08 クーと生き物の秘密 2
「おイヌさまおイヌさま」
クーのところへ行こうと思ったら、誰かの声が聞こえてきて、ぼくは立ち止まる。
校舎のかげから覗いてみると、ちがうクラスの女子が、クーがいつもいる茂みに向かって手を合わせていた。
「おイヌさまおイヌさま」
「クウーン」
「おこしくださり、ありがとうございます。わたしの話を聞いてください」
「クウーン」
その女の子は、クーがいる茂みの前に座りこんで、しゃべりはじめた。
おかあさんとおとうさんがケンカばっかりして、リコンするかもしれないっていう内容で、ぼくは足音を立てないように気をつけて、その場所からはなれることにした。ああいうのは、だまって聞いちゃダメなやつだ。ないしょのないしょのお話だ。
女の子の声はすごくちいさくて、泣いてるみたいな声だったから、ぼくもなんだか哀しくなってきた。
おイヌさまは、ひとりでやるものじゃないから、みんなのいるまえでは質問なんてできない。
だから、本物の犬であるクーという「おイヌさま」に、ああして話をしているのかもしれないよね。
クーの秘密が広まっていくにつれて、クーとおイヌさまをおなじにあつかう子たちが増えてきたみたい。ぼくがうっかり聞いてしまった女の子のないしょ話は、とくべつなことじゃなかったんだ。
ごはんをあげるときに話しかけるのはいつものことだったけど、そのお話の内容が、お悩み相談になりはじめた、らしい。これはじつは、コンさんに訊いたことだったりする。
おイヌさまをやっていると、
「べつに黒い毛並みが悪いわけじゃないんだ。でもワタシは、この真っ白な毛を誇りに思っているんだよ」
「ぼくも、コンさんの毛はすごくきれいだと思うよ」
「ワタシが以前に黒く染まったことがあっただろう? あれは、子どもたちの
瘴気という言葉は、コックリさんのさわぎがあったとき、雷獣のハクさんからも聞いたことがある。タマさんも言っていたし、妖怪の世界ではよく知られたものなのかも。
「
「えっと、病気になる、みたいなこと?」
「よくわかっているじゃないか、さすがだね、タケルノミコト」
「だから、ぼくはただのタケルだってばさ」
「タケルノミコト、ケモノに気をつけな」
「けものって、動物だよね」
もしかして、クーのことかな。
コックリさん禁止令が出て、みんなの不満がいっぱいになったとき、もやもやした黒いものがいっぱいになった。おイヌさまはひとりではできないけど、クーに話をするだけなら、ひとりでこっそりできるんだ。
こっそりと話すことっていえば、あんまりひとには言いたくないことでしょう?
悪口とか、そういうのもきっとあるんだ。
クーはただの犬だから、人間の言葉はしゃべらない。
だれにもないしょの秘密のできあがりだ。
「……クーを、どこかよそへやらないと」
このままあそこにいたら、あの場所にたくさんの瘴気がたまっちゃって、また封印っていうのをやらないといけなくなるんだ。
このまえはハクさんが助けてくれたけど、ハクさんはどこかべつのところに住んでるっていってたから、やるならぼくがひとりでやらなくちゃいけなくて。
そんなの、ぜったいムリだって!
ぼくは、コウキくんに相談することにした。
しあさってからは夏休みだし、ごはんをあげることができなくなる。べつの場所――たとえば、上坂神社とか。隠れ場所をああいうところにすれば、ごはんだってあげやすくなるんじゃないかなあ。
「たしかに、夏休みのあいだは心配だよな」
「でも、どうやって、学校から出せばいいかな?」
「野良犬だから、首輪とかしてないもんなー」
首輪をしていれば、クマゴロウの散歩用のリードをつかえる。
「そういえばさー、知ってる? 動物ギャクタイの話」
「ギャクタイって、叩いたりするやつでしょ?」
「うちの県のどこかで、動物を撃って殺したりする事件があるんだって」
「えー、なにそれ」
野良の犬や猫が被害にあっていて、放し飼いはやめましょうって注意されてるらしい。クマゴロウはいつも、お隣の市にある動物病院に行ってて、そこで聞いた話なんだって。
そんな怖いことがクーにも起きたらたいへんだよ。
とりあえず明日、クーを連れてべつの場所へ行けるかやってみることにしたんだけど、どうやらおそかったみたい。
放課後、コウキくんといっしょに行ってみたら、そこはもうさわぎになってたんだ。
ミキモト先生の大声が聞こえてきてあわてて行ってみると、うちのクラスの子と二組の子たちがいて、先生に怒られている。ぼくたちが覗いていると、見つかっちゃったから、いつもクーがいる茂みのところまで歩いていく。
ミキモト先生がぼくとコウキくんにも怒った。
「おまえらもか!」
「なにが、ですか」
「犬にエサをやってるのは、おまえらもかって訊いてるんだ!」
「い、犬なんて知らないし!」
そのとき、二組の子が言った。ほかの子たちもおなじように、知らないと言いはじめる。もしものときはそうしようって、みんなで決めていたことだ。
いま、クーはここにはいないんだと思う。呼んでも出てこない日は、たいていずっといない。今日はいない日でよかった。
ミキモト先生は長い棒を持ってきて、いつもクーがいる茂みのところをグサグサ刺しはじめた。地面に葉っぱが落ちる。
「どこに隠したんだ!」
「だから、さいしょからいないし!」
「だったらなんで、こんなところに集まってたんだ」
ミキモト先生が言うと、みんなは黙る。どう言いわけをすればいいか考えていたとき、コウキくんが言った。
「秘密基地をつくろうって話をしてたから、です」
「基地?」
「ここならあんまりひとも来ないし」
「学校の敷地内を、遊び場にするんじゃない!」
「ごめんなさい」
コウキくんが頭をさげたので、ぼくたちもおなじようにする。
ミキモト先生は「早く家に帰れ」って怒鳴っていて、すごくイライラしているみたいだったから、ぼくたちは走って帰った。こういうの「さわらぬ神にタタリなし」っていうんだ。
クーはいま、どこにいるんだろう?
動物世界のことなら、タマさんに訊けば、なにか知ってるかもしれない。
家に帰ってさっそく訊いてみたら、タマさんはふーとため息をついた。
「そのクーってのは、本当に犬なのかい?」
「犬じゃなかったら、なんなの?」
「おまえの話を聞いてると、その犬は人前には姿を現さないっていうじゃないか」
「遠くからなら見たことあるよ。黒い柴犬みたいなの」
「白いキツネも黒くなったじゃないか」
タマさんが言いたいのは、クーは黒い犬じゃなくて、コンさんみたいに、もやもやによって黒くなった犬ってことなんだろうか。
でもそれって、クーが猫又やコックリさんみたいに、ふつうとはちがう動物ってことになる。
……そういえば、コンさんが言ってたっけ。ケモノに気をつけろって。
「時に噂は形を成し、ひとり歩きする。おまえのいうクーってやつも、認知する人間が増えることによって、どんどん形を成して、みんなが望む姿になったんだろうさ」
「望む姿って?」
「犬だと信じていたんだろう? 声の調子からどんな犬か推測して、やがて共通認識となる。黒い犬だってね」
クーの姿を見たことがある子は、あんまりいない。
それなのにみんな、あそこにいるのは「黒い犬」だって思っていた。
言い出したのが誰かだなんて、そんなこともうおぼえてないし、どうだっていい。
かわいい犬がいる。
だいじなのは、それだけだったんだ。
「みんなが自分の悩みとか、いやな気持ちとかをクーに話したから、クーはもやもやとひとつになって、悪い妖怪になっちゃったの?」
「なにも呪詛を持つのは子どもだけじゃないさ。その犬には、その犬なりの正義があり、形を取った。――取ってしまえるぐらい、膨らんでいたということだろうね」
■ ◆ ■
子どもたちが去ったあと、もう一度、棒を突き立てるが、何の手ごたえもなかった。
本当にいないのか。
思わず舌打ちが漏れ、
子どものころから、幹本は動物が嫌いだった。
目障りで、ちっともかわいいとは思えない。それらは苛立ちの対象であったが、見る目が変わったのは、中学に入ったころだった。
年上の従兄から見せられたエアソフトガン。それが大層恰好よくて、お古を譲ってもらったのだ。部屋の壁に向けて撃っていて母親に叱られ、仕方なく庭のブロック塀を対象にするようになった。
やがて、近くの駐車場で車に撃ちこむようになる。ガラスにヒビが入るさまは映画さながらで、かなりの高揚感を抱いたものだ。
それらの行為は、決して近所では行わなかった。犯人が露見することは避けなければならない。
幹本は、頭のよい少年だったのだ。
市内で注意喚起されるようになり、防犯カメラ等が設置されるようになると、思うように活動できなくなり、しばらく勉強に身を費やすようになった。
しかし、ストレスは溜まっていく。受験というものが見えてくると、親や親戚からの重圧が幹本を苦しめた。
ある日、野良犬に向かってエアソフトガンを使ったことで、なにやら気分が晴れたような心地がした。
自分が求めていたものは、これなのかもしれない、と。
そう思った。
狭い路地を歩く猫を撃った。
河川敷をうろつく犬を撃った。
川に降り立つ水鳥を撃った。
軒先に巣を作る鳥を撃った。
気分はさらに晴れやかになった。あんなにも重圧に感じていた苦言も昇華され、勉学に励むようになった。
それでも苛立ちが募ることもある。
そんな時は、カバンにエアソフトガンを忍ばせて自転車を走らせた。
塾の帰りなど、日も沈んだあとで行うそれらは、鎮まった空気と相まって神経が研ぎ澄まされ、集中力アップに繋がった。
撃った。
鳥を、犬を、猫を。
撃つだけなのだ。なにも刃物で切り裂いて殺すわけじゃない。
人間に向けたりはしない。
一体、なにが悪いんだ。
やがて受験を乗り超え、動物を相手にストレス解消をすることもなくなっていたが、地元にもどってきてからは駄目だった。
どうして周囲は自分を苛立たせるのだろう。
はじめに配属された小学校では、我儘な児童を叱責しただけで、保護者が怒鳴りこんできた。幹本がなにを言っても意味がなかった。
正義は児童のほうにあるのだ。
ただ、幹本の行為は、同僚の教師らには容認された。
仕方ない、相手が悪かったのだ。
それらの言葉を、幹本はべつの方向に受け取った。
すなわち、叱ることは『悪』ではないのだ、と。
児童に手をあげるのは時間の問題だった。時にエスカレートする行為は度々問題視され、幹本は別の学校へ異動することを繰り返し、
この辺りは田舎で、面倒な保護者も少ない。幹本の『指導』が非難されることもなく過ごしてきたが、ここ最近は反抗的な児童も増えてきている。コックリさんとやらの問題もそうだった。幼いながらも女は女。まったくもって小賢しい。
苛立ちが蓄積されるなか、子どもたちが学校で犬にエサをやっているらしいという噂を耳にした幹本はその場に向かい、さらに苛立つことになった。
その日の晩、近くの店まで歩いて買い物に行った帰り、上坂神社の前を通ると、猫の声が聞こえてきた。いい憂さばらしになるかと思い、アパートに戻ってエアソフトガンを持ち、神社へ取って返す。
境内へ入った。
木々が生い茂っているせいで、月明りも届きにくい。
敷地内に街灯はないが、たいしたハンデではない。幹本にとっては、もはや慣れた暗さだ。
見渡す暗闇にキラリと光る瞳――、それが猫であることを、幹本は経験上知っている。
まずは一発、撃ちこんだ。
黒い影は逃げ、続いて発射した弾もなかなか当たらない。舌打ちが漏れ、苛立ちを隠すこともなく、傍にある灯篭を蹴りつけた。
すると、クウーンと、どこからか犬の声が聞こえてきたではないか。たっぷりとした憐みを誘う鳴き方は、幹本の神経を逆なでさせる。
足もとの小石を声の方向へ投げつけると、暗がりから小型犬らしき影が現れた。
そうだ。あいつを撃てばいい。
うるさい野犬を、俺が黙らせてやればいい。
危険を排除するのも、教育者の勤めってやつだろうさ。
ニヤリと笑みを浮かべると、エアソフトガンを構え、一発撃ちこんだ。
鋭い音とともに視線の先にいる動物に向かい、しかし、まるで吸い込まれるように弾は消えた。
たしかに当たったはずなのに、なんの手ごたえもなく、倒れる様子もない。
クウーン。
鳴き声が、少しだけ大きくなった。
大きくなって、重なった。
鳴き声の数が、増えた。
クウーン、ウオーン、グルルルル。
頭上から葉音が聞こえたかと思えば、バサバサという音とともに、なにか黒いものが飛びかかってきた。
キー、チー。
鳥らしき甲高い声が、耳に突き刺さる。
フニャーーゴ。
ニャオウン。
猫の声が重なった。
まるで喧嘩をしているような獣の唸り声と、盛りのついたような鳴き声が混じり合い、広がり、響き、大きくなっていく。
――ふざけやがって。
幹本はエアソフトガンを再度構えると、犬に向かって発射しはじめた。
プシュンプシュン。
たしかな弾道を描いて獲物に当たり続けるが、それは決して倒れることなく、そこに在り続ける。
それどころか、当たるたびに、身体が大きくなっていくのだ。
決して、獲物が近寄ってきているせいではない。
弾を糧とし、黒い影が膨れあがっていく。
撃った。
撃った、撃った。
撃ち撃ち撃ち撃ち撃ち続けた。
なにもかもを吸い込んで、目前の犬は膨れ上がっていく。
それを「犬」と称していいのか、もうわからない。
距離にして1メートルほどしか離れていないにもかかわらず、犬と知覚できるものはすでになくなっている。
あるのは、闇としかいいようのないもの。
黒よりも黒い、漆黒の闇からは、何の動物とも知れない唸り声、シューシューとした音。ねっとりとまとわりつく湿気が、幹本に迫ってくる。
「来るなあぁぁぁああぁ!!」
エアソフトガンを乱射した。
それらをすべて呑み込み、さらに膨れ上がった闇が迫る。触手のように蠢く闇の手が伸びてきて、こちらを取り囲む。
やがて見上げるほどに成長した闇が波のように覆いかぶさり、包まれる。
クゥーンという、かぼそい声が聞こえたのを最後に、幹本の意識はぷっつりと途切れた。
■ ◆ ■
昨日のことがあったから心配してたけど、ミキモト先生はいなかった。お休みなのかな?
終業式がおわって家に帰るまえ、クーのようすを見に行ったんだけど、今日もいないみたい。
どこに行っちゃんだろう?
それともタマさんが言うように、ほんとうに気まぐれな妖怪で、夏休みでみんないなくなっちゃうもんだから、べつの場所に移動しちゃったのかな。
ざんねんだなあ。
辺りをみまわしていると、足もとをなにかがさわった。タマさんがすり寄ってきたときとおなじような、ふわっと感じ――動物の毛皮っぽい感触。
クウーン。
「クー?」
あわてて下を見る。
ぼくの足のすきまから、黒いしっぽが見えた。そうしてやわらかい毛皮の感触が、ぼくのすねをくすぐった。
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