安寧
磐見
第1話
今夜はまさに『真っ暗な夜』だった。
月も星も、雲の裡で眠る。辺境にひそりと設けられた墓地で、ひとつの灯りが燈る。
ランタンに揺れる頼りない炎は、若者と老人の姿を照らしていた。
「広い墓地だな。しかし、あなたの案内があれば安心だ」
「ここらで怪物の影が見えたと来ちゃあな。……あんたらに退治してもらえるのは助かるが、くれぐれも墓を荒らさんでもらいたい」
「心得ているよ。仕事の邪魔はしないように気を付ける」
若者は、頭を覆う襤褸切れのようなローブの影から老人へと口を開いた。金色の長い睫毛、緑色の大きな目が緩い弧を描いて微笑む。布に隠れた短髪と身にまとった革鎧、そして暗い夜はことさらにその正体を暴きがたく仕立て上げるが――透徹として凛々しい声の高さからは、それが女であることがわかる。
この地方の行政を任せられた機関に属する、いわば役人の彼女は、墓地を訪れた民からの依頼を受けて、墓地に現れるという怪物を討伐すべくこの地へ派遣された。
しかし、この地に生きた者みなの命を抱くこの墓地は、迷路と言っても大げさではないほど広く複雑だった。慣れない間は迷ってもおかしくはないと、長らく墓守をしているこの老いた男が案内を請け負ったのだ。
年季の入って薄汚れたそのローブは、若者のものではなく、彼女が墓地へ入る前にこの老人に渡されたものである。
――あんたの髪や目に魅せられるもんが出てきそうだ。それこそ怪物が。美貌は、死者には羨ましくて仕方のないもんだからな。
死者は生前のような潤いある体を失ってしまった。もう永遠に取り戻すことは叶わない。されども、生者のそれを奪えば自分のものとすることができるのではないかと一縷の望みを抱いて、欲望に染まってしまった魂として、現世へ留まる。
そしてそれは……「怪物」は実際に墓地に現れ、人を襲った。
怪物が現れるのは、月も星もない『真っ暗な夜』のみ。その夜は、無闇に墓地に近づいてはならない。若者も老人も小さな頃からそう聞かされて育った。
「……死んでなお、夢を見ているのかな」
花の添えられた墓、世話されず苔に身を許す墓。並ぶ墓石のそれぞれが、眠る人と見送った人の物語を宿しているように思えた。役人の女はそのひとつひとつに視線をくれながら、歩みゆく老人の後ろでぽつりと零す。生者の体を手に入れて、生前のようによみがえって――それから彼らは何をする? どこへ行く?
「愛する人に会いたいのか、残した未練を遂げたいと思うのか」
「さてね。しかし夢を見ることそのものは、罪では無かろうよ」
女は、返事の代わりに老人を眇めた。彼らの欲望を受け容れるほどに死者へ寛容であれるのは、老人が、生死の境となるこの場所で、長い、永い時を過ごしたからだろうか。墓参りに来た生者から死者への囁き事――あるいは、死者の魂そのものの声をすら、彼ならば聞き届けていたかもしれないが――そんな、あらゆる思いをその耳にしてきたのだろうか。
女は俯きがちに、老人の持つランタンの炎が照らす足元の地面へと目を遣り、そのまま一度、瞼を伏せた。
やがて辿り着くのは墓地の最奥。いにしえから伝わる神話の一場面を象った、彫刻の寄り添う柱を通り過ぎて、墓の並ぶ中に設けられた広場に足を踏み入れると、涼しいというよりは薄寒い夜風が肌を撫でる。
闇夜にもかがやきを失わぬ緑色の目は、今はもう、老人だけを見据えていた。
「怪物はなぜ、『真っ暗な夜』にだけ現れるのかを知っているかい」
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