蜘蛛女の美術室
昼休み。
俺と尋は、俺特製の「豚八割の酢豚弁当」をつついていた。
「ねえ、ユウキちゃんはあの暗号、分かりそう?」
「あー? さあな。解く気も別にないけど。なんだ尋、気になるのか?」
「うーん。やっぱり、いいや。うん。この話はなしにしよっか」
なんだよ。そんな風に切られたら、かえって気になるじゃねえか。
「鍵って、なんだろうね」
「『今の世界を表す言葉』だったけか。あいにくと世情にはうとくてね」
「そういうもんなのかなぁ」
解く気も解ける気もないが、解いたらなにが当たるかはちょっと気になるな。教室の連中もそこは同じだろう。一万円をもらった俺という実例もあるわけだし。
俺は一応、ノートに数列をメモしておいた。
さて、午後の授業は一瞬だった。午前中の重苦しい雰囲気との落差による体感速度。あっという間に来た放課後。
「帰るか」
「うぃー、そうしよー」
しかし今日は疲れる日だったな。尋を起こすのに難儀し、辻先輩と遭遇し、御津宮には直接絡まれる。とっとと帰って休もう。
二人して教室を出、階段に差し掛かったときである。階下から一年生の女子が、駆け足で上がってきた。その女子は、俺たちの、いや、尋の前で止まる。
「はぁ、はぁ、す、すみません。雪島先輩っ」
「あれー、沙希ちゃんどしたの」
二人は知り合いのようだ。この一年女子も、尋には全く及ばないが背が高かった。
「じ、実は……た」
「た?」
尋は首をかしげる。
「助けてほしいんです! 私たちバレー部を!!」
「ええぇっ?!」
要約すると、
ギリギリのメンバーしかいないバレー部の一人が、怪我で試合に出られないようになったということだ。尋は、なにせこの高身長である。生来の気質が戦闘的ではないにも関わらず再三バレー部からの勧誘を受けていたほどだった。そういった事情でこの一年生とも知り合ったようで、彼女の必死の懇願に、オロオロしていた。
「どうしよー、わたし、性格的にスポーツ向いてないし。ねぇ、ユウキちゃんー」
自身のない声が、俺にかけられる。一年生も、俺の方を向く。あー。
俺はガシガシと後ろ頭をかきながら、言った。
「別に、やってみりゃあいいじゃねえか」
「え?」
「お前のスペックが買われてるんだぜ? もっと自信を持てよ」
言ってやった。これは紛れもない俺の本心だ。
「で、でも。これを受けたら、わたししばらく放課後は練習漬けだよ? 遅くまで」
一緒に帰ったり遊んだりする時間は減るだろうな。けど、
「ええい、いつまでもってわけじゃないだろ。一ヵ月位の話なんだろ? だったら、助けてやれよな後輩を。幼なじみの俺に、恥をかかすんじゃねえ」
と強めに言ってはみたものの、俺だって内心寂しい。俺は尋以外とはほとんどどまともに話さない二次元主義者で、こいつがいなけりゃスムーズに学校生活を送れない。この話が放課後以降のことだとしても、基本的には離れたくないのだ。ただ、自分の幼なじみが必要とされたのは素直に嬉しかったし、その可能性を潰したくないというのも本心だった。この依頼を俺の一存で断ってしてしまうと、後々後悔しそうだという直感もある。
「うん。わかった。自身はないけど、わたしやってみるね」
尋は、弱々しいながらも前向きな返事をした。
「よし、それでこそだ。褒美に、朝食の肉率をアップしてやろう」
「わーい、やたー」
という感動のシーンだったのだが、そこに一年生が割って入る。
「す、すみません! 時間がないので、さっそく体育館にっ」
「うえええっ?! ちょっと急すぎるよおお――――」
余韻に浸る間もなく、尋は連れ去られてしまった。
うーん。こっから、どうしようかねぇ。
珍しい展開。俺は慣れない頭で考えた。
尋をいきなり一人で帰らせるのも悪いが、俺一人で教室にいるなんてのは真っ平御免だ。
そんな俺の頭にほどなくして、久々に美術部に出るという選択肢が浮かぶ。
例えば漫研だとか、美術部よりも二次元寄りの部活があればよかったのだが、残念ながらこの学校にはない。そんなわけで、一応少しは絵を描く(二次元イラストが主だが)俺は、美術部に入った。尋もだ。けれど、やっぱり尋以外の三次元人といるのは落ち着かなくて、二人で落書きをしている方がずっと楽しかったので、現在は二人とも幽霊部員と化していた。
「あれえ、今日は雪島さんと一緒じゃないんだ」
一人歩いていると誰かが、そんな風に声をかけてきた。四六時中一緒にいるから言われても仕方ないのだが、いざ「いつも一緒」みたいな感じで他人から言われてみるとムッとくる。
「別に、そういう日も、あるよ」
対人の恐怖を避ける狙いもあって、俺は素っ気なく答え、早歩きで美術室へ向かう。
自分たちへの好奇の目には慣れたつもりだったが、畜生、まだまだ修行が足りないな。
「失礼します」
美術部は、絵に向かってれば人とコミュニケーションを取らずに済むから比較的楽だ。などと考えながら茜色に染まった美術室の扉を開けた俺。ぬるい思考は、扉を開けた瞬間に目の前に降りてきたモノを見て、一気に凍りついた。
巨大な、とてつもなく巨大な蜘蛛だった。
夕陽に照らされ、足の先から先まで少なくとも三十センチはあろうかという大蜘蛛のシルエットが、音もなく眼前の、鼻に触れるか触れないかの距離に現れたのだ。
「うわばあああああああああっ!!!」
無我夢中。そいつを顔に張り付かせまいと、毒蜘蛛である可能性も頭からブッ飛んで、俺はそいつを手で弾き飛ばした。
(二次元的モンスター娘の中で蜘蛛女は割と好物だが、現実の蜘蛛は勘弁してくれっ!)
「ああん! ひどいっすよ。さくらちゃんの蜘蛛隠れ3号になんてことするんですかあ」
甘ったるい、挑発的な女の子の声。てか、今の蜘蛛の感触、紙かなんかだった。どうやら、扉を開けると同時に降りてくる仕掛けだったようだ。なんてタチの悪い。
美術室の隅に、蜘蛛の形に切り抜いた厚紙と思わしき物体(どうやら蜘蛛隠れ3号と言う名前らしい)を、愛おしそうな仕草で回収する女生徒がいた。
ネクタイの色からすると一年生。短めのポニーテールで髪をまとめている。蜘蛛隠れ3号を胸に抱く彼女は、制服を絵具の汚れから守るための黄色いエプロンを着ており、そのエプロンにもまた、黒一色で巨大な蜘蛛のイラストが描いてあり俺はギョッとする。そして、目の前の人物が誰なのかに気付いた瞬間、イタズラへの怒りに沸騰していた思考は冷え、どろりとした絶望感に変わっていった。
「あー、どうしたんすか? さては、さくらちゃんのあまりの美少女っぷりに、声も出ないんっすね!」
間違いない、こいつは二度も名乗った。自分を美少女と謳う自重しないセリフも噂で聞いた通りだ。だいいち、こんな風に蜘蛛を好む女生徒なんて、三大変人の一人、一年の
マジで眩暈がしてきた。今日という日は一体全体なんなんだ。とうとう最後の一人とも、三大変人の全員と絡んじまったじゃないか。会いたいなんて、欠片も思ってなかったのに。
しかしなぜ彼女が美術室に? 松本は学外にも広く名を轟かせる新進気鋭のアーティストで、美術関係者ではある。だが、傲岸不遜の彼女は、一般の美術部になど入りませんとのスタンスを貫いていると聞いている(ぶっちゃけ、そう思うなら普通の学校に来るなよと言いたい。美術系の所からいくらでも誘いはあっただろうに、わざわざ普通の学校に来るなんて普通のやつを馬鹿にするためとしか思えない。と、そういうキャラクターなわけだ)。
「ようこそお越しくださいました一般人様! 天才美少女さくらちゃんのアートライブ、お代は要らないっすよ!」
ほうら、人のことを「一般人様」とか自分のことを「天才美少女」とかね。ちなみに、美少女ってのは本当らしい。アイドル顔負けだそうだ。といっても、三次元の時点で俺には意味がない。だいいち、天才美少女を自称しちゃうキャラなんて、二次元ならともかく三次元じゃ正直ウザいだけだろう。
「えー、と。俺は、一応美術部員なんですけど、他の人たちは? あと、松本さんって美術部だっけ」
「あらら、通達が行ってないなんて、先輩様はもしかして幽霊のヒトっすか」
「まあ、ね」
「ふふん。さくらちゃんは孤高の美少女アーティスト……おっと、孤高の『天才』美少女アーティストっすね。なので美術部員じゃないっすよん。んで、美術部員様の方々にはですねえ。一時的にお休みいただいています」
「なして?」
たしかこいつは、家に自分のアトリエを持っているという話だったはず。わざわざ美術室で描く必要があるのか。
松本は蜘蛛隠れ3号をそっと机の上に置き、美術室の中央に移動すると、華麗とは言えない一回転を決める。見たところ運動神経は悪そうだ。
「そ、れ、は、ですねぇ。こ、の、『美術室内』が、今回のモチーフだからっす!」
天に向けて手を差し出し、拍手喝采を待ちわびるように動きを止める松本。もちろん俺は拍手などせず、無言のうちに冷やかさを含ませてやる。だが、なるほど。そういうことか。
松本さくらの絵画の多くは「廃墟」を描く。
廃墟とは言っても、現在廃墟になっている場所を描くのではない。普通の場所を見ながら、その場所を見事な廃墟絵として描くのである。その絵のリアリティ、廃クオリティは、有名アーティストにいたく気に入られ、ン百万で買い取られたとも。また、彼女の廃墟には見える人だけ見える幽霊が描かれているとも言われる。それは松本さくらの天才的な色覚センスのなせる業だとか。
ともかく、普通にしていれば学校でもいい意味の有名人、美少女だしモテモテ――――になるはずだった松本さくらは、全く自重しない性格のせいで友達もおらず、入学一週間ほどで三大変人の一角となったのである。全ては尋から聞いた話だが。
彼女は今回、俺たちがいる空間を、美術室を廃墟に変えようとしているのだろう。にしても、自分の作品のために美術部全員を追い出すとは、やはりまともな神経じゃない。
俺は美術室の隅に置かれたキャンバスに目をやる。
まだ下書きの段階ではあるが、そこには寂しくも美しい「この部屋の廃墟」が描かれていた。見続けていると、俺が踏みしめているこの床が今にも色を失い、ひび割れていくような錯覚に陥りそうになる。
「どおですか先輩様っ。さくらちゃんの絵は、すごいでしょう?」
松本は、蜘蛛エプロンに包まれた胸を盛大に反らし、ふふんと鼻を鳴らす。減らず口のおかげで相当に減点だよ。でも、確かにやるな、とは思った。俺も少しは絵を描く人間だから、その才能は普通に羨ましい。
「ああ、確かにすごいよ。んじゃあ、邪魔しちゃ悪いし俺はこれで。完成、楽しみにしてるよ」
こいつといると、俺の多少はある絵心のプライドが傷つくし、このままこいつの自重しない言葉を聞いていたら、俺の中では廃墟絵の評価がどんどん下がっていくだろうし、いいこと無しだよな。
松本に背を向け、美術室を出ようとしたところで、腕に衝撃。松本が俺にしがみついていた。尋とはまた違う感触にぞくりとする。
「ちょっとー、なに勝手に帰ろうとしてるんですかあー、先輩様ぁ!」
「い、いや。俺がいても邪魔になるだけだろ。それに俺は君が嫌いな『一般人様』だぜ?」
松本が急に手を離したので、俺はよろける。
「あー、いやまぁー、そうなんですけど。そうですねぇ、なんとなく、先輩様からは常識と群れてる感じがしないんで」
あ、そう。天才様にそう言われるのはある意味悪くないかもしれない、が、
「そんじゃ」
拘束が解けた隙に、俺は美術室を飛び出ようとする。
「ああん! なんでこの美少女から逃げようとするんすかぁ! 不能っすか、ホモっすか!!」
失礼千万発言に反応した俺は、再び捕えられてしまう。
「不能じゃねーし、ホモでもねーよ!」
君は確かに可愛いのかもしれないが、俺が理想とする可愛さはとは文字通り次元が違うのさ。アイドル級に可愛くたって、俺はアイドルの可愛さとかがまるで分らないんだ。そもそも、「美少女」って表現が好きじゃない。我が敬愛する二次元のイメージ世界は、その世界的に美少女じゃなくても二次元ゆえに可愛く見えるところがミソなんだよ。
「さくらちゃんは、決めましたよ」
「な、なにを?」
「先輩様には、死んでもらいます」
なぜ? 意味が分からない。美少女様に興奮しなかったという理由か? にしても、なんなんだよこの唐突なヤンデレ発言は!
「ちょ、早まるな松本さん。俺はまだ死にたくない! だいいち、俺がなにをしたってんだ」
無様に取り乱す俺。松本は、そんな俺を見てか小さく吹き出す。
「ぷくく、あっははは! 先輩様なにを勘違いしているんすかあ? さくらちゃんが言う『死んでもらう』っていうのは、廃墟絵に出てくる幽霊のモデルになってもらうっつーことっすよ。さくらちゃん語録に載ってますって。邪魔になることを気にするなら、協力してくださいっ♪」
はぁ? んだよこいつ、馬鹿だろ絶対。付き合ってられねー。
「分かりにくすぎるよ! それに、モデルならいくらでも候補がいるだろ。なんで俺なの」
「理由なんて一つしかありません。天才美少女さくらちゃんのインスピレーションです。そんでそれ以外はどーでもいーです。とにかく、さくらちゃんの天才的、おっと、天才『美少女』的なインスピレーションによって、今回の作品は『リアル幽霊部員』に決定しました。先輩様が自分のことをモデルに向かないと卑下するの構いませんが、この天才美少女の感覚は絶対なので諦めてください」
自分勝手すぎて、清々しさすら感じる理屈。馬鹿とも言う。
「っつーわけで、ささ、どーぞお座りください。今、この美術室はさくらちゃんの『蜘蛛の巣』です。先輩様がなにもしなくても、先輩様にモデルの才能がなくとも、天才美少女さくらちゃんがしっかりとエッセンスを搾り取ってあげますんで」
俺に着席を勧め、描きかけのキャンバスの位置を変更する松本。それは絶対的な隙で、俺は三度目でようやく美術室を出ることに成功した。
「あーっ! なんでいなくなるんすかあ!! 神々に選ばれし天才美少女さくらちゃんの誘いを断るなんて八つ目の大罪っすよ! いいっすか、さくらちゃんは昼休みとか放課後とか、大抵ここにいるっすからね、待ってますからねぇっ!! あ、ちなみに八つ目の大罪ってのは蜘蛛の目とも掛けてて」
自称天才美少女の怒号が後ろからついてくる。そこから逃げるうち、俺は勢い余って校門の近くまで来てしまった。
後ろを見るが、追ってくる者はいない。
「はぁ、はぁ、……ははっ」
俺は自虐的に笑う。おいおい、なんだよその自意識過剰は。お前は今まで、幼なじみ一人としかほとんど交流のない、引きこもり寸前の人間だったじゃないか。それが今日一日、他の人間と少し会話しただけでどう変わるっていうんだよ。お前を追いかける奴なんて誰もいないさ。
(分かってる。分かってるさそんなこと。ここは、現実だ)
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