三次元的接触

 御津宮の身体がびくりと跳ねる。

 光久が、急に余裕をなくして駆け出す。


 俺には確信があった。確信を持って呼んだんだ。

(困ったときは遠慮なくあたしを呼んでくださいね)

 携帯番号すら知らない俺に向かって、舞花が去り際に言った台詞。

 それはこういうことを無意識で自覚していたからに違いない。

 もうすぐ、舞花の時間がやって来る。

 だから今なら、俺なら舞花を呼び出せるはずだと、俺は確信していた。


 瞬間。

 衝撃。

 背中に痛みと、視界には青い空。

「痛――っ」

 どうやら光久に突き飛ばされたようだ。隣では御津宮も倒れている。

「うう……ん」

 くぐもった声と共に上体を起こす御津宮、いや、その声のトーンは既に、

「あ、お兄ちゃん。それに、ゆーくんも」

 舞花、だった。髪形や服装こそ御津宮だが、確かに舞花の雰囲気だった。例え顔が分からなかろうとも、いや、分からないからこそ存在感の違いは明確だった。


「……ッ!!」

 ここに来て光久は、ようやく感情的な呻き声を上げる。

 さぁ、これでようやく、このゲームの全ての役者が登場した。

 だけど別に、ここからの策なんてない。

 これで、どうなる。


「お兄ちゃん」

 立ち上がった舞花の声に、呆然自失とした光久がびくりと震える。

「まい、か」

 彼女を呼ぶ光久の声は、初めて聞く人間味のある声だった。

 

 このゲームにおいて光久が注意していたことは、おそらく二つだけ。

 御津宮に悔いを残させないことと、舞花が自身の存在について疑問を持たないことだ。

 スムーズに人格のアップデートを果たすにはこの二つが必須で、だから光久はこの茶番に乗ったし、その上で舞花は俺だけとしか接触させなかった。本当は舞花はヒロインから外したかったのだろうが、自分の理想人格をヒロイン候補に入れるのは、御津宮の強い希望で、それを叶えなければ彼女に悔いが残ると考えたのだろう。

 それ以外は、俺や他のヒロインたちがどうなろうがどうでもよかったに違いない。

 しかし今、御津宮はこの世への未練を自覚し始め、あろうことか、出てはいけないタイミングで舞花が現れた。戌亥光久の計画は、破綻した。


「お兄ちゃん。あたし、全部分かったの、今」

「な、にを。なにをいっているんだ、まいか……っ」

 心臓辺りを押さえながら、苦しげに光久は問う。舞花と対峙した瞬間から、急速にこの男の纏う超然とした雰囲気が失われつつあった。

 俺の狙いは、予想以上の効果を上げていた。光久は頭を抱えて崩れ落ちそうになる。この世の終わりだと言わんばかりに。

「あたしがどうして生まれてきたのか。あたしの母さんが、どんな人だったのかとか。それが全部分かったの」


 お母さんとはつまり、御津宮のことだろう。光久は、まるで夢遊病者のように舞花の言葉を聞いている。

「お兄ちゃんが言っていたことは、優しい嘘だったんだね」

 俺と話しているときとは違う、少し幼い口調の舞花。

 妹としての舞花。

 その言葉の一つ一つに貫かれ、光久はついに膝をつく。

「まいか、ちがんだ、それは」

「ゆーくん」

 光久の言葉を遮るように俺の名前を呼び、舞花はこっちを向く。

「多分、ゆーくんがいつもと違うタイミングで無理やり起こしてくれたから、お母さんの混乱した精神状態とも相まって、全ての記憶を共有することができたんだと思います」

 舞花は、俺に向けて元気よく親指を立てる。

「奇跡ですねっ」

「あ、ああ。そうだな」

 俺も親指を立てる。尋、松本、辻先輩、モブ子達がいなければ、俺はここにすら立てなかった。実際それは、奇跡的なことなんだろう。これは、皆で起こした能動的な奇跡だ。


「お兄ちゃん。今まで、本当にありがとう。あたし、すごく幸せだった。でも」

 舞花は、もはやピクリとも動かなくなった光久に向き直る。

「あたしは、もう還ろうと思うの」

「………………」

「お兄ちゃんはあたしを、ちゃんとした一人の人間にしてくれようと頑張ってくれたんだよね」

 舞花は優しく語りかける。光久の、御津宮の人格を消すことすら視野に入れた計画は、人格のアップデートという大義以上に、そこが重要だったのかもしれない。根底には、冷徹な研究者の意志ではなく、舞花と接するうちに本物になっていった兄としての思いがあったのかもしれない。優しい、二人だけの物語が。


「でも、あたしだけを残して、お母さんを消す。そのやり方だと、だめなんだよ。そんな無理をしたら、きっとあたしもだめになる。きっとお兄ちゃんが望んだあたしじゃいられなくなる。言葉じゃ上手く説明できないけど、分かるの。だからあたしは、あるべき場所に還ろうと思う。お母さんの中に」

 舞花に自身の考えを否定されてなお、光久は反応しない。こういう事態になった場合、そう言われることを予期していたのかもしれない。

「………………」

 舞花は動かない光久の、兄の顔を手で包み、しばらくじっとしていた。その場に、切ない空気が滲む。


「でもね。気にしないで。お母さんも舞花も元は一人だったんだし、今でこそ変わった現れ方をしてるけど、それでも一人の人間であることには変わりはないから。あたしたちは、ううん、あたしはこれから在り方を変えて、成長するの。お兄ちゃんにはそれを、見守ってほしいな」

「………………」

「いっぱい優しくしてくれて、本当にありがとう。大好きだよ、お兄ちゃん。これからも、よろしくね」

 言って、舞花は光久を離れて俺に歩み寄る。


「それじゃ、ゆーくん」

 一日ぶりの舞花の声に、俺はどきりとする。

 だが、よくよく聞けばその声は、御津宮と共通する部分があった。

「お、おう」

「あたしを、還してもらえますか? 多分、ゆーくんじゃないとできないから」

「えー、具体的にどうすれば……?」

 人格を一つに統合する手段なんて、俺にはさっぱり分からない。

「お母さんは、ゆーくんに好かれたがってあたしを創った。その願望が満たされれば、きっと。――――あっ」

 舞花はてしばらく黙考していたが、突如として両手で頬を包み、赤面した。

「わ、分かりました。その、き、き……キス、です。多分」

「えっ、き、キス?」

「は、はいっ!」


 心臓が跳ね上がり、危なげな汗が吹き出す。光久から逃げたり御津宮を探していたさっきよりも、鼓動が速くなっている。

 生まれてこの方、尋以外との異性と手を繋いだことすらない俺、二次元主義者のこの俺が?!

「そ、そんなことでいけるのかよ本当に。いや、そんな簡単にいく、のか」

 簡単とはいっても、俺には果てしなく難しいのだが。

「いけますいけます! だって夢見がちな恋する少女の究極の到達点って言ったらそこじゃないですか。それに、あたしのお母さん――御津宮紗枝は、稀代の天才であるお兄ちゃんが目をつけた自己改変の超天才なんですからっ!」

 ぐっ、と握り拳を作る舞花。


「じ、じゃあ、その」

「はい。よろしくお願いします。このキスは、ちゃんとあたしにくださいね」

 舞花の優しい声。

 俺は、その優しさに躊躇った。この果てに、舞花の笑顔が消えることを想像してしまった。

 本当にいいのか?

 舞花にはなんの罪もない。もちろん、御津宮を救いたいという気持ちに偽りはない。皆の努力を無駄にできないことも分かっている。でも、それでも。俺はこの、初恋の相手を消せるのか? きっと、心の底では生を望んでいる彼女を。

 俺は、自分たちがやろうとしていたこと、御津宮を救うということの別の側面に、今さらながら思い至った。

 時間にしてそれは、数秒の迷い。


「認め、られ、るかぁああぁぁ!!!!」


 そのわずかな隙に、さっきまで死んでいた光久が地獄のような叫び声を上げながらこちらに飛びかかってきた。

 ああ、しくじった。

 最後の最後で、やらかしちまった。本当に駄目な奴だな俺は。

 そういや前に舞花と会っていたとき、思ってたっけ。兄がシスコンだったら、出会った瞬間に殺されるかもしんないって。まさか、それが現実に、

 

 現実には、ならなかった。

「……ぐ、ぅ…………」

 俺に手をかける直前で光久は崩れ落ちていて、そのすぐ近くには、

「尋っ?!」

 スタンガンを持った長身寝癖の幼なじみが立っていた。

「あはは、わたしのことに気付かないなんて、よほど余裕をなくしてたんだねーお兄ちゃん? ずっと尽くしてきたのに自分が選ばれないなんて、わたしたちってもしかして似た者同士? ま、とりあえずは私と一緒にこの結末を見ましょーよ」

 ダメ押しに、倒れる光久の上にどっかりと腰を下ろす尋。


「お前、お前なんで、この場所が」

「んとねぇ、幼なじみの愛の力……って言いたいとこだけど、だよー。あのとき、さくらちゃんは光久の分は取ったけど、取ってなかったんだよねー」

 さらりととんでもないことを言う。しかしこのタイミングの良さ。

 俺がどの程度のクズなのかを知り尽くした行動。

 こいつ、尋め! 最凶で、最高の幼なじみだな!


「ゆーくん、早くっ!」

 言われるまでもなく。俺は舞花を抱きしめていた。その感覚は、全く以て初めてのもので、したがって言語化できない。

 ああ、くれてやるよ! こんなクソ野郎のファーストキスでよけりゃいくらでもな!

 顔を近づける。唇が重なる、その直前、

「ありがとうゆーくん。あたし、最初から最後まで幸せでした。もしも、またあたしが出てくるようなことがあったら、その時はまた、よろしくお願いしますね」

 そして、


 距離がゼロになる。

 ギャルゲーの中では何度も何度も何度も何度もシミュレートした行為が、現実になる。

 感触とか、体温とか、鼓動とか、匂いとか、情報が一気に流れ込んでくる。

 ――――ああ、ああ畜生!

 これが、これが三次元ってやつかよ――――。

 そう思って、俺は目を閉じた。

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