『葵へ


 まず、謝らせてくれ。実は俺、かなり重い病気らしいんだ。それで、もう長くは持たないだろうから、お前を置いていくことになっちまうと思う。本当にごめんな。許してくれとは言わない。


 ……ずっと黙ってて、悪かった。でも、お前には心配かけたくなかったんだ』


 そんな書き出しだった。


 その後は、中学時代の思い出話とか、高校に入ってからのあれこれとか、そんな他愛もない話がつらつらと書き連ねられていた。詞と過ごした日々の記憶が次々と脳裏に蘇り、もうあの日々は戻ってこないんだと改めて実感して、胸が締めつけられるような思いだった。


 ……涸れ果てていたはずの涙が、後から後から溢れてくる。手紙の文字がぼやけてきたので、僕は腕で乱暴に涙を拭った。


 文字を一つひとつ追っていくと、ある文章で目が止まった。


『お前さ、俺が死んだ後、間違っても後追いとかするんじゃねーぞ』


 ……読まれていたのか。


 僕は唇の片端を歪めて、自嘲気味に笑った。


『お前のことだから、俺がいなくなったらもう生きる意味ないとか、そんなふざけたこと抜かしてやがるんじゃないかと思ってな。そんなお前には、ただ一言、馬鹿野郎と言ってやる』


 詞が僕に向かってそう言う光景が、頭の中にありありと浮かんだ。


『葵。きっとお前が思ってる以上に、死ぬっていうのは恐ろしいことなんだぞ。何もかも終わっちまうんだからな。今ここで死んだら、これから先にあるかもしれない出会いとか、……クサい言葉で言えば幸せとか、そういうのを手に入れるチャンスを全部ふいにしちまうってことだろ。人生は一度きりなんだからな』


 それでもいいと思ってるよ。だって僕は、君のいない人生なんてごめんだからね。


『というか、何より、俺はお前に死んでほしくない。後を追って俺のとこに来てくれたからって、こっちはちっとも嬉しくなんかねーんだよ。分かってくれるな?』


 ……。


 拒絶された、のかな。


『なあ、葵。俺の分まで頑張ってくれ、とか、俺の分まで生きてくれ、とかは言わない。だけど、お前にはお前の人生を精一杯生きてほしいんだ』


 ……僕の人生にはもう何の価値もないのに、それでも生きなきゃいけないの?


『それと、もう一つ。俺の死を、走るのをやめるための言い訳にするな。俺は、お前の走ってる姿が好きだ。お前のフォームは誰よりも綺麗だと思う。お前の走りは、県に埋もれさせておくにはもったいない。だから、葵、走れ。そんでもってインハイ出ろ。……それは、俺の夢でもあるんだ。たくさんの人に、お前の走りを見てもらいたいんだよ』


 ……詞がいないのに、インターハイになんか行けるわけないよ。それに、もし行けたとしても、そこに詞がいないのなら、少しも嬉しくなんかない。


 でも、詞の夢、か……。


『……なんかいろいろ偉そうなこと書いてきたけど、俺、本当は、死ぬのが怖いんだ。まだやりたいこといっぱいあるのにさ、こんなとこで終わりなんて嫌だよ。でも、もう、どうにもならねえんだ』


 手紙の文字が震えていた。


 ……胸が苦しくなってきて、もう読むのをやめてしまいたかったけれど、それではあまりにも詞に失礼だと思ったから、僕はぐっと歯を食いしばって、再び手紙に目を落とした。


『俺は、生きたい。生きて、お前と一緒に走りたい。……葵、お前、前に言ってたよな。俺に走ることの楽しさを教えてもらったって。それってつまり、お前が俺と会わなかったら、……俺がいなかったら、お前が走り始めることはなかったってことだろ? それでさ……俺、考えたんだ。お前が走り続ける限り、俺はお前の中に生きていられるんじゃないかってな。お前が走るっていうことは、俺が生きていた証になると思うんだ。だから、頼む、葵。お前は、力一杯生きて、走り続けてくれ。自分勝手な頼みだとは分かってる。でも、俺の最後の望みなんだ。……お前の中の俺を、お前の手で殺さないでくれ』


 詞の悲痛な叫びが聞こえてくるようだった。


 僕は鳩尾を殴られたような息苦しさを覚え、しばらくまともに呼吸ができなかった。










 強かった詞。


 僕の前では決して弱みを見せなかった詞。


 弱い僕をいつも気にかけてくれた詞。


 そんな彼が、初めて僕に辛い内心を吐露してくれたように思えた。


 ……こんなに苦しかったなら、どうしてもっと早く言ってくれなかったの。でも、打ち明けてくれたところで、僕には何もできなかったよね……。


 無力な僕は、どうしようもない虚しさに飲まれて、ただ呆然と天を仰いだ。












 手紙を読み終えてからどれくらい経っただろうか。


 僕はただずっと、便箋に綴られた詞の字を、何度も何度も指でなぞっていた。


 ……詞、君は、酷い人だね。こんな弱くて駄目な僕を置いて行くなんて。


 分かってるよ。君は悪くない。少しも悪くない。


 だけど……。


 本当は僕、今すぐにでも君のもとに行きたいんだ。君のところに行くためだったら、どんなに苦しくても、また走れる気がする。


 空の向こうまでだって、きっと駆けていけると思う。


 でも、これから先、どんなに頑張って走っても、精一杯生きても、君が戻ってくることはない。それは絶対に変わらない、紛れもない事実だ。


 たとえどんなに素敵な未来が待っているとしても、君がいないんじゃ、その価値はきっと半減……いや、それ以下になってしまうだろう。


 それでも君は、僕に生きろと言うんだね。生きて走れと言うんだね。それが、君の最後の望みなんだね。


 だったら……。


 僕は、君の望みを叶えるよ。


 僕を救ってくれた、かけがえのない親友の頼みだから。


 絶えず僕の心に湧き上がってくる、死への渇望を押さえつけてでも。









 ——ポタッ。


 右手の甲に何かが落ちる感触がした。


 ……雨?


 視線を前に向けると、アスファルトの地面にいくつかの小さな染みが広がっていた。


 空を見上げたが、太陽は相変わらず、雨など素知らぬ顔で、目の眩むような日差しを投げかけていた。


 ——天気雨ってやつか。


 詞の手紙が濡れてしまってはいけないので、僕はそそくさと軒下に引っ込んだ。


 映画や小説で、天気に関わる描写はよくある。例えば何かよくないことが起きる前触れに雨が降るとか、キャラクターが前向きな気持ちになるシーンで急に晴れるとか、虹がかかるとか。でも実際、そんな都合よく天気が変わることなんてないだろうし、天気一つで気分が変わるほど、人間は単純じゃないと思っていた。


 でも……。


 よりによって、天気雨か。


 雨でも晴れでもあって、そのどっちでもないような、中途半端な天気。


 これが示しているのは、希望なのか、そうじゃないのか、僕には分からない。


 どっちつかずの方が、先の見えない未来に向けての僕の再出発には、お似合いなのかもしれない。


 僕はゆっくりと深呼吸をした。


 ……詞、僕はまだ、この先の展望を掴むことはできそうにないよ。でも、君が望むなら、ちゃんと生きて、走り続けていこうと思う。


 受動的な決意の仕方なのかもしれないけれど、詞は僕にとってかけがえのない存在だったから。そもそも僕を生かしてきたのは、詞だったんだから。


 僕がこれからも生きていくためには、詞の願いだからという理由がなければいけないんだ。


 君が望まなければ、僕はきっと、死を選んでしまうだろうから。


 こんな後ろ向きな理由で、ごめんね。


 僕のこれからの人生、全部、君に捧げるよ。


 これから先、詞のいないこの世の中で、どう生きていけばいいのか、僕には皆目見当もつかない。


 だけど。


 僕は生きなければならない。


 詞が生きたいと望んでいるから。


 僕の中で詞に生き続けてもらうために。











 僕がぼんやりと空を眺めている間に、雨が激しくなってきた。


 雨を浴びてもいないのに、熱い液体が顔を濡らした。


 遥か遠くに、小さな虹がかかっているのが見えた。


 ……また走り始めるには、ちょっと準備が必要だな。鈍った身体を戻さないと。


 僕は一つ大きな息を吐いて、自分の部屋に駆け戻った。


 机の引き出しに、封筒に戻した手紙を入れて、鍵を掛けた。そして、部屋の隅にひっそりと佇んでいるリストバンドを手に取り、傷を隠すようにそっと手首につけた。


 ……詞、これがあれば、いつも一緒だよね。


 一緒に、走ろう。


 きっと君を、インターハイに連れて行ってみせるよ。


 僕は、ずっと閉ざしていた分厚いカーテンを開けた。


 黄金色の太陽の光を反射して輝く雨粒が、窓ガラスに点々と飛び散っていた。その向こうに、目に痛いくらい明るいサファイアブルーの空が、どこまでも広がっていた。





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