。

それでも、胸の奥の方が少しだけ暖かくなった気がして嬉しかった。


「じゃあ、その、車で来たので橋の向こうにある駐車場までお願いしても良いですか?」


申し訳無さそうな顔をした母親が指を指した先にはいつだかに見た紺色の軽自動車があった。


 「…まさかな」

 

 「え?」


 「あ、いえ。何でもないです」


心臓が止まるかと思うくらいの衝撃で、けど、直ぐにそんなわけがないと小さく笑って。

…なのに知らず知らずに抱いた淡い期待を捨て切れずにれずにいる。


「…さて、それなら荷物運びしますよ。少し距離ありますし、重そうですし」


「そ、そこまでは流石に悪いですよ」


 「じゃあかたぐるま―!」


 「ん、いいよ」


出てこないよう、今は忘れられるよう、努めて心を抑え、駆けてきた沙那ちゃんを抱き上げる。

お望み通り肩車をしてあげると、まるでいつもしているかのように両耳を優しくつかんできた。


 「こら沙那!そんな事したらお兄さんが痛いだろう!」


 「いいですよ。つまんでるだけですから」


軽く引っ張る沙那ちゃんに合わせて進む方向を少し変えながら歩き、ずっと申し訳なさそうにする母親を時折なだめて車へと向かう。


懐かしい記憶と新しい出逢い。

俺はきっと、煙草を吸うたびに今日の日を思い出すんだろう。

橙色の星が地平の先で半分消えて、焼けた空には闇が交じり、ちらほらと鳥達が果てへと消えていく、今日この時を。

あの人のくれた出会いだと微笑みながら。




End.

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