裏 後
詞の葬儀会場で、私は夜野くんに会った。
彼はひどく憔悴した様子で、足取りもおぼつかず、見ていて心配になるほどだった。
夜野くんはふらふらと棺に近づき、おもむろに詞の身体に触れた。
次の瞬間、彼はがくりと膝をつき、人目も憚らず大声をあげて泣き始めた。詞、詞、なんで死んじゃったの、僕を置いていかないでよ、と、普段の物静かな様子からは想像もつかないような大音声で叫んでいた。
文字通り全身を使って、慟哭していた。
……何か言葉をかけてあげたかったけど、何と言えばいいのか分からなくて、結局何も言えなかった。
詞の葬儀の数日後、私はお母さんに呼び出された。
お母さんは、あなたに預けたいものがあるの、と言って、テーブルに何か白い物を置いた。
それは、詞が私に託そうとしていた封筒だった。聞けば、私が最後に詞と話した日、私が帰った後で、詞がお母さんに渡していたのだという。お母さんも、受け取りたくはなかったが、結局は詞の熱意に負けてしまったのだそうだ。
これは
断る理由もなくなった私は、黙ってそれを受け取った。
……でも、なかなか勇気が出なくて、夜野くんの家に足が向かなかった。
そうこうしている間に半月近く経ってしまったが、私の耳に、夜野くんがずっと学校を休んでいるという噂が届いて、ようやく私は重い腰を上げた。
彼が学校に行けない理由は、詞の死であることは分かりきっていた。
手紙を渡すことで、なんとか彼の力になりたいと思った。
私は詞の手紙を持って、夜野くんの家を訪れた。
しばらく逡巡した後、やっとのことで郵便受けに手紙を押し込んだ。緊張していたせいで手が震えて、思いの外大きな音を立ててしまった。
直接渡す勇気はなかったし、何よりこれは詞から夜野くんへの手紙なんだから、部外者の私が首を突っ込むべきではないと考えたのだ。
……でも、やっぱり夜野くんのことが気になってしまって、私は物陰に隠れてそっと様子を窺った。
しばらくして、おもむろに玄関のドアが開き、夜野くんが顔を出した。……遠目に見ただけでも、髪はボサボサで、ひどくやつれてしまっているのが分かった。彼はゆっくりと郵便受けに近づき、緩慢な動きで蓋を開けた。
封筒を取り出し、少しそれを矯めつ眇めつ眺めた後、突然彼はすごい勢いで封筒を開けようとし始めた。開けるのに難儀していたようだったが、そのうち中の便箋を取り出すと、食い入るように読み始めた。
夜野くんはとても熱心に手紙を読んでいた。そして時折、目元を拭った。何回か深いため息もついた。
何が書かれているのか、私は知らなかったが、手紙が夜野くんに何らかの影響を及ぼしたことは確かなようだった。
全てを読み終えた彼は、手紙を持ったまま、しばらくぼうっと空を眺めていた。
ふと、首筋に何かが垂れた。空を見上げると、晴れているにも関わらず、パラパラと雨が降ってきていた。天気雨だった。夜野くんは小走りに庇の下に入ったが、傘を持ってきていなかった私は、雨宿りできるところを探そうと、夜野くんに見つからないよう最低限の注意を払いながら、慌てて撤退した。
私が手紙を届けてから、夜野くんは学校に行き始めたようだった。詞の通っていた高校のそばを通った時、彼がグラウンドで走っている様子も見かけるようになった。
詞は……あの子は、一体彼に何を伝えたのだろうか。詳しいことは分からないが、あの子が最期に残した思いは、きっと並々ならぬものだったのだろう。
私が、少しでも夜野くんと詞の役に立てたのならば、それはとても嬉しい。
でも、詞を失ってから、まだ私は、きちんと夜野くんと話すことができていない。
……私は決して、詞の代わりにはなれない。
詞がいなくなって、夜野くんの心に空いた穴を、埋めることはできない。
でも、だからといって、何もしないなんてことはできない。
夜野くんはまだ、とても精神的に不安定な状態にあるのだと思う。
詞に聞いた限り、夜野くんは昔、酷いいじめに遭っていたこともあってか、もともとすごく繊細で、傷つきやすい子だというから、心のバランスがちょっと崩れただけでも、彼はきっと壊れてしまうだろう。
詞の言葉は、確かに彼に活力を与えたのかもしれない。
けれど、大切な人を亡くした悲しみは、そう簡単に癒えるものではないのだ。
私だってそうだ。まだ、最愛の弟を失った痛みは治まっていない。
この傷は、おそらく一生消えることはないだろう。
……だから、傷を負った者同士、夜野くんとその痛みを分かち合いたいと思っている。
自分のためだけじゃない。最期まで夜野くんのことを案じていた詞のためにも、私は夜野くんの支えになりたい。
今の私は、夜野くんを、ちょっとでも良い方向に導けたなら……なんて、大それた夢を抱いている。
……早く、彼と話すきっかけを見つけなければ。
今日もまた、大学からの帰り道、後輩たちの様子を見るという名目で高校に立ち寄って、グラウンドをちょっと覗いたら、夜野くんがいた。リレーの練習中らしかった。夜野くんは、後ろから走ってくるチームメイトと思しき生徒を、片腕を後ろに伸ばして、チラチラと振り返りながら、今か今かと待ちわびていた。
彼の左手首には、青と白のストライプ模様のリストバンドがつけられていた。
確か、詞も同じものを持っていた気がする。……そうだ、「これ、葵とお揃いなんだ。いいだろ、なんか青春の友情って感じがして」と、得意げに見せてくれたんだ。今更思い出した。
詞は、夜野くんとインターハイに出ることを熱望していた。それが叶わなそうだと分かった時、あの子の口から最初に出た言葉は、悔しいとか、嫌だとかじゃなかった。
「葵に合わせる顔がない」と言っていた。
……詞にとって、やっぱり夜野くんは、特別な存在だったんだ。そして、夜野くんにとっても、詞は……。
詞はきっと、夜野くんに自分の夢を託したんだろう。
そして、夜野くんは、あの子の遺志を継いで、二人で目指した舞台に立とうとしているのだ。
……。
私の入り込める余地なんてないように思えた。
でも、やっぱり、私は夜野くんが好きだ。
詞のために頑張ってくれているからというのもあるけど、それだけじゃなくて、一生懸命取り組んでいる姿が、とても美しいと思うから。
これから先——そうならないことを祈っているけれど——もしかしたら、彼が走る気力をなくしてしまうようなことがあるかもしれない。
そんな時に、彼を叱咤するのは、私の役割ではない。
そこは、詞のポジションだから。
夜野くんのライバルであり、なおかつ一番のパートナーであるのは、詞だから。
だから、私は、彼を陰から支えたい。疲れた時に優しい言葉をかけてあげたい。彼に、そうすることを許してもらえるような関係になりたい。
私は、グラウンドに向かってゆっくりと歩き出した。次第にその歩みは小走りになり、気づけば私は全力疾走していた。
走って走って、陸上部の練習スペースにたどり着き、私は息も切れ切れに、声を張り上げて夜野くんの名を呼んだ。
彼はビクッと肩を大きく震わせ、それからゆっくりとこちらを振り向いた。
どこか怯えたような、それでいて落ち着いている、凪のように静かな視線がまっすぐ私を捉えた。
かける言葉は決まっていた。
私は小さく息を吸い込んだ。
——ありがとう。あの子の遺志を受け継いでくれて。走り続けてくれて。
夜野くんは、一瞬戸惑ったような顔になったが、すぐに目を伏せた。
ややあって、再び私に視線を戻した彼は、口角をわずかに上げた。何かを諦めたような表情にも見えたが、それが何を意味するかは分からなかった。
——これから僕は、詞のために生きることにしたんです。
そう言って彼は、おもむろに空を見上げた。
既に日は西に傾き、空には点々と星が現れていた。
あのどれか一つが詞だったならいいな、なんて、お伽話みたいなことを考えた。
……詞、私たち、頑張るよ。一生懸命、生きていくから。空から、見ていて。
私たちの頭上には、夏の大三角が煌々と輝いていた。
裏・了
空に走る 雨野愁也 @bright_moon
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