ロールケーキの美味しい喫茶店

 男は、桜子の手を引きながら車の中に向かって大声を出した。


「カツ、お前は車で待機してろ!」

「せっ、先生! ボタン留めるだけなら車内でも出来ますよ」


 見た目は、先生と呼ばれた男の方が若い。だがその立場は、カツと呼ばれた男の方が低いということが、桜子にも分かった。


「いいから、待機だっ!」


 その声には、何人も逆らえない語気があった。実際に先生と呼ばれた男自身、他人に盾突かれたという経験がない。だが、桜子は文句を言った。明らかに年上の男に向かって命令口調で接するのが生理的に受け付けないのだ。


「ちょっと、どういうことよ? そんなに威張らないでっ!」

「えっ? 俺が、威張って……。」


 桜子からの思わぬ反撃に逢い、先生と呼ばれた男は胸が高鳴るのを感じた。全速力で走りながらのことで、その原因は分かっていない。なおも盾突く桜子。


「そうよ。私の手を引いているのだって、その証拠でしょう!」


 男はちらりと振り返ってその顔を見た。気付いた桜子は男を睨み付けた。男は桜子の視線を避けるように正面に向き直った。足を速めると、胸がさらに高鳴るのを感じた。だが、まだ気持ちに余裕がある。男はなるべく丁寧に言った。


「それは、失礼いたしました。でも時間がないんだ。我慢して」

「ったく。仕方ないわね」


 桜子はこれ以上文句を言わなかった。ただ何となく、走るのがぎこちなく感じた。桜子は気付いていないが、サイズの合わない下着が桜子の身体を不当に締め付けているからだった。


 男は裏口から自分の店に入った。桜子もつれられて入るのだが、店というよりは作業場。ブラウス・スカート・ワンピース・下着や制服まで、作りかけの服が何点も置かれていた。男は桜子に、奥の部屋で好きな下着を選ぶよう言った。


「えっ下着? どうして?」

「どう見ても身体のサイズに合ってないだろ」


 桜子はそう言われて初めて自分の格好を隅々まで観察した。シャツのボタンが外れている。山吹って以来、桜子のブラジャーは変形し、気持ち悪く纏わり付いている。今までこんな格好で街にいたかと思うと、顔が赤くなった。


「あっ、でも。お金持ってない……。」


 桜子が恥ずかしいついでにそう言うと、男ははじめて笑いながら言った。


「要らないよ。プレゼントだ」

「そんな。誕生日でもないのに」


 桜子は1度は固辞するが、男に押し切られて下着を選ぶことにした。部屋には数百点もの色とりどりの下着が飾られている。だが、おっぱいが大きく膨れた今の桜子に合いそうなものは数十点しかない。どれも大胆なものばかり。


 それは、桜子にとって楽しいひとときだった。はじめは落ち着いた感じのかわいいものを選ぼうとした。そのうちに迷いながらもより大胆なものに手が伸びるようになった。そして結局は、布面積が最も少ないものを着ることにした。




 明治神宮前駅。取り残された太郎が目を覚ます。軽い脳震盪を冒したらしくズキズキする頭を抱えながら立ち上がろうとした。そのときにコロコロという甲高い小さな音を聞いた。足元にボタンが転がっている。太郎はそれを拾い上げた。


「何だ? 俺のじゃない」


 太郎はそう口にしたあとで思い出した。さっきまで桜子と一緒だったはずだ。


「さっ、桜子!」


 言いながら周囲に桜子の姿を探すとき、太郎の顔はすっかり赤くなっていた。桜子とのキス。山吹るためのビジネスキス。その感触が太郎の唇によみがえっていた。他に例えようのない、心地よい感触だ。


「どうなってんだ、一体。まさか、俺が変わった?」


 太郎ははっとして周囲に自分を映してくれるものを探した。右手に窓のある建物があった。太郎は窓に近付き、自分の姿を確かめた。かわりばえのないいつもの顔しかなかった。太郎は少しがっかりした。


 その分、冷静になれた。それにつれ、色々なことを思い出した。明菜にふられたことも、3秒保たなかったことも。


「明菜……それより、今は桜子を探そう!」


 太郎はスマホでの連絡を試みた。しかし桜子からの返信はない。


「桜子の身に、何があったんだろう……。」


 1つの手がかりもない状況。太郎は桜子のことが心配で仕方がない。だから、歩いて桜子を探すことにした。


 歩くにつれ、太郎は違和感を覚えた。原宿の街、竹下通りはこれほど歩き易かっただろうか、と。太郎はこれまでにも何度か原宿に来ている。明菜と桜子に呼び出されてのこと。そのときには、もっと人が密集していた気がする。


 ところが、太郎独りだと周囲数メートルに人が寄り付かない。顔を青ざめて距離をとってくれる。太郎が強面だからである。もし明菜か桜子のどちらかでも一緒なら、中和されて紛れるのだ。太郎はやるせない気持ちになった。


 だんだんと、歩くのが恥ずかしくなった。そのときに、また何かを思い出した。闇雲に歩くよりも、手がかりを掴むことが重要。


「web小説だ。何かヒントが見つかるかもしれない」


 そう思い、桜子がフォローしたばかりの小説を腰を据えて読むことにした。外は暑い。どうせ時間をかけるならと、喫茶店に入った。選んだのは、ロールケーキの美味しい喫茶店だった。


______


もしお時間ございましたら、

こちらのはなしを先にお読みいただくと、

次話のオチが冴えると思います↓↓

https://kakuyomu.jp/works/1177354054896587067/episodes/1177354054897845535


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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