かいくんのママ
薄暗く、寂しげな部屋に出迎えられた。もうママ行っちゃったんだ、そう思いながら言った「ただいま」は誰に届くでもなく宙を彷徨った。玄関、台所、リビングと明かりをつければ、不安を煽る薄暗さは消える。でも寂しい気持ちは相変わらず残っていた。
ローテーブルの上に置かれたプラスチックのコップの下には、乱雑に破られたチラシがあった。チラシの裏には走り書きでたった一文。
——ごはん、これでかってたべて。
チラシのそばにある千円札は折り目がいくつかついていた。
もう食べるっていう漢字、わかるのに。
ママの字の横に赤ペンで「食べて」と丁寧に書いてみた。気分はすっかり赤ペン先生だ。ママが帰ってきたら見せてみようか。
「お腹減った」
その言葉を聞いてご飯を作ってくれるママはここにいない。口に出したら余計に空いてきて、かいくんは千円札を財布の中に入れると家を出た。
夕飯は大抵アパートから三分もかからないコンビニで買う。一昨日はオムライスとツナマヨのおにぎり、昨日はハンバーグ弁当と売れ残りの唐揚げだった。
今日どうしよっかな。昨日ハンバーグ食べたばっかだし、肉はだめかなあ。
「当たった!」
前方から聞こえてきた声にかいくんは歩みを止めた。——いちくんだ。隣のクラスの人気者。中学生の姉がいるらしい。話したことはあるけど特別仲が良いわけじゃないから、ここで会うと気まずい。かいくんはそーっと後ずさると近くの駐輪場の陰に隠れた。
「は、マジで? いち、お前マジ?」
「マジだってほら」
「うわっ、マジじゃん」
「いち、やべー」
「ねーちゃんに見せよっと」
「もう一本もらってこいよ」
「ねーちゃんに見せてからな」
「なんだそれ」
どうやら当たりつきのアイスが当たったようだ。友達と楽しそうに騒ぎながら駐輪場の前を通り過ぎていく。いちくんには家に帰ったらご飯を作ってくれるようなママがいるのだろうか。いるならいいな、と思う。お金だけがぽんと置かれているのはあまりにも虚しいから。
「らっしゃーせー」
この時間帯はいつもやる気のなさそうな店員がレジに立っている。片足に重心を置き、だるそうに目を擦っているのを見て、ちゃんとしなくて大丈夫なのかな、と疑問を抱きながらお弁当を選んだ。牛カルビ弁当と鮭のおにぎり。一瞬アイスが脳裏を過ぎったけど我慢した。
「あざーっしたー」
歩くたび首から下げた財布から小銭がぶつかり合う音が僅かに聞こえる。ママ、帰ってきてたらいいのに。今は誰もいないアパートの一室に思いを馳せる。おかえり、今日仕事じゃなくてさ、勘違いしてた、暇だし何か作るかな、——なんて。一緒にご飯を食べたいと思った。仕事がないとだめなことはわかっているけど、仕事がどうしても恨めしい。
ママはかいくんが起きているうちに帰ってくるだろうか。
ただいま、と聞こえた気がした。
鍵が閉まる音、ハイヒールが脱ぎ捨てられる音、フローリングが軋む音、それらがママが帰ってきたことを物語っている。かいくんはローテーブルの近くで寝ていた。クッションを枕の代わりにしているが、お世辞にも寝心地がいいとは言えないフローリングに体を預けている。
「かいー……ちょっ、なんつーとこで寝てんの」
かいくんは起きていることを悟られないよう目を閉じた。
「こんなとこで寝たらあちこち痛くなるよー」
かいくんは何も答えない。ここで返事をしてしまったら起きていることがバレてしまう。
ママはかいくんを何回か揺さぶった後、深くため息を吐いた。仕事で疲れているからか苛立ちがこもっていた。
「あーもう起きてよ……布団で寝て」
体が強張った。ママが怒っている。香水と、つんとした酒の匂いをまといながら。かいくんは薄く目を開けて、「ママ?」と言った。たった今起きた風を装って体を起こす。
「おかえり」
「ん、早く布団で寝な」
「……うん」
ママの気を引きたかった。ママが帰ってきたことに気づきたかった。ただそれだけだったのにママを怒らせてしまった。ごめんなさい、と心の中で何度も何度も繰り返す。
かいくんは普段なら寝つきがいいのに、その夜だけはなかなか眠れなかった。
朝は色々な音が聞こえる、とクラスの誰かが言っていた。包丁のトントントンという規則正しい音、目玉焼きが焼ける音、トースターのタイマーのチンッという音。ママが朝ご飯を作っている中、だんだん目覚めていくのが楽しいらしい。かいくんはどれもわからなかった。朝は枕元の目覚まし時計に起こされる。ママは朝ご飯を作っているんじゃなくて、かいくんの隣の布団でクッションを抱きながら眠っている。
朝ご飯の食パンが焼けるのを待つ間、眠気でぼんやりとした頭で考えた。
学校から帰ってきたら、ママがおいしいごはんを作っていればいいのに。
『今日は七夕ですがどうですか? 皆さんは何か願い事しましたか?』
テレビから聞こえた言葉にはっとする。天の川を思い浮かべて、かいくんは必死に願った。
ごはんがおいしいママをください。
明るくて美味しそうな匂いのする部屋に出迎えられた。一瞬何が起こっているのかわからなくなったが、かいくんの口は流れるように「ただいま」と言葉を紡いだ。
「おかえり」
台所からママが顔を覗かせた。
「今ご飯の準備してるからね」
「うん」
「あ、もうお腹空いちゃった?」
「ううん。今日のごはん、何?」
「今日はハンバーグよ」
「よっしゃ!」
「美味しいご飯、作るからね」
ママが笑う。かいくんも笑った。何でさっき驚いたのか忘れたけど、そんなことはどうでもいい。ママが美味しいご飯を作ってくれる。それが全てだった。
ママ ユリエイチカ @yuriika
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