野川
ヱノキ
野川
国道の外れには野川が流れていて、橋を渡ったその先に公園がある。壊れたブランコと錆びた滑り台が静かに佇むその公園は便所の扉が無い。ただ、熱く噎せ返るような臭気が漂い、歪んだ金網の隙間から生い茂る雑草に烏が潜んでいる。とりわけ見えにくい便所の裏側には、まだリップの濡れた酒瓶などが無造作に捨てられているのだった。
少年は腹の中のカレーのことを考えていた。足を引き摺るたびに赤茶けたスニーカーの薄い底が削れていくのには気づかず、腹の中でちゃぷちゃぷと音を立てる酸と、牛乳と、カレーの混合物がいつ暴れだすのか、それが彼の意識の大部分を占めていた。刺激を抑えるためには立ち止まるしか無かったが、立ち止まれば後で更に強烈な刺激が来ることを身をもって経験していた。それでも、少年は幾度も立ち止まりそうになった。欄干にもたれ、白い泡を吹いている川に嘔吐くと、そのままぼとぼとと内臓が零れ落ちる妄想に苛まれ怯えて吐くこともできずに、ただ公園の方へ向かう脚に任せているしかなかったのだ。昨晩、カレーと聞いてまるで自分が食べるかのように喜んでいた母の丸い顔がちらついて、口角が歪んだ。
ついに吐き出した汚物が灰色の水面に跳ねた。波打つ水面に驚いた白い鳥が国道の方へ飛び立っていく。アスファルトの亀裂から窮屈そうに咲いているヒメジョオンに蜂が留まった。
一歩踏み出すごとに重くなる足を鞭打って、公園へ駆け込んだ。つい反射的に目を背けてしまいたくなる、まぶたの裏にまで刻み込まれた人影が、滑り台の上から見下ろしていた。
「よお、今回も俺より遅いんだなあ、え?」
ムラタが圧をかける。普段から少年をいじめているが、それより明らかに興奮気味だった。
「はあ、はあ、ご、ごめん。これでも……」
「――うるせえ、口ごたえすんな。おまえ、ここに来てること誰かに言ったんじゃねえだろうな?」
「だ、誰にも言ってないよ……」
「親もだな?」
少年は首を縦に振った。
肥えた少年は、窮屈そうな体を豚のように小さく丸めて滑り台に腰掛けたが、殆ど滑らなかった。結局、立って駆け下りた。その勢いで少年の脇まで歩み寄り、太い指で胸を小突く。意地悪そうに目を光らせ、ニヤリと口角を上げた。
「てめえ、絶対に逃げんじゃねーぞ。逃げたら、ぶっ殺してやる」
ゲラゲラとけたたましく
公園の向かいには寂れた古本屋が佇んでいる。
長いこと風雨にさらされてきた看板の文字は殆ど消えかけ、軒先から垂れ下がる藍色の
薄汚れた銀色のドアノブに反射した西日が少年の目を貫く。夜が垂れ始める。扉横に止まっている錆びた軽トラから川と同じ匂いが漂う。
「ほら、早く行けよ」
背中を強く突き飛ばされ、恐る恐る足を踏み入れた。ムラタは再び滑り台に戻り、高みの見物を決め込んだ。
乾いた鈴の音が客の来訪を告げた。少年より一回りも二回りも背の高い高校生と思しき若者たちが、一斉に少年を見て野太い笑い声を挙げた。坊主頭の高校生がアダルト雑誌をちらつかせる。彼らからはペンキのような匂いが漂っていた。
その横をすり抜けて漫画コーナーを目指す。レジカウンターでは白髪の老婆が虚ろな目つきで夕方のワイドショーを眺めていた。
「おい、喜多小の小僧か?」
背後からかけられた、ムラタとは比べ物にならない威圧感をはらんだ声に、少年の足はすくんだ。これから働く悪事をすべて見抜かれているという疑心が鎌をもたげた。
「い、いえ、東小学校です」
喜多小は国道を隔てて川側に建つ私立校だったが、少年やムラタは反対側の公立校に通っている。田舎では珍しい私立校ということで何かと評判が良く、大目に見てもらえるのではないかという、小学生らしい浅はかな算段が今更ながら脳裏をよぎったが、もう遅かった。
「こいつ、手ぶらじゃねえか」
丸顔の脂ぎった高校生が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。洋服のくたびれた裾から突き出る少年の細い四肢が微かに震える。白髪の老婆が欠伸をする。曇った窓ガラスの向こうでムラタが意地悪そうに笑っている。
少年はついに耐え切れず、手頃な単行本に手を伸ばし顔を埋めた。漫画のタイトルも知らないまま、早波のように流れ去るページを目で追いかけたが、何一つとして頭に残らなかった。目の焦点は単行本の糊付けされた境目を一心に見つめているのに、頭では目の端に居座る高校生と、老婆と、ムラタがぐるぐると渦巻いていた。
やがて貧乏くさい少年に呆れたのか、高校生たちはぞろぞろと古本屋を後にした。そのうちの数人は手慣れた手つきでアダルト雑誌をくすねていった。安堵のため息は色褪せたコミック紙に吸い込まれた。
それからは思いのほか早くことが進んだ。エアコンもない古本屋なので監視カメラなど当然無く、生きているのか死んでいるのかよく分からない白髪の老婆は、警備の役目を微塵も果していない。おまけに週刊誌のおかれている本棚の角はレジからの死角にあり、やすやすと持ち去ることができた。
少年はサイコロのように分厚い週刊誌を母鳥が卵を抱きかかえるように大切に抱え込んだ。いくら簡単な行為といえども流石に罪の意識が鎌をもたげ、自然と息を殺した。つい早めたくなる足を懸命に押さえつけた。早鐘のように鳴る心臓の鼓動が老婆に聞こえやしまいかと、少年は心配になりレジを覗いたが、相変わらずワイドショーを眺めていた。少年は老婆の優しげな横顔から漫画の代金を勝手に拝借した。
やがてすりガラスの出口にたどり着いた。この心もとないわずか五センチ程度の仕切りが犯罪と非犯罪の境界かと思うと、興奮して吐く息が震えた。慎重に扉を押し開けると夕闇から怪しい風が吹き抜けて、鈴を微かに鳴らした。
扉の細い隙間から身をくねらせて、少年の右半身が有罪となった時、正面が騒がしいことに気が付いた。雑草を踏み荒らす音、服が引き裂ける音、財布の小銭が触れ合う音、そして聞きなれた人間を殴る音。これらの不協和音はアンモニアとペンキの匂いと交じり合って、公衆便所裏から漏れ出ていた。街灯の白濁とした薄明りに、複数の大きな影と、一回り小さい肥えた少年の影が映し出された。軽トラの積み荷には数冊のアダルト雑誌が乱雑に転がっていた。喧嘩というには一方的で、イジメにしては残虐なショーが橙色のベールの内側で繰り広げていた。
少年は止めに入ることもせず、加わることもせず、そこらを歩き回っている蟻のように身を縮ませて、その場を去った。
やがて橋に着いた。欄干で黄昏ていた
少年は欄干から身を乗り出して、週刊誌を川に投げ捨てた。高く跳ねた水飛沫が突き刺すような夕陽に煌めく。紙の束は川底に沈み、二度と浮かび上がることはないだろう。
少年は膝から崩れ落ちた。路傍を飛び回る蜂の姿はもうなかったが、少年を芯から震え上がらせる低い羽音が今にも耳横を掠める気がして耳をふさいだ。それでもなお不規則な心臓の鼓動が耳の奥深くで鳴り響いた。体中の毛穴から冷気が吹き出すような感覚に鳥肌が立った。
気がつくと、少年は自宅の玄関に立ち尽くしていて、リビングの方から「おかえり」と穏やかな母の声が聞こえた。川を越えた先の帰路をどのようにして辿ったのかはわからないが、少年の呼吸はひどく荒かった。美味そうなカレーの匂いが少年の嗅覚を刺激した。ワイドショーの喧騒が廊下にもれていた。少年は幾度かよろめきながらリビングへ出た。少年の瞳に浮かんだ涙が視界を霞ませた。
不意にソファで一息つく母の横顔が古本屋の老婆と重なり、自分にはもうワイドショーを眺める資格がないことを悟った。
野川 ヱノキ @EnokiikonE
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