故郷は流れ行く水へ

稀山 美波

流水と盆の記憶

 つややかな銀色の上、鈍い緑色はひどく浮いている。


 溢れ出た水は緑の球体の上を滑り、その勢いが衰えていく。やがてそれは力を失い、ただゆっくりと排水溝へと吸い込まれていくだけだ。延々と続くその様は、諸行無常さを私に突きつけているようにも思われた。


「あなた、西瓜すいか冷やすなら冷蔵庫にしてよって毎年言ってるじゃない。水がもったいないし、大して冷えないんだから。川かなんかで冷やすのとは訳が違うのよ」


 自宅の流し台、その前でただ呆ける私を咎めるような声があった。振り向けば、苦い表情でこちらを睨む家内の姿がそこにある。昨年と同様、これまでと一語一句変わらぬ彼女の台詞は、私に夏の到来を実感させた。


「いいんだよ。お盆だけ、お盆だけはこうさせてくれ」

「はいはい」


 言うだけ無駄なことを家内は悟り、蛇口を閉めることも西瓜を取り上げることもせず、肩をすくめながら台所を去る。台所には、遠く深い故郷へと想いを馳せる私と、シンクの上で憮然と水を被り続ける西瓜だけが残された。


 盆になると、私はこうして西瓜を冷やす。

 台所の蛇口を捻り、水道水を西瓜に浴びせてやるのだ。真夏の果実を冷やすのに、夏バテした温い流水ではいささか力不足と言えよう。


「今年の盆も、暑いなあ」


 台所の小窓から、温い熱気と日差しが差し込んでくる。

 影ひとつない庭先が、凹凸の走る磨りガラスに歪められていた。微かに聞こえる蝉の声と確かな熱気だけが、真夏日の様相を私に教えてくれている。


 数十年前に西瓜を食べたあの夏も、うだるような暑さだった。数十年前に食べたあの西瓜の味を、私は確かに覚えている。


 煌めく流水の向こう側に、私は数十年前の記憶を見た。


 


 ◆



 木々の喧騒、揺らめく木陰、色めき立つ夏虫ども。

 静かな山間の村にも、喧しい夏が到来していた。


 近所の畑から西瓜を盗み、それを小川で冷やして食べ、その栄養を活力に山を駆け川を泳ぐ――少年たちの夏の過ごし方はおおよそそんな感じであった。


 今年の夏もそうなると、誰も信じていたと思う。

 ばれないような西瓜の盗み方を考えねばならないと、誰もが考えていたと思う。


「俺は認めんぞ」


 村一番のガキ大将は、小川に石を投げ込みながら大声を上げた。その声に委縮する私たちに呼応するよう、水面もびくりと小さく震える。その川下には、鈍色の岩に紛れて鮮やかな緑色が見えた。私たちが先ほど盗み出した西瓜だけが、夏の喧騒の中で唯一沈黙を貫いている。


「ダムを作るからここから出ていけ、村は水の底に沈む――そんな馬鹿な話があるかよ。そんな身勝手な話があるかよ」


 ガキ大将の悲痛な叫びが木霊する。私たちは彼の慟哭を聞いてもなお、ただ俯くことしかできないでいた。


 先日の夜、村の子供たちは皆、各々の両親から同じことを告げられた。それはまるで示し合わせたように思われたが、その違和感が霧散してしまうほど、話の内容は衝撃的かつ絶望的なものだった。


 この村は、ダムになる。

 だから我々は、この村を去らなくてはならない。


 私たちの反応は、それこそ示し合わせたかのように、一様であった。

 しばらく呆けた後、嫌だ嫌だと駄々をこね、『大人は勝手だ』と喚き散らす。今思えば、大人たちは私たちのことを気遣って、瀬戸際までダム建設の件を黙っていたのだろう。


「大人たちは皆腰抜けだ。自分たちの村も守ろうとしないで、ただ国の言うことに頷くだけ。自分たちの故郷が、水の底に沈むんだぞ。悔しいとか思わないのかよ、惨めだとか思わないのかよ」


 大人たちの奥底に眠る心情を代弁するかのように、彼は叫び続けた。ちらりと横目で川下を見ると、やはりというか西瓜は静かに佇んでいる。いつもとは違い、やけにあっさりと盗みおおせたそれは、故郷と大人たちから餞別のように思えてならなかったのを覚えている。


「でも、仕方ないよ」

「大人にも事情があるんだって」


 ガキ大将の怒りを鎮める気持ち半分、すべてを諦めた気持ち半分といった感じで、少年たちからぽつりぽつりと弱々しい反論が出る。


 皆、心の中では彼と同じだったに違いない。

 心の中では、小さな怒りの炎が燻っていたに違いない。


 だけれども、見えない大きな掌のようなものにそれを鷲掴みにされて、すでに身動きが取れないでいる。私も、その一人だった。



「大人に事情があるなら、子供にだって事情があらぁ」



 だが、消え入りそうな少年たちの炎に、ガキ大将は薪をくべてやる。彼のその一言は、確かに我々の心を大きく揺さぶった。


「大人の事情だけがまかり通って、子供の事情は聞く耳もたん。そんなことがあっていいのか、そんな理不尽あっていいのか」


 感情が籠った彼の言葉が、私たちの心にじわりじわりと染み込んでくる。故郷の香りが鼻から入って、全身に通っていく。失われようとしている夏が、足元に縋りついてくる。


「大人たちの事情がまかり通っちまえば、この村は水の底に沈む。俺たちが今まで生きてきた思い出が、西瓜を盗む時の緊張感が、その盗んだ西瓜の美味さが、全部水の底に沈むんだ。お前たちは、それでいいのかよ。俺は嫌だ。俺は、この村で、この川で、お前たちと食う西瓜が好きなんだ」


 背を向けて川下の方へと駆けていく彼の背は、実に頼もしいものに見えた。それとは対照的に、私たちの背中は小さく弱く、微かに震えている。


 皆の体の中にもきっと、故郷の記憶が巡っているのだろう。

 輝かしい故郷が全身に満ちた今、それが失うことは死に近い。水の底へと身を投じようとしている恐怖と絶望に、打ちひしがれているのだ。


「立て、お前ら」


 膝を抱えて涙する私たちを鼓舞するような声が、頭上から降ってくる。夕暮れのように紅く染まった目元をこすり顔を上げると、ガキ大将の顔よりも大きな緑色が、私たちの怒りと恐怖に目を向けていた。


「俺は、この村を沈めたりなんかしない。俺は戦う。大人たちが何と言おうが、ここは俺の故郷だ」


 その故郷にある小川、その川辺に転がっている岩に向けて、彼は西瓜を叩きつけた。


 西瓜は見事に砕け、木々に紛れそうな緑色とは対照的な鮮やかな紅色が姿を見せる。飛び散った果汁が、私たちの顔を濡らす。それはまるで、『目を覚ませ』と顔に水をかけられたかのように思えた。


「親父の話によれば、ダム建設の作業員が工事の下見をするために、明日この村に来るらしい。俺はそこを襲撃する」


 歪な形に砕けた西瓜の欠片ひとつを手に取って、ガキ大将はゆっくりと語り始めた。


「お偉いさんを一人、攫うんだ。そいつを人質にして、『工事を中止せよ』って交渉する」


 彼の語る計画はあまりに無茶で、あまりに暴力的で、あまりにも魅力的であった。


「俺の計画に賛同するやつは、西瓜を取れ。これは、兄弟のさかずきだ」


 私たちの目尻は、すっかりと乾ききっていた。

 その表情からは恐怖と絶望が消え去り、歓喜と希望とが満ちている。


「そうだよ、やろう」

「嫌だよ。ここが水の底に沈むだなんて」

「ダム建設反対、故郷を守れ」


 故郷を救わんとする小さな掌が、紅く歪んだ欠片を包んでいく。山の喧騒にも負けない大きなざわめきの中、私も滾る闘志に身を委ねながら西瓜へと手を伸ばした。古郷の川に冷やされたそれの冷たさは、火照った私を冷静にさせるには至らなかった。



「やるぞ、俺たちはやるぞ。来年の盆も、再来年の盆も、十年後の盆も五十年後の盆も、俺たちは故郷で西瓜を食べるんだ」



 私たちは大きく勝どきをあげ、西瓜にかぶりつく。

 それは確かに、懐かしくも新しい、故郷の味がした。



 ◆



「それで、結局どうなったのよ」


 自宅の台所、流れる水道水と西瓜とをただ見つめ続ける私を気遣って、家内が声をかけてきた。その内に私は自らの記憶を辿る旅に出かけたが、それに家内を半ば無理やり同伴させてしまったらしい。


「どうなったもこうなったも、想像の通りだよ。子供の小さなデモなんて、そりゃ成功するわけもない。作業員たちを襲撃するのも束の間、あっさりと大人たちに捕まった、私たちは全員折檻さ」


 事の顛末は、なんてことはない。

 一世一代の覚悟でもって臨んだ戦争だったが、大人たちからすれば大したことはない、子供たちの可愛らしい反抗に過ぎなかったということだ。


「次第に村からは人がいなくなっていって、あれよあれよと工事は始まった。今はもう、私の故郷はダムの底だよ」


 こうして、私たちは故郷を失った。

 木々の喧騒、揺らめく木陰、色めき立つ夏虫どもも、もう味わうことは叶わない。勿論、故郷の川で冷やした西瓜を食べることも。


「悲しいわね」

「当時はね。でも今はそんなことないよ」


 自嘲の含まれていない私の笑みを見て、家内は目を丸くする。寂しい、悔しい、戻りたい、そんな言葉が出てくると思っていたのにと言わんばかりの表情だ。私は蛇口から溢れる水を手に掬って、彼女の眼前へと突き出してやった。



「この水は、あのダムから流れてきている。私たちが何気なく蛇口を捻って使っているこの水には、僅かだけどかつての思い出が、きっと含まれているはずなんだ」



 私の故郷は、小窓の向こうにそびえ立つ山の中にあった。そこには、大きなダムが佇んでいる。我々が使う生活用水も勿論、そこから供給されているはずだ。水の底に沈んだ古郷の思い出は、大量の水に薄まってもなお、確かにこの水にも染み込んでいる。


『来年の盆も、再来年の盆も、十年後の盆も五十年後の盆も、俺たちは故郷で西瓜を食べるんだ』


 ガキ大将のかつての願いも、今はもう叶わない。

 だからせめてお盆だけは、故郷の思い出が染み込んだこの水でもって、兄弟の杯を食すことと決めている。


「さ、そろそろいいかな。食べようか」

「はいはい。切りますよ」


 蛇口を閉め、私の記憶と流水に栓をする。

 未だ水の滴る西瓜の表面に手を当てると、閉ざしたはずの記憶が水滴を伝って私に流れ込んでくるのを感じた。それを知ってか知らずか、家内は西瓜をひょいと持ち上げて、そのまま包丁を差し込んでいく。


 かつて故郷で皆と食べたものとは違い、実に綺麗な切り口をした西瓜が私へと突き出される。私と家内はお互い顔を見合わせることはせず、二人して小窓から外を覗きながら、ゆっくりと紅い果実を口にした。


 磨りガラスを挟んでは、外の景色を見ることは叶わない。だが確かに、その向こうには夏が広がっていて、そのさらに奥には私の故郷があるはずだ。



「やっぱり水道水じゃ、温いわね」

「あはは、だよね」



 西瓜に残る僅かな温もりは、確かに故郷のものであった。

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故郷は流れ行く水へ 稀山 美波 @mareyama0730

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