㉒そして旅は続く(最終話)
『さて、じゅすへる
12月26日。
アメリカ合衆国・東海岸。
マサチューセッツ州キングスポート。
深夜に突如発生した大寒波はキングスポートの周辺に大量の積雪をもたらし、道路も電車も何もかも通行不能にした。
猛吹雪と不可思議なオーロラ、謎の光柱現象が発生している間は一切の連絡が取れず、州軍が雪上車でなんとか近付こうとしたが、それも叶わなかった。
キングスポートへ近付くにつれて気温の低下は著しく悪化し、信じられないことに雪に交じるのは液化した窒素と酸素だった。
それ以上の接近は危険極まりないため、彼らは遺憾ながら撤退した。
寒波はキングスポートだけでなく、アーカムを始めとする周辺地域にも及んだ。氷点下40度近い低気温が町々を襲い、クリスマスの夜に不用意に出歩いていた者達が次々と病院送りにされる。水道や電気といったインフラも破損し、様々な問題への対処で警察も州軍も手一杯になる。
そんな異常な大寒波は、夜明け前になって嘘のように収束した。
雲ひとつ無い晴れ渡った空の下、ヘリや雪上車がキングスポートへ殺到する。
そして到着した彼らは、驚きの事実を知る。
―――――キングスポートは、なんの被害も被っていなかった。
街中に雪は全く積もっておらず、市街地を囲む積雪は不自然なほど薄い。
空気が液化するほどの寒波に見舞われた様子はなく、キングスポートの住民は普段と変わらない日常を過ごしている。
そして奇妙なことに、外部と通信が取れなかった間のことを尋ねても、彼らは首を捻るばかりだった。
なぜなら、彼らはその夜に外の地域と
例えばアーカムにいる友人へ、たとえばボストンの家族へ、彼らは電話をかけ談笑にふけっていた。
後日その友人らが証言するには、その日はキングスポートから電話などかかってこなかったという。
結局その夜、キングスポートの人間が誰と通話していたのかはついに最後まで分からなかった。
またキングスポートの住民らはオーロラも光柱も見なかった。
いつもどおりの、何ら変哲のないいつも通りの夜だったのだ。
この季節、酔っ払いが海に落ちて病院に運ばれるのも珍しくない。
………若い女性2人が海から凍死寸前で見つかったのも、よくある事件のひとつに過ぎなかった。
*******
そのキスで、イヴは目覚めた。
「………アリー?」
白い天井。白いカーテン。霞む視界に白さが痛い。
そんな中、簡素な患者服を纏ったアリアナが、イヴの顔を覗き込んでいる。
青緑、薄緑。色違いの双眸。
虹彩異色症。ヘテロクロミア。
イヴは安堵した。
「よくも私の願いを台無しにしやがったな」
獰猛に唇を吊り上げて、アリアナは笑う。
「くそみてえな地上に這いつくばっていなきゃならねえ落とし前、どうつける気だ? あぁ?」
「だって、あの神さま、私とアリーを離しちゃったんだもの」
イヴは動きの鈍い口と舌で言葉を作る。頭が痺れるように重い。
眠たい声で、イヴは言う。
「一緒に昇れないなら、一緒に堕ちるしかないよ」
「私があのとき気付かなかったら、てめえも私も死んでたぜ」
「うん」
それがどうしたのだろう? とイヴは小首を傾げる。
くくっ、とアリアナは笑う。
「で、落とし前はどうすんだって?」
「旅に出よう」
イヴは言う。
「この世界の熱と力を全部食べる旅に」
くかか、とアリアナは笑う。
「お前もやっぱり一族の人間だな」
そうかもね、とイヴは眠たげな声で応えた。
言って、彼女は重い瞼に抗えず、目を閉じる。暗黒。
「眠い……」
「体のエネルギーをアホみたいに使いやがったからな。しばらく寝てな。どうせ外の雪でしばらく動けねえ」
黒い視界の中、アリアナがイヴの頭と顔を撫でるのが分かる。
その手には強い熱があった。アリアナの熱量。イヴは微笑み、そしてすぐに意識がなくなった。
*******
イヴは夢を見た。
すぐにそれが、キギの世界だと分かった。いつも夢で一緒だったから。
彼女が立っているのは、あの荒涼とした世界ではない。
大地は無数の繊維で覆われ、羽毛めいた糸状のものが毛皮のように立っている。下の土は一切見えない。半透明のウミウシのような生き物が顔を覗かせていた。
大地のあちこちに葡萄畑やナンテンの林が点在し、つる草が木と木の隙間を埋める。
そういった植物の林とは別に、ビルのように巨大なウミユリやウミシダに似た動物が、森林のように触手を空へ伸ばしている。何匹も何匹も。
動物たちの足元から伸びるのは、根と内臓を混ぜたような触腕だ。繊維だらけの地面でゆったりくねらせている。
半透明の、クリオネやクラゲを思わせるものが空中を泳いでいた。糸状の脊索を持ち、金の光を浴びて軽やかに舞い遊ぶ。
不可思議な動植物の上に広がる空は、薄い黄金色。
太陽に相当するものは見当たらない。
空そのものが光っていた。
イヴはそんな幻想的な光景の中で、ひとつの巨きな樹を見付ける。
「―――……」
樹木は天まで届きそうなほど立派で、豊かに茂らせた枝葉や分厚い根幹が威厳を醸し出している。黒いつる草が共生して枝や幹に絡みついていた。
イヴはその無数の根の中に、へし折れた古い枝を見たような気がした。しかし根の中に完全に埋もれているので、よく分からない。
「ここが、そうなんだね」
イヴは微笑む。涙を流しながら。
――……――……
声が、聞こえる。
樹の声が。
聞き取れない。
「なに?」
イヴは焦る。
いつも聞こえていたあの声。間違いなく。
けれどよく聞き取れない。あの声をここまで遠く感じたことはなかった。遠い。
すると巨樹は、一本の細い枝をイヴへ示した。先端が不自然に砕かれている。
その折れた部分から、緑色の風が吹く。
緑風はイヴのもとまで流れ着き、彼女の体をすり抜けた。
イヴはこれを知っている。
洗礼式。
幼い日に出会ったあの儀式。
再びそれを受ける。
イヴは理解した。
「………任せて」
泣きながら、イヴは笑う。
風が吹く。
空と大地からの風。黄金の風が。イヴを洗う。
*******
キャンピングカーはミスカトニック川に沿って北を目指す。
運転席にはアリアナ、左の助手席にはイヴ。
ところどころ雪が残る道を、彼女らは進んでいた。
「病院、勝手に抜け出さなくても良かったんじゃない?」
「現金がもうねえ。あれこれ詮索されるのもいいかげん限界だった。3日も寝てたからな」
「あれ、お金もうないんだ?」
「クリスマス前、最後の俗世だったから派手に使っちまった」
「みんな同じこと言うなあ」
雄大なるミスカトニック川の景色を眺めながら、イヴは呆れる。
「安心しろって。ちゃんと代金は置いといた。鉛仕込みのプラスチック箱に入れて。現金がないだけで、金目のものはちゃんとあるんだよ」
「そうなの?」
ああ、と言って、アリアナは片手をステアリングホイールから外し、指の先に挟んだものを見せる。
冬の陽光を浴びて輝く、色のない宝石。イヴは息を呑む。
「ダイヤモンド?」
「神の恵みだ」
アリアナはそれを掌で遊び、握り込む。手からは消えた。
「洗礼式のときから私に憑いてたやつは、もう天にいる。私があそこから落ちたとき、替わりのを貰った。夢の中で洗礼式もやってな」
アリアナはそう言って、腕と肩から、ウミユリめいた触手と、内臓めいた触腕を顕す。
「特別製で、前のやつより全然強いんだってよ。糸も被膜ももちろんあるし、あの空間をぶち割るアンテナみてえなものも私が自由に呼び出せる。こいつがダイヤモンドを持参してきた」
「特別扱いだ」
イヴは微笑み、ふと訝しみ、
「あれ? でもそのダイヤって確か……」
「それより、このあとどこに行く?」
アリアナは前方の遅い車を追い越しながら、イヴへ問いかける。
「原発はもうしばらく無理だろな。カナダも当分は行けねえし。急ぐ旅じゃねえけどさ」
「アーカムは?」
イヴの提案に、アリアナは振り向く。
「アリー、前見て」
「先生のとこか?」
「うん。ロビンのことは、伝えておきたい」
アリアナは再び前を向き、しばし黙考して、
「……そうだな。分かった。アーカムに行くか、久々に。墓の下の奥様にイヴを紹介したいしな」
「ロビン食べちゃったことも、言った方がいいかな」
「流石に先生には黙ってたほうがいいんじゃねえかな。先生のことだから、そうか、とかしか言わねえと思うけど」
それより、とアリアナはイブを横目で見て、
「お前はもうキギがいねえんだ。アーカムじゃ気を付けろよ。美人は目立つ」
「あ、そうだった。紹介してなかった」
「あ?」
イヴは袖口を掲げ、アリアナの視界に入れる。
白い手首から、それが小さく伸びて顔を出す。
黒いつる草が。
「……キギ?」
アリアナは瞠る。イヴは首を横に振る。
「キギ・ジュニア。よろしく」
見知ったつる草に比べてかなり細く小さいそれを、イヴは労るように撫でる。
「私と一緒に落ちた、キギの一部。本当はキギの全部で天の国に行くはずだったんだけど、あの時結構ばっさり切り落とされちゃって、割れた空間の向こうの、よく分からない宇宙みたいなのに飛ばされちゃったんだって」
「ああ、他の連中もキギに振り落とされてたらしいな」
「そうそう。だから、この子もキギのところに送ってあげたいの。出来れば、他の離れちゃった子も一緒に見付けて」
「天の国へか? 簡単に言ってくれるなおい」
アリアナは大仰に肩をすくめてみせる。
「私らの神が天の国に行きたくて何千年頑張ったと思ってんだ?」
「でも、神様はもう天の国にいるんでしょ? しかもアリーならあっちと話せるんでしょ? 変なアンテナ使って。ロビンがやってたし」
「そりゃロビンはミスカトニック大で変なもん読みまくってたからな」
「だから、アーカムに行こうって話」
そこまで聞いて、アリアナはギャハハ、と笑声を上げた。
「おもしれえなぁ。私にボビーの真似事しろってか? 言っとくけどお前のプラン、9割がた私頼みだからな? 分かってんのか? 私が断ったらそれでもう全部おしまいだぜ?」
「断っちゃうの?」
「断ったら、の話だ」
「断っちゃうの?」
「お前ほんと人の話聞かねえよなあ」
ぐい、っとアリアナがイヴの頭を強引に引き寄せる。
イヴは逆らわず、アリアナの胸に顔を寄せた。
抱き寄せたイヴの頭に、アリアナが大きな音を立てて荒々しく口づけする。
「いいぜ。働いてやるよ」
イヴの耳元で囁く。
イヴの体が震えた。
アリアナが肉食獣の獰猛さで笑む。
「けど、その分、お前を隅々まで食い散らかしてやる」
「うれしい」
イヴはわらう。小春のような爽やかさで。
「で、そいつは例の原子核の中性化は出来んのか?」
「出来るっぽいけど、まだ小さいからそんなに一気に出来ないんだってさ」
「ヘリウム3は?」
「この子どこにも着陸してないよ。どこかの宇宙を漂ってる」
「やれやれ、まずは育てるとこから始めなきゃいけねえな。ある程度育てば、ただの水素とヘリウムで無限にエネルギーが取れるんだが」
「じゃあ、次はヘリウム工場を襲うんだ。テキサスだっけ?」
「気が早えよ。まずはどっかでエネルギー補給だ」
「日本とか?」
「なんで外国なんだよ。しかもやっと火力発電し始めたド田舎じゃねえか」
「火山が多いんだって。温泉も多いんだって」
「パスポートどころか戸籍もねえよ」
「でもダイヤがある」
「まあな。アーカムについたら、そのあたりもどうにかしねえとな。先生に相談するか」
「温泉」
「行かねえんだって」
キャンピングカーは北上する。アーカムに向かって。
………彼女らの頭上の空で 緑の炎が一瞬だけ現れ、踊り、そして消えた。
*******
枝の切れ端は、『彼』の宇宙を彷徨う。
唯一の星たる『彼』の光を浴びながら、両断されたその切れ端は力なく虚空を漂う。
正確には、ある重力に引かれてゆっくり、ゆっくり加速していた。
自身を引きつけるその重力源を、枝の切れ端は認識している。
茶色と白の縞模様をした、細い環を持つ星だ。
―――――木星型のガス惑星。
地球の質量より遙かに多い大気があり、大気の主成分は水素とヘリウムである。
切れ端は本体と同様、『彼』の光で元素を変異させることも、電荷の中性化による核融合を起こすことも出来た。
まだ到着には時間が掛かる。
けれど確実に、切れ端はあの星へ至る。
彼はただ、ゆっくりゆっくり待っていた。
『彼』へ至るそのときを。
(完)
王港の一族 鈴本恭一 @suzumoto
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