幻影嬢、再来
で、結局。
玄関を潜ったところで無情にも始業の鐘が鳴った。あと三十秒あればすべり込めたあたり、俺が辻先輩におののいていた数瞬がデカかったと見える。
「うう、ユウキちゃんどうしよー」
もとはといえばお前がぶつからなけりゃ、という言葉をぐっと飲み込む。最後にポカしたのは俺だし強くは言えない。今や別世界への境界線となった教室の扉を睨み、俺は覚悟を決めた。
「担任が板書している隙に、素早くいくぞ」
入ってくる瞬間さえ見られなければシラを切り通せるかもしれない。クラスの視線から逃げることはさすがに不可能とはいえ、尋はそこそこ人望がありそう(俺はともかく)なので告げ口はないだろう。
扉の窓から、担任が黒板に向かうのを確認。
俺が扉をそっと開け、二人は忍び駆け足で教室へ、尋が扉をそっと閉め、二人は音をたてないように注意しながら椅子を引き出し、ふわり、とそれぞれの席に着く。まだ担任は黒板に向かっている。
扉から一番近い位置の席という幸運や、かつて尋の巻き添えで遅刻したときの侵入経験(その時は失敗)に助けられ、ここまでは完璧だ。あとは担任が振り返ってからの勝負になる。
いっそのこと来るなら来い、との心境で担任の後姿を凝視する。すると、チョークを走らせる動きがぎこちないように見えた。なんだ? 違和感の連鎖。ぎこちないのは担任だけでないことに気付く。この教室の、空気全体がぎこちない、重っ苦しいのである。
なにかがある。
教室に違和感の香りをバラ撒くなにかがいる。
それは、そいつは、俺たちが遅刻してきたことなどどうでもよくなるくらいの一大事なのだ。
俺は負の雰囲気の流れに沿って後ろを向く。クラス全員の心の目が注目しているであろうその場所を見る。そして俺と同じ列の最後尾、教室後ろの出入り口から最も近い席には、やはり、いた。
一週間連続欠席を決めた俺のクラスメートにして学内三大変人の一人、
大勢の似通ったクラスメートの中で一人だけ突出した、指定制服とは異なる黒のセーラー服、黒タイツ、黒縁メガネにセミロングの黒髪。黒ずくめの彼女は、まるで暗黒天体のようにクラスの注目という注目を吸い込んでいた。
「久しぶりに来てみれば、なぜだか教室の空気が重いね。ハハ、もっと元気よく行こうじゃないか、うつし世の諸君!」
お前だよお前、教室の空気が重い元凶は。全員がやっているだろう脳内ツッコミを俺もする。
「うつし世(現世)」は御津宮の口癖だ。どういう意味で使っているのかは謎だが、おそらく「現世→俗世」、「うつし世の諸君→この庶民ども」だと思う。相変わらず厨二的というか、ワケの分からない言い回しをする女である。
さて、一週間ぶりの御津宮のインパクトにより、遅刻が不問になったのはいい。しかし、御津宮が来たことにより生じる空気の重さ、教室の緊張感はやはりよくない。妄想したくても、気が散って仕方ない。こいつは、教室に埋まった爆弾のような存在だ。踏んではいけない地雷、だが、なにもしなくてもよく勝手に爆発する。
「諸君に、ここでひとつ問題を」
一限目の休み時間。唐突に御津宮が教室全体に向けて声を上げる。否応なしに教室の注目がそちらに向く。一斉におしゃべりが止み、椅子の向きを変えるガタガタッという音が続く。まるで軍隊の整列だ。
「皆、想像力を働かせたまえ」
御津宮は読みかけの文庫本に挟まれた栞を引き抜く。二つの指に挟まれた、とてつもなく巨大な薄茶色の紙。だが、文庫本の方にもそれは残っていた。この紙は正確には栞じゃない。御津宮が栞代わりに使っている、厚さ一ミリの十万円の束なのだ。
「宇宙の色、闇の色。実はこれは、世界の果てに貼られた壁紙なのさ。こいつを、神がかり的な力をもってしてペリペリと剥がしていくとしよう。さて、ここで問題だ。宇宙色の壁紙の下に潜むその色とは? 一体全体何色だろうね。私の心を震わせる回答者には、私の愛用する栞をプレゼントしよう!」
つまり一万円だ。今までに何度かあったこの御津宮問答において、いまだに賞金を得た人間はいない。
もちろん、こんな問題に答えなんてない。御津宮の問題は大抵そういうものだ。また、「そもそも色というのは光の反射でえ~」などとマトモな話を持ち出すのは危険。そいつは地雷だ。
問われているのは、センスだ。御津宮が気に入るかどうかの。つまりは、金持ちの道楽。
「赤」
「緑」
「サーモンピンク」
「剥がしても同じ色」
ある者は手を挙げて、ある者は御津宮に指さされ、回答を口にする。御津宮は、うなずいたり、首を横に振ったりしながら、回答権を回していった。
俺ならなんて答えるだろうか。
俺は割と、御津宮の意味不明な質問を真剣に考える。想像力を使うのは面白い。俺に全く分からない流行の話題や、クラスの噂話よりは、とりとめのない想像の方が楽しいのだ。
まぁ、実際に手を挙げる気なんかはサラサラなく、もしも当たったらこう答えよう、くらいな感じだ。いっぺん俺に当ててみなよ、そしたらちょいと洒落た回答をしてやるぜ、的な。
「そこの君」
まぁ、俺の脳内宇宙は、好きな二次元キャラクターが作品の枠を超えて集った自作のコラボ画像が壁紙となっているのだがね。題して「脳内神話体系」。
「そこの、出入り口のすぐ近く、前から二番目に席にいる、頬杖をついている君だよ」
ん? って、俺か! 御津宮問答で当てられたのは初めてだ。
「さあ、答えたまえ。宇宙色の壁紙を剥いだ、その下に潜む色を」
えーと、なんだっけ。どう答えようと思ってたっけ。いざとなると、頭が鈍る。
「えーと、はい。壁紙の下は、青空です。入道雲が広がる、夏の空。そういう壁紙の設定です」
御津宮は色と言ったが、俺は景色を答えた。そういや、青空ってよくパソコンの壁紙になるよな。そのイメージがあったのかもしれない。
「ほう。なるほど、色は色でも景色とはね。いいじゃないか。宇宙の壁紙を剥いだ下には真夏の青空かい」
やっぱりな。こういう変な質問とか考える奴は、変な解答を望んでいたりするものだ。
「壁紙の設定者は、一体誰なのかな」
っておい。質問続くのかよ。こいつはなんだ、神とでも言わせたいのか? 中二病め。
「観測者=自分=神の三位一体です」
って、うおおおい! なに言ってんだ俺! 日頃の尋との会話ノリで、つい変なことを!
しばらくの間があった。
その沈黙を、ゆるりとした拍手が破る。
「――――素晴らしい。大変よくできました、だよ。君の名前は」
「え、はぁ。き、北原悠樹です」
あれれ。もしかしてこの流れって。
「北原君、君はいいセンスをしているね。合格だ」
御津宮は席を立ち、ゆっくりと俺の方に近づいてくる。そして手にした栞――――もとい一万円札を差し出す。
「お近づきのしるしだ。どうぞ受け取ってくれたまえ」
瞬間、教室がざわめいた。
しまった。当然、御津宮の申し出を断れるわけもなく受け取るわけだが、クラス一の変人に合格宣言されるような悪目立ちは、勘弁してほしい。
「君とは、フフ、話が合いそうだ」
「ど、どうも」
「今度は、そうだね。心理数学の問題にしようか。夕暮れの草原に地蔵が一列、見渡す限りに並んでいる。この中には首なし地蔵が混ざっているのだが、君が見始めた地点から、最初に現れる首なし地蔵は何番目にあるだろうか」
意味分かんねぇ。いや、意味などないのだ。
「えー、というか、その草原には、見渡す限りに首なし地蔵が並んでいます。だから、何番目とかはないです」
俺はできる限りいい加減に答える。
「ククク、なるほどなるほど。それが君の心象風景かい! どうやら君の心には大量のお供え物が要るようだね!」
しかし御津宮は上機嫌。ツボってしまったか? もうなにを言っても喜んじまうんじゃないか?
実際、この概念的問答にあと数問付き合わされたわけだが、御津宮はずっとテンションが高かった。俺のテンションは解答する度、ずぶずぶと沼にハマり込むように沈んでいった。
「すごいじゃんユウキちゃん! このクラス始まって以来の快挙だよ! よかったねー」
「うるせぇ」
御津宮が自分の席に戻った後、心にもないことを言う尋の脳天に一撃をくれてやった。クラス一の変人に気に入られて、よかったワケねーだろ。
「おい、尋」
「ううう。なにー」
殴られた頭をさすりながら、恨めしそうな声を上げる尋。
「俺は悪目立ちしたくない。今の一件でなにか聞いてくる奴らがいたら、俺まで届かないようにあしらっといてくれ」
「ほうしゅうは」
「この一万円で、そうだな、美味いウナギでも食いに行くか」
「りょうかいっ! 不肖、この雪島尋、精一杯務めを果たさせていただきますっ」
俺は、対人バスターである長身寝癖の幼なじみの、フィルター機能を『強』に設定した。
「あぁ――――森○の焼きプリンが食べたい。私は今、あえてうつし世の、質実剛健なスイーツが食べたい気分だ。誰か、誰か買ってきてくれる人はいないだろうか」
三限目の休み時間。
御津宮の独り言に、教室の会話が途切れる。御津宮は再び、栞代わりの札束から引き抜いた一万円札をプラプラさせていた。
もしプリンを買ってきてアレがもらえるなら、一瞬で一万円近いプラスとなる。学校の近くにコンビニはある。ただし、上手く学校を抜け出して休み時間内に戻ってくるのはかなり難しい。それに、この独り言を受けたらその時点で御津宮のパシリというレッテルを貼られることとなる。多分御津宮は、本当はプリンなんてどうでもよく、こういう教室の葛藤を楽しんでいるのだと思う。クラスにはみるみる嫌な緊張感が生成されていく。
「フフ、勇者は現れず――――か。
そしてタイムリミットとなる。
御津宮が「光久」と呼んだ瞬間、教室後方の出入り口が開く。現れたのは黒づくめの長身痩躯の男。明言されてはいないが御津宮の従者的な存在であろう
「お嬢様。森○の焼きプリンでございます」
「ありがとう。相変わらずのいい仕事だよ、光久」
御津宮が好き勝手に振舞っていられる理由は、この男にある。
去年の秋ごろに転校してきた御津宮紗枝は、こういう調子であったので、瞬く間に多くの敵を作った。普通ならイジメにも遭う。だが、彼女を敵視し、実害を加えようとした者達は、ことごとく戌亥にやられてしまったらしい。以来、御津宮に逆らう者はいなくなった。
教師でも生徒でもない謎の人物、戌亥光久。こんな奴が堂々と学校に出入りしているのは、御津宮の権力のなせる業なんだろう。
ともかく、権力を行使するお嬢様キャラなんて、現実にいたら迷惑なだけだ。
いつ御津宮が動くのか。警戒態勢でカリキュラムは進み、そして四限目の途中、皆の待ち望む時間がやって来た。
「う、うう、げほっ、けほ、……ぜぇ、ぜぇ」
突如として教室に響く、わざとらしい咳声。皆に驚いた風はない。いつもの光景なのだ。
「せ、先生。すみません。私はもう帰らねばなりません。体調が、優れず」
「え、ええ。お大事に。明日も、辛かったら無理しないでね」
化学の女教師が言う明日も辛かったら無理はしないで=二度と来るなバカヤロー、であることは疑いない。
御津宮は欠席魔というだけだはない。登校したとしても必ず半日と経たずに帰る早退魔だ。理由は病気。だが、誰もそんなものをまともに信じてはいないし、どんな病気なのかも知らされてはいない。
「はぁ、はぁ、き、今日も、うつし世の皆と過ごせる時間が……終わってしまう。本当に残念だよ。もうじき、私の本当のお迎えも近いと見える」
こいつの言葉を信じるなら、こいつは病気のためにもう永くはない、らしい。もっともクラスの連中は、それをサボリの口実としか思っていない。
教室後方の出入り口が開き、戌亥が姿を現す。
「お嬢様、お時間です」
「やあ、光久。すまないね。少し待ってくれたまえ」
黒いセーラー服姿が、ふらふらと前に向かう。いつもは戌亥の登場と共に即座に退場しているだけに、教室全体がこの奇行に緊張を走らせる。御津宮は時間をかけて、黒板の前に立つ。
「チョークを、お借りしますよ」
御津宮は怯える化学教師からチョークを奪うと、黒板の上部中心辺りになにかを書き始める。
それは、数列だった。
左から、「7、34、5、3、15、15、7、29、5」。
「今日はうつし世の皆に置き土産をしよう。この数列は、ハハ、お察しの通り暗号さ。非常に簡単な暗号だけど、鍵が分からないことには決して解けない。ヒントは『今の世界を表す言葉』。分かるかな、フフフ。解いた者には、素晴らしいプレゼントを用意するよ」
教室がどよめく。素晴らしいプレゼントとは金か? それとも。
御津宮は固まる化学教師の手にチョークを戻し、教室全体に向けて、
「邪魔にならない位置に書いたのだから、消してはいけないよ。もし、次来たときになくなっていたなら、私はものすごく悲しんでしまうからね」
脅迫めいた余韻を残し、いつのまにやら教室前方の出入り口に控えていた戌亥に連れられ、御津宮は消えていった。
クラス一の変人の一週間ぶりの登校は、このようにして幕引きとなった。
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