空に走る
雨野愁也
前
目に映るもの全てが無彩色に見える、というのは、実際にあり得ることなんだと、初めて知った。
何を食べても味がしない。食事は完全に生命維持のためだけの作業と化した。
信じたくないというか、そんなことがあっていいわけがないという気持ちだった。
詞が、もうこの世のどこにもいないなんて。
一番大切な存在を、永久に失ってしまったなんて。
僕は、自分は無意味で無価値な存在だと思っていた。
小学生の頃に受けたいじめが原因だった。
人と話すのが苦手で、自分の思っていることをうまく伝えられなかったばかりに、僕はクラス全員から無視されることになった。
僕はクラスの誰からも存在を認めてもらえなくなった。
出席確認の時、先生に名前を呼ばれなかったことさえあった。今思えば、きっと先生も面白がって、みんなと一緒に僕を空気扱いしていたんだろう。
進級してクラスが変わっても、いじめはなくならなかった。ただその形を変えただけで。
持ち物を隠されたり、盗られたりした。
水をかけられたり、机に酷いことをたくさん書かれたりした。殴られたり、蹴られたりした。女子の目の前でパンツを下ろされたこともあった。
周りのみんなは見て見ぬ振りをしていた。いじめはどんどんエスカレートしていった。
誰も僕の味方になってくれなかった。だから、きっと僕……いじめられる方が悪いんだろうと思った。
みんな、僕に消えてほしいと思っているんだ。
だったら、僕は死んだ方がいい存在なんだ。
やがて僕は、そう認識するようになった。
そして僕は、学校に行けなくなった。
人と会うのが、怖くなった。
消えてしまいたい。
死にたい。
毎日毎日、そんなことばかり考えていた。
……最終的に僕は自殺未遂を起こした。手首をカッターで切りつけたのだ。大事には至らなかったが、つけた傷が癒えることはなかった。
その後も僕は、自分を傷つけ続けた。もう自分で自分を肯定することができなくなっていた。
結局、卒業まで、僕は登校できなかった。
両親は僕に新しい環境を与えてくれた。僕の家は、中学進学を機に引っ越したのだ。今度こそ、「普通の」学生生活を送ってほしいと思ったのだろう。
やっぱり学校には行きたくなかったけれど、両親をこれ以上心配させたくなかったから、恐怖心を無理やり押さえつけて、重い足を引きずって入学式に出た。
式には、多くの人が集まっていた。
……この人たちも、いずれは僕の存在を否定しようとするのだろうか。そう思うと、怖くて、恐ろしくて、気持ちが悪くなった。吐きそうだった。
式が始まる前に逃げ出そうとして、僕は体育館の出入り口に向かって疾走した。まさに建物から出ようとしたその瞬間、何かに思いきりぶつかった。僕は衝撃で尻餅をついてしまった。
僕がぶつかったのは、人だった。
自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。申し訳ないという気持ちと、何かされるんじゃないだろうかという恐怖心とが心を占め、僕はパニックに陥った。とにかく謝らないといけないと思って、僕は蚊の鳴くような声で、ごめんなさい、本当にごめんなさい、と言った。
「俺は平気だよ。それよりお前、大丈夫か? すげえ顔色悪いぞ」
殴られる覚悟でギュッと目を瞑っていた僕は、予想外の一言に驚いて、恐る恐る顔を上げ、目の前の相手を見た。
中学生にしては大人びた顔つきの少年が、心配そうな顔で僕をまっすぐ見つめていた。
……それが、詞と僕の出会いだった。
同じクラスになった詞は、僕によく話しかけてきた。初めは怖くて、僕は彼と目を合わせられなかった。話す機会を作りたくなくて、休み時間になるとすぐにトイレに駆け込むこともあった。それでも詞は、僕と関わるのをやめようとしなかった。彼の勢いに根負けした僕は、どうしてそんなに僕なんかと話したいの、と聞いた。そうしたら、
「だって俺、お前のこと気に入ったから。お前とちゃんと話がしたいんだ」
と、詞はあっけらかんとした調子で答えた。……僕みたいな地味で陰気な奴のどこに興味を持ったのだろう、と不思議に思ったのをよく覚えている。
僕も、僕なんかを相手にしてくれる彼に惹かれたのは否定しない。実際、僕は次第に彼と一緒にいる時間が増え、少しずつ個人的なことも話せるようになっていった。
いじめのことを詞に話したら、
「どうしてお前みたいないい奴が、そんな目に遭わなきゃならなかったんだよ!?」
……と、すごい剣幕で迫ってきた。僕は、僕がみんなにとって不快な存在だったからだと思う、と言った。だって、本当にそう思っていたから。そうしたら詞は、
「んなわけねーだろ。お前、馬鹿なのか? ……俺はむしろ、話してて面白いから好きだぜ、お前のこと」
なんて言って、白い歯を見せて笑った。
詞と出会う前まで、僕に向けられていた笑顔は、酷く歪んだ醜いものばかりだったから、彼の屈託のない笑みを見て、僕は少なからず驚いた。
僕なんかにも、こんな風に笑いかけてくれて、僕を好きだと言ってくれる人がいるんだと、その時初めて知った。
それから僕は、彼と、彼の笑顔が大好きになった。
少しずつ打ち解けてきた中1の夏、詞が放った一言が、僕の人生を大きく変えることになった。
「なあ、
僕は決して運動が得意ではなかった。だから、ない、と即座に答えた。
「お前のことだから、そう言うと思った。でもさ、今、うち部員不足で大変なんだよ。見学だけでもしてみてくれないか?」
全く気が進まなかったが、その頃僕の中では「親友」とでも呼ぶべき存在に昇格していた詞の頼みだったから、そう無下にもできなかった。
……抜けるような青空の下、じりじりと肌を焦がす陽光を全身に浴びながら、真剣な表情で、汗を流してトラックを駆け抜ける陸上部員たちの姿に、僕は不覚にも胸を打たれた。今まで誰かと何かに一生懸命に取り組んだことのなかった僕には、互いに叱咤激励し合い、笑い合いながら練習に打ち込む彼らが、とても眩しく見えた。
自分には無縁だと思っていた、「青春」を体現するような光景に、僕は強く惹きつけられた。
「どうだ、こういうのもいいもんだろ。……心配すんな、チームメイトはみんないい奴だから。俺が保証する」
詞はニカッと笑って僕を見た。……本当は怖かったけれど、この部に入れば、僕の好きな彼の笑顔をもっと見られるんじゃないか、という期待に背中を押され、僕は陸上部への入部を決めた。
……僕に走ることを教えてくれたのは、詞その人だったのだ。
仲間はみんな悪い人ではなかった。だけど、詞以上に僕のことを理解してくれていた人はいなかったと思う。みんな、僕の手首の傷を見て、多かれ少なかれ怯えたような顔をして、少し僕を遠巻きにしていたから。……詞だけは、そんなこと気にしてなかったんだけどな。
運動経験ゼロからのスタートは辛いものだった。体力のない僕はすぐ音を上げて、詞に泣きつくことも多かった。そんな時、詞は決まって、
「おい葵、しっかりしろよ。お前、俺のライバルなんだろ?」
と、冗談めかして言った。詞は小学生からの経験者だ。僕に彼のライバルを名乗る資格なんてあるわけがなかった。それを分かった上でそんなことを抜かしたのだ。もちろん僕は本気になんてしなかったけど、それでもいつか、彼と肩を並べられるようになりたいと思って、僕は日々練習に励んだ。
僕と彼の実力差は天と地ほどだったけど、詞はいつも僕のそばにいて、僕を励ましてくれた。
彼が、僕を意識してくれるのならば。
僕も、彼に相応しい存在になりたい。
堪え性のない僕が陸上を続けてこられた理由は、ただそれだけだった。
同じ高校に進学した僕と詞は、陸上部に入った。いつの間にか僕の背丈は詞を追い抜き、筋肉もついて、僕はそれなりの体格になっていたが、僕は相変わらずいつも詞と一緒にいた。詞の隣が、一番落ち着ける場所だった。
僕と詞はリレーの練習に打ち込んだ。詞は、中学では結局県大会止まりだったから、高校ではインターハイに出ようと言った。僕には大それた目標に思えたけど、詞は、
「俺らなら大丈夫だって。お前、図体でかいくせに弱気だなあ。背ぇ伸びても、性格までは変わんねーんだなー」
なんて、いつものお気楽な調子で言った。その自信がどこから来るのか疑問だったけど、なんとなく、詞とならできそうな気がしていた。
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