第2話

 成人してまだ幾年というほどの若い女よりも、ずっと長い年月を生き、生と死を繋ぐ場所で生きてきた彼のことだ。当然ながらその知識にも富んでいるだろう。恐らくは愚問であったに違いない。

 しかし彼は答えなかった。言葉一つどころか、首を振ることさえもなかった。

「――怪物には影がないからだ。だから真暗闇へと姿を隠して、知らずにそこへ近づいた人間を襲うのだよね」

 弱い灯りは、それでもこの暗い夜を、ふたりの視界を照らすのに十分な役割を果たしていた。

 広場に建つ神話めいた高い柱が、彼の姿に重ねて影をつくる。吹く風が墓地の樹の葉を散らし、彼の前に揺らめけばその影も映る。……だが彼自身が生み出すはずの、老人の輪郭をした影は、いくら地面を明るく照らして探そうとも見当たらない。

「きっと生前のあなたは、己に間もなく死が訪れることを悟り……生き続けたいと願っただろう。一度は、世界の摂理に従って諦めようと思ったかも知れないが」

 老人はやはり言葉を発さない。儚い炎に照らされた、灰色の目を女に向けるだけだ。

「ついにその思いを断ち切ることはできなかった。あなたは死後も、現世に留まって……今も、ここにいる」

 咎める熱を持たぬフラットな声音で女は続けた。怪物の攻撃性を刺激してはならないと、討伐にあたって鍛錬を積むうえで覚えたが――それ以上に、この男を責める心地はどうしても抱けなかったからだ。

「あなたは優しい人間だった。そして今でさえも優しいよ。死者に寄り添うが、生者をも守る心をまだ宿しているのだから」

 彼女が纏うローブは、彼のはからいで与えられたものだから。

 もう良いだろうと言うように、されど僅かに寄せた眉根は心寂しさを隠さぬ色を見せて、それを脱ぎ去った。

「心配だったのだな。自分の死後も、魂たちが安らかに眠ることができるかどうか。……だが、そのためにあなたがこの世に留まってしまってはいけない」

 革鎧の腰元を探る。ベルトに差した剣を、鞘から抜いた。

 ふ、と。音もなくランタンの火が消える。濃厚な闇の中で、唯一ともっていた光の色彩が消える――ひとつの、命の終わりのように。


 ……ォ、ォオ、オオ。

 彼の……否、もはや怪物と呼ぶべき者の唸り声が、一陣の風に乗る。からだの輪郭は失われて曖昧にたゆたい、肉体は消え去り――やがて霊体となったそれが青白い炎のごとく揺らめいて、闇夜に姿を現した。空いた二つの虚ろな穴が目の役割を果たし、女を見据える。

 ふっと浅く息を吐き出し、先手を取らんと女は一歩、距離を詰めた。そのまま二歩、三歩と行く間に、煌めく剣を両手に構えて振り翳す。怪物は察して身を躱すも、犀利な剣先に触れると、切り離されたその一端は忽ちに霧散する。痛みを訴える様子はないが、自らが刃に脅かされたことを知れば――怪物の体から腕のようなものが枝分かれして生えた。その先端、人でいう拳にあたるそれが鋭く風を切り、女の顎を目掛けて勢いよく向かう。

 体ごと反らせて攻撃を回避すると、守備の空いた脇腹にもう片方の腕から伸びた拳を打ちつけられて、女は呻き声を押し殺した。吹き飛ばされそうになるような突風に、一瞬、力の抜けた体が煽られ、詰めたはずの距離が遠のく。

 それでも持ち堪えて剣の柄を握り直した女は、怪物へ肉薄し、狙いを定めて刃を揮う。怪物は自身を彼女の攻撃に追い立てられながらも、致命的な一撃を受けるには至らず逃げ続ける。

 攻防は暫く続き――抗う霊力に圧され、怪物に味方した向かい風を受ける間に、再び腕が伸びる。拳が鳩尾を狙って叩きつけられた。鎧を通じて伝わる、息ができなくなるほどの強かな衝撃に、女は遠退きそうになった意識をすぐに呼び覚まそうと歯を食いしばる。

 後退り、引いた片足で地面を強く踏みしめると、荒い息を吐き切って――また、吸う。


 怪物を祓うわざのためには、闘うもの自身が怪物へ向き合うことが必要だ。

 すなわち死者――ひいては死そのものに向き合い、迸る恐怖に克つことが、それら自身に死を受け容れさせることに繋がる。女は心得ていた。それゆえに、その目に迷いの色は一切無かった。

「私はあなたほど、死に優しくあることはできない。そうでなければ戦えない。だが」

 死の先で、安らかにあれよと、せめて今は願う。そのための剣なのだと。

 女は駆け出し、剣を振りかぶって飛び掛かる。それは怪物への狙いを大きく外した、荒い一振りだった。

 怪物は物ともせず回避したが――女は、怪物が体勢を整えるよりも早く、見返りざまに剣を横へ薙いで斬りつけた。その一閃が、怪物の胴体を大きく切り裂く。

 とどめは為された。霊体の、虚ろな目を持たぬ切れ端は霧と消え、意思を持った怪物の側も徐々に青白い光を失ってゆく。熾火が果てるように還ってゆく己の腕を、手を見つめるさまは人間のするものとまったく似ていて、それが元は人間であったことを思い出させる。

 風の音は、二度目の命の終わり際、そのか細い喘ぎ声のように高く鳴る。最後に残ったひとさじほどの幽けき光も間もなく闇夜に溶けてゆき――ついに怪物は散った。


 怪物の姿になっても、老人にとってこの場所は大切なものだった。そんな彼自身が、死者のたましいにとっての希望でもあったのかもしれない。

「……生と死は相容れてはならないけれど。叶うならば分かり合いたいと思っていたことも、罪ではないと言ってくれるかい」

 女は、果てた亡霊のいた虚空へと手を伸ばす。拳を握り込み、そしてやるせなさのままに、だらりと下ろした。

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安寧 磐見 @Hitoha_soramitsu

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