裏 前

 病室に入った私を待ち受けていたのは、いつになく真剣な顔つきでベッドに座る詞だった。詞は、私の姿を認めると、


「……姉さん。そこに座って」


と、ベッド脇の小さな椅子を指差した。


 どうしたの、急に改まって、と言いかけた私を、詞は、


「いいから」


と、厳しい口調で言って制した。


「大事な話があるんだ」


 そう言うと詞は、おもむろに何かを取り出して、私に示した。


「俺が死んだら、これを葵に渡してくれ」


 それは、 1枚の封筒だった。中には手紙か何かが入っているらしく、少し膨らんでいた。


 ……馬鹿、何言ってるのよ。そんな縁起でもないこと言わないでちょうだい。あんたは必ず治るわ。死ぬなんて、そんなことあるわけないわよ。あんたが弱気でどうするの。


 私は詞を励ましたつもりだったが、どこか責めるような口調になってしまった。


「別に弱気になったわけじゃねーよ。俺だって、生きられるもんならまだまだ生きていたいんだ。でもさ……」


 詞は自分の身体のあちこちに繋がれた管に目を落とし、それから私を真っ直ぐ見つめた。


「……やっぱり、ちゃんと考えとかないとな、と思ったんだ」


 私は何も言えなかった。


 詞の病気は、10万人に1人と言われている難病だった。まだ治療法が確立されていないため、完治は見込めず、あと半年もつかどうか、というのが医者……お父さんの見立てだった。現実を知らせるのはまだ高校生の詞にはあまりに酷だろうということで、本人には病名を告げないことにした。


 ……でも、詞は賢い子だから、自分の余命が残りわずかであることに、どこかで気づいていたのかもしれない。


 詞は、明るく優しく、気配り上手で、勉強も運動も、何でもできる自慢の弟だった。学校の成績もとても優秀で、将来を嘱望される存在だった。


 それなのに、どうして、よりによって、そんな詞が、苦しまなければならないの。


 どうして、詞が。


 家業を継いで医者になることが決まっている私とは違うんだから、詞には自由に、やりたいことをやって、生きたいように生きてほしかったのに。


「姉さん」


 詞の言葉で、私は我に返った。いつの間にか、詞はいつものにこやかな笑顔に戻っていた。


「姉さん、葵のこと好きなんだろ?」


 私は面食らった。なんで急にそんなこと聞くのよ、あんたには関係ないでしょ、と私は少し興奮して言った。


「ほら、赤くなった。バレバレだってのに」


 ……図星だった。


 夜野よるの葵くんは、私がずっと片思いしている人だった。詞が中学生の頃、面白い奴を見つけたとか言って、うちに連れてきたのが初対面で、私は長い前髪から覗く彼の端正な顔立ちに一目惚れしてしまったのだ。面食いと言われるのは承知の上だが。


 彼は人と話すのが苦手なようで、会話はあまり弾まなかったが、それでも言葉の端々や、ふとした仕草から、その真面目で誠実な人柄を感じ取ることができた。


 詞も、夜野くんのことをとても大切な友達だと思っていたらしく、家族団欒でも、夜野くんのことが話題に上らない日はほぼなかった。それに詞は、夜野くんを決して悪く言わなかった。よほど心を許していたのだろう。


「だから、これを託せるのは姉さんしかいないと思ってさ」


 ……何よそれ、どういう意味? という質問は、詞の次の言葉によって、私の口を出る機会を奪われた。


「葵は、俺の一番のライバルで、親友なんだ。多分あいつも、俺のこと親友だと思ってくれてると思う。だけど……あいつ、ちょっとメンタル弱いというか、脆いところがあるから。もしかして、俺がいなくなったら、もう何もやる気がしない、とか考えるかもしれないと思って」


 詞は一度言葉を切った。そして、大きなため息を一つついて、再び口を開いた。


「でも、俺は、あいつにはやっぱりインハイに行ってほしい。俺のせいで、あいつが走るのやめちまったら、俺は死んでも死に切れねーからさ。……俺、あいつの走ってる姿が好きなんだ。あいつ、すっげー綺麗なフォームで走るんだよ。どんだけ頑張っても、俺はそれだけはあいつに敵う気がしないんだ」


 陸上競技の経験がない私には、フォームとかそういう専門的なことはよく分からなかったが、詞が言うならそうなんだろう、と思った。


 詞は、陸上の話をする時はいつも目を輝かせる。特に夜野くんが絡んだ時はテンションも段違いだ。やっぱりこの子は夜野くんのことが大好きなんだろうな、としみじみ感じた。


 それから、詞はひとしきり陸上のことを語り続けた。そして、また真剣な表情に戻った。


「……もちろん、少しでも長く生きられるように頑張るつもりだって。でもさ、万一だよ、万一その時が来たらさ、これを……」


 受け取りたくなかった。もし受け取ったら、詞が死ぬ可能性を肯定してしまうことになると思ったから。


 私は、嫌だとはっきり言った。


 そんなに言いたいことがあるなら、元気になって自分の口で伝えなさい。私を頼らないで。


 そう言って、私は病室を後にした。私を呼び止める声が聞こえたが、無視してそのまま帰ってしまった。


 ……それが、私が詞と最後に交わした会話となった。


 どうして最後にあんな心ない言葉を投げかけてしまったんだろうか。もっと何か、あの子に言ってあげられることが、してあげられることが、他にあったんじゃないだろうか。……なんて、後悔してもどうにもならない。


 私の心に残ったのは、無力感と、悲しみと、それからやり場のない怒りだった。

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