詞の様子がおかしくなったのは、高1の秋の終わりだった。前までなら難なくこなしていたトレーニングで、すぐに息切れを起こすようになった。少し走っただけですごく苦しそうな表情をするようになったし、ついには準備運動すら満足にできなくなってしまった。


 僕はそんな詞が心配で、何度も声をかけたけど、


「大したことねーよ。最近急に寒くなったから、ちょっと調子崩しただけだって」


なんて、適当にはぐらかされてしまった。


 ……だけど、そんなある日、ついに詞は倒れた。部活で使う道具を運んでいる最中のことだった。救急車のサイレンの音が、鼓膜にこびりついていつまでも離れず、不安と恐怖とが僕を責め苛んだ。苦いものが喉元までせり上がってきた。


 詞の容体について、詳しくは教えてもらえなかったけど、どうやら楽観視できる状況ではなさそうだということだけは、病院で会った彼のお姉さんの口ぶりから察することができた。










 次の日お見舞いに行った時、詞が思いの外元気そうにしていたので、僕は少しだけ安心した。


「大丈夫だ、すぐ退院できるよ。だからさ、葵、俺がいない間も練習サボるんじゃねーぞ。身が入らないとか甘ったれたこと言うなよー」


 そんなことを言って、詞はいつもの屈託のない笑顔を見せた。


 ……だから、きっと元気になって戻ってくるって、信じて疑わなかったのに。


 闘病生活開始から半年も経たないうちに、詞は天国に旅立ってしまった。


 まさか詞が逝ってしまうなんて思ってもみなかったから、知らせを受けてもすぐには受け入れられなかった。ただ、鈍器で思い切り頭を殴られたような衝撃を受けて、僕はその場にくずおれた。


 酷い無力感と強烈な眩暈に襲われて、身体中の力が抜けていった。目の前が真っ暗になった。









 本当は詞の葬儀になんて行きたくなかった。彼の死を認めたくなかったから。けれど、彼の家族に詞が悲しむからとせがまれ、僕は十三階段を上らされるような気持ちで会場に向かった。


 棺に横たわる詞は、まるで眠っているようで、ちょっと横っ面を張ったら目を覚ますんじゃないか、というありそうもない考えが頭に浮かんだ。


 ……ねえ、詞。何やってるの。そんな狭い箱の中で寝てないでさ、早く起きてよ。退院したら、また一緒に走ろうって約束したでしょ?


 僕は口の中でそう呟きながら、そっと詞の手に触れた。……それはもう、僕の知っている詞の手ではなかった。冷たくて固い、何か別のになっていた。


 その時、僕の中で何かが切れたような感じがして、次の瞬間、僕の目からは大粒の涙が溢れ出していた。詞はもう、僕の手の届かない遠いところに行ってしまったんだと、改めて思い知らされた。


 詞の遺影は、僕の大好きなあの笑顔だった。でも、写真を見るたび、もうその笑顔が僕に向けられることは二度とないんだと思い知らされてしまうから、僕はずっと遺影から顔を背けていた。


 ……どうして、詞だったんだ。


 どうせ連れて行ってしまうなら、詞じゃなくて僕にしとけよ。神。


 神なんているのかどうか、僕には分からなかった。ただやり場のない怒りを向ける矛先が欲しかっただけだった。


 僕は泣いた。吐くほど泣いた。葬儀の間も、家に帰ってからも。体液が全部なくなってしまうんじゃないかというくらい、泣きに泣いて、泣き続けた。







 詞がいなくなって、もうすぐ半月が経とうとしている。


 彼の葬儀の後、僕は自分の部屋から外に出られなくなった。


 この半月の間、僕は家族以外の誰とも会っていない。当然ながら部活にも顔を出していない。ずっと、モノクロの部屋の片隅でうずくまっている。


 詞と一緒に走ることが楽しかった。一緒だったから楽しかった。


 今、彼を失った僕にとって、走ることは苦行以外の何物でもない。


 僕はもう、走ることに意味を見出せなくなってしまった。そして、詞のいないこの世界で生きることにも……。


 ふと顔を上げた視線の先に、青と白のストライプ模様のリストバンドがあった。詞とお揃いのものだ。詞が、友情の証だなんて言って買ってくれたものだった。ちょうど傷も隠せるね、と言ったら、詞は何も言わずに優しく微笑んでくれた。


 好タイムが出た時、リストバンドをした手首をハイタッチのようにして合わせた。それが僕たちのルーティーンだった。僕にとっては、詞との絆を確かめ合う大切な儀式だったのだ。詞はいつも笑顔で応じてくれた。


 でも、それをやることはもう二度とない。


 詞と目指した舞台には、詞はもう立てない。詞と一緒じゃなきゃ、インターハイになんて行けるわけがない。


 ……詞が、僕を地獄から救い出してくれたんだ。詞がいたから、僕は生きていられたんだ。詞と一緒だったから、僕は走り続けてこられたんだ。


 彼は、僕の最大の理解者であり、最上のパートナーであり、唯一心の底から信頼していた人だった。


 その彼を失った今、僕はもう、走れない。走りたくない。


 ……詞のところに、行きたい。


 ならば。


 僕はおもむろに机の引き出しを開け、カッターナイフを取り出した。


 カチ、カチという音を立てて、ゆっくりと刃を押し出す。


 ……詞と仲良くなってからは、「これ」をやることもなくなってたのにな。


 露わになった手首に残る、真新しい幾筋もの傷痕に目を落とす。


 僕は小さく息を吐いて、そっと刃を手首に押し当てた。呼吸と脈が少しずつ早まるのを感じつつ、まさに力を込めようとしていたその時、


 ——ガタンッ、カタッ、カタン。


 郵便受けが激しく鳴る音で、張り詰めた空気が一瞬にしてあえなく崩壊した。反動でカッターを取り落としてしまい、フローリングに大きな落下音が鳴り響いた。


 普段は郵便物が届いても取りになんて行かないのに、なぜかこの時は何かに呼ばれたような気がした。僕は重い足取りでのろのろと玄関に行き、そっとドアを開けた。


 家に籠っている間に季節は随分進んでいたようで、汗ばむ気候になっていた。太陽は既に高く昇り、肌を焦がす夏の強い日差しを投げかけている。こんな時間に配達なんて変だな、と思いながら、僕は郵便受けの蓋に指をかけた。


 中には一通の手紙が入っていた。宛て名は僕だった。僕に手紙を出してくる人なんてほとんどいなかったから、妙に洒落た意匠の封筒を見て、僕は首を捻った。


 恐る恐る裏を確認した僕は、自分の目を疑った。


 ……差出人の名は、朝比奈あさひな詞。


 何度も確認したが、間違いない。もういないはずの、あの詞だった。


 一瞬どうしていいか分からず、呆けたようになってしまったが、はっと我に返った僕は、夢中で封筒を開けようとした。手が震えて上手くできない。……この震えは何から来ているんだろう。緊張だろうか、興奮だろうか。それとも他の何かだろうか。自分でも分からない。


 封筒の開け口をボロボロにしながらもどうにか開封に成功し、僕は縋るような気持ちで中身を取り出した。


 封筒の中身は、便箋5枚だった。そのいずれにも、字がびっしりと書かれていた。


 僕は最初の1枚を広げ、一文字一文字を目で追うように、じっくりと読み始めた。

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