第26話 月で終わるたった一人
子供のころ、夜中に起きて、トイレに行くのが怖かった。
今では、なんてことのないことだけれど、夜一人でトイレに行くのは本当に怖かったのだ。
トイレに行くのだけじゃない。夜は何が起きても怖かった。それほど怖がりだった。
両親は別の部屋で寝ていて、トイレよりも近かったとおもう。起こせば、ついてきてもらえただろうか。
怖かったんだ。血も何も繋がっていない子供が、起こして怒鳴られないか怒られないか。
つながっていても繋がっていなくても、恐ろしい。
ただでさえ、一人で起きて、誰もいない真っ暗な家を歩くのは途方もない孤独が押し寄せてくる。
今ここで泣いても大声をあげても誰も来ないんじゃないか。赤い地獄で泣いて、誰も助けてくれなかったから、より強く思う。
夜が怖かった。一人が怖かった。一人になるのが怖かった。見捨てられるのが怖かった。
目が覚めて、途方に暮れる。尿意を感じて起きた。それだけでもう嫌になる。
自分の部屋でさえ怖い。暗闇に目がなれた状態でも、何か動いているように見えた。恐ろしいものたちが蠢いているように見えた。きっと連れ去りに来たのだろう。どうしてだかそう思う。お前だけが生きているなんて許せないと影たちが責める。
目をぎゅっと閉じればそれはすぐに霧散した。また目を開けば、寄り集まって形を成していく。
目をそらす。そのうち布団の中まで怖くなってくる。足元に何かいる気がしてくる。それはするすると這い上ってきて、脅かす。
なんてことない、想像だ。
布団から出る。足元が冷えた。外界だ。
何も見ないようにして扉を開ける。
びくびくしながら廊下を通る。リビングに抜ける。誰もいない。いるはずない。
暗くて怖い。絶望的だった。躊躇う。本当に大丈夫か。大丈夫と知っているはずなのに疑う。臆病なのだ。
一歩ずつ確かめるのではなく、なるべくいつも通りみたいに歩いた。なんてことないように装う。自分しかいないのに、誰かが見ている気がした。
影がどこまでもついてくる。
恐怖はぬぐえない。
背中にへばりつく想像をする。考えては駄目だ。いつの間にか、気付かないうちにそれはついている。
ありえない。
そう、ありえない。
でもそんな、ありえないことがおきて、生き残ったのだと思い出す。
気が付けばトイレについている。明かりをつけると目がくらむ。
慣れた様に用を足して、帰る。
それも怖かった。
布団にもぐっても怖くて、また影は寄り集まって。
目を閉じても恐ろしい。
けれど、気が付けば寝ている。
朝が来ても、夜がまだどこかに潜んでいる気がした。
暗い場所が恐ろしい。
影が怖い。
どこまでもついてくる。どこまでも、ついてくる。
恐怖が鳴りやむことはなかった。
母方の祖父母は同じ府に住んでいた。
二人とも料亭に勤めていたらしく、祖母は未だに料亭を切り盛りしている。母はその影響もあってか料理の道を進んでいた。
祖父は優しかった。料理に興味があるとわかるとすぐさま教えてくれたり、包丁を送ってもらったりと、血など繋がっていないのに優しかった。
どうしてなのかと考えている。血が繋がってなければ自分のようなクズを目にかけることないだろう。いや、血が繋がっていても、クズにかけることなどありはしない。
たぶん俺は祖父母のことが、好きなのだったと思う。確証は持てない。持ってはいけない。
はぐれないようにと手をつなげて、何か良いことをしたら撫でられて。
人の体温が伝わる。
祖父は死んだ。
いつ頃かわからない。
春だったか夏だったか秋だったか冬だったか覚えていない。
温かいかも暑いかも涼しいかも寒いかも覚えていない。
死んだと聞いたとき、そうかと思っただけだった。それだけだったのだ。
ひとでなしだ。血が通っていない。ろくでなしだ。
自分はそう言うものなのだと思い、落胆した。
どれほど愛情をかけられても、やはり自分は歪んでいた。
すべて無駄だった。
子供の時分に出来ることはなく、邪魔にならぬように春の家に逃げていた。春はその時、何かのために家にいなかったので一人でいた。
葬式に至るまでの記憶はない。
棺桶に詰められた、祖父だった形の肉を見て、なぜか涙が出た。
小さくなった肉だ。
ただの肉だ。
ただの肉のはず。
もう死んでる。
もうここにいない。
通過したはずのことに、どうしてだか涙が出る。
ここからいなくなるんだとそんな当たり前のことに気が付いて、泣いたのだと今は分かる。
もういなくなるのだ。
どこにも。
ばったり会うことはなくなる。
歩いているとばったり会うのではないかと探す。家に行くと、迎えてくれるのではないかと思った。
自分はこんなにも弱い。
これを後何度繰り返す。
耐えられない。
耐えられない。
耐えられないのなら、自分が。
燃やしている間、母の手を握っていた。祖母は泣いていなかった。
煙がもくもくと空を行く。あれも祖父だ。残った骨も祖父だ。
塵のようなものが行きつく先。地面も結局はそう言うことだ。
死骸の上を歩いている。
死骸を食べている。
死骸で生きている。
死だ。
死があちこちにある。
愛情というのは知っています。
けれどよくわからないんです。
愛情を抱いている、抱かれている、好意を向けている、そのベクトルがわからない。
そのヒトがわからない、どういう人間か、どんなことが得意なのかどういう反応をするのか、そういうことがわかる機能が欠けていました。
なぜ、どうして、思うのはそんなことばかりです。
自分を好きになれたら、わかるのでしょうか。
ヒトを見て、予測することが増えました。こうすれば喜んでくれるのではないかと真似て、喜ばれて。
世辞というのを知るのです。
良かれと思ったことが屈折する。
感謝が歪む。
こうも、自分が人でなしだとは知りませんでした。
嘘をつかせている、無理をさせている、愛してなどいないのに育てている。
呪いのように、蝕む根拠のない言葉たち。
俺は俺が大嫌いなのです。まともに受け取れず、人になれない俺が大嫌いなのです。
どうすればいいのか、春に聞けばわかるのでしょう。
あの子に寄り掛かればすべては解決するのでしょう。
けれど、私はできなかったのです、しなかったのです。
理由はわかりません。
ただ、いや、ああ。
自分で考えたかったのでしょう。
人から見れば幼稚で、みっともなく情けなく、低度にすぎる物でしょう。
そんなことすら、人ではない私にはわからないのです。
誰かと関わることにおびえている。
自分を少しでも愛せれば、
愛を知ればよいのでしょうか。
それとも、未来を知ることができたのなら、うまく装うことができたでしょうか。
どうしてまだあがこうとしてるのだろう
もう終わった
もう始まる
もう俺は生きていくしかない
もう俺は死ぬしかない
なのに、
どうしてまだ歩こうとしているのか
どうしてまだとまろうとしているのだろう
どうして
どうして
どうして
まだ
まだ
まだ
もう嫌だ
動く体が嫌だった
終わりたいのに
死にたいのにどうして動く
もう終わったんだ
手遅れなんだ
もう始まったんだ
もう、全部。
疑問ばかりが溢れていく。
それを燃やすようにして体が動く。
考えるのをやめたかった。
思い出すのをやめたかった。
ネガティブなことばかり考える。
嫌なことばかり思い出す。
これを終わりにしたかったのか。
いいや、ちがう。
もうどうしようもないから終わりにしたい。
なにもならないじゃないか。
なんにもならないじゃないか。
こんなことしたくない。
誰かこれに招かれたのか。
イエスかノーかって選んだのか。
あなたはうまれたいですか、うまれたくないですかって。
選んでない。
選んでないし、選ばれるわけもない。
もういいや。
そうか。
橋場和人がようやく理解できた。
彼はこうやって、すべてを投げ出したのだ。
彼はもう、死んだ。
もういない。
じゃあ、俺達は。
俺達は一体、なんなのだろう。
いったいなんのために戦う。
どこにいく。
どこにたどり着く。
どこを目指す。
考えるのを止める方法を考えていた。
やめようとしても考え続ける。
ずっと、ずうっと歩き続けている。
始まりを求めて、
終わりを求めて。
考えながら歩いていた。
考えながら手を伸ばしていた。
歩くのをやめるんだ。
手を伸ばすのを続けるんだ。
どちらを選んでも、どれを続けても、
何をしても、
きっと、同じことだから。
全部無意味なんだ。
無駄なのに手を伸ばして歩き続けて。
他人から笑われるような不格好なことを続けてる。
何度も同じ思考に陥る。
ぐるぐると回ってる。
頂に手を伸ばして、地平線を目指して歩いて。
何かがあると、思っている。
自分にはなにもないのに
剣を弾く。
翼のように展開された剣は飲み込んだそれぞれの魂の欠片と同じ形をしていた。
死。
恐怖。
未来。
存在。
否定。
降り注ぐ五つの刃を痺れる手で必死に払いのける。
橋場和人は運動など本格的に打ち込んだことがなかった。遊ぶみたいに春と体を動かしているだけだ。春がいなければあれは何もできないのかと情けなさが思い浮かぶが、死が近いために走馬灯がいつも張り付いているというわけじゃない。
記憶が散る。
攻撃がかわされるごとに。
砕け散っているのか、再生されているのかはわからない。
この体は動きが悪かった。ブルーノのように戦闘用に作られているわけじゃないし、現実に存在していたものだから当然だ。
普段よりも重い剣を何とか振り回し、いつもより非力な腕で力を振るう。
ぶつかるごとに虹が弾ける。
圧倒的な格差を前に、まだ死んでいない理由は、撃ちあうごとに生じる記憶と魂の交差にあった。
意識が飛ぶ。記憶が再生される。脳がうずく。
わからなくなる。どこに自分が立っているのかどちらが自分なのか、どうしたいのか。
死にたいのか、
生きたいのか。
ぐちゃぐちゃになりながらもヘレルは攻撃を止めない。ブルーノは防戦を続けている。あてもない道を歩くようなものだ。
しかし、交差ごとに、腕が動く。力が入るようになる。
打ち込むごとに取り戻す。拮抗の理由はそれだ。
意識の浮き沈み、力をつけていくブルーノ、攻勢と防勢。
そんな要因が重なり、生きながらえている。
どうして。
負ければいいと内側で囁く。
終われるのに。これはどちらの思考だろう。
もうわからない。
境界など既に存在しない。
息切れが伝わる。疲労が回復する。
共有されていく。
溶けあっていく。
元の一つへと戻ろうとする反応に、二つは抗う。
戻ってたまるか。
戻ってなるものか。
ここまできて、どちらかをやりとげないなんてことはできない。
どうか、と祈るように踏み込んだ。祈る、誰に。わからない。
何をするのかさえ分からない。
情けないことに今何をしているのかよく分かっていない。
ただ剣をよけて、弾いて、降り注ぐ攻撃を凌いでいるだけ。
体の波長があっていく。
魂に追いつく、追いすがる。
もっと、もっと。
加速した。防御に暇ができる。それを覆うように攻撃が増える。その繰り返し。
五つの剣に加えて、ヘレルが来た。双剣が増える。
剣は七つ。剣は一つ。
合計八本が戦場で火花を散らす。
呼吸が浅くなる。吹くように吐く。いつもより汗が噴き出る。久しい感覚だ。戻っていく。いや汗などこんなにかいたことはなかった、熱がこんなにたまることがなかった。
命を燃やす。
生きている。そんな気がした。
こんな苦しいことを求めている。
ヘレルはこれがほしいらしい。
必死にもがき続ける理由はなんだ。
死にたいのか。
生きたいのか。
頬を剣がかすめ、熱を持つ。
赤い血が噴き出る。
力を上げても差は歴然。あちらは完成している。
命が燃える。
四肢に力が入る。
なぜ、
どうして、
自分でもよくわからない。
あいまいになる。
五本が展開され、射出された。
一本目を上段から叩き下ろす。それだけで腕が上がった。二本目をなんとかそらし、続く三本目と四本目をよけた。
ぶっ、と何かが裂ける。腕が削げた。わからない、どこをかすめた、どこをもっていかれたかさえあつくてたまらない。
五本目。心臓目がけて降り注ぐそれは今までのものより勢いがある。
腕を上げようとして、上がらないことに気が付く。
存在の剣が突き刺さる。
いいか。
もう、いいか。
いいじゃないか。
生きるのは俺じゃない。
橋場和人も、ブルーノも、ここでいなくなる。
生きるのはヘレルという新種だ。
何もかも諦めて、受け入れる。
受け入れようとした。
それでも。
何か。
体が動く。
力が溢れる。
「――お前らは」
剣が弾かれた。
存在がそこらに転がる。
肩で息をして、必死に剣を杖代わりにして立つ。
反吐が出る。目から血が流れた。ガタが来ている。
ブルーノの影が剣を防いだ。ヴィルヘルムのように立ち上がったのだ。
認めないようにヘレルが攻撃を放つが防ぐのは結晶だった。
三度目は死者が溢れる。
手の内で虹が燃えた。
胸が苦しい。
魂の共有、平均、融合、溶解。
アイズとヴィルヘルムとバートリーの権能が体の奥からあふれる。
影が一面へとぶちまけられ、ヘレルが飛んで回避した。そこへ降り注ぐのはアイズの結晶だ。
打ち砕くと同時、下から死体が槍のように突き出す。踏みつけ、駆ける先は当然のようにブルーノ。
真っ向勝負。横やりを入れようとしたが権能の同時出力により脳が焼けきれそうになる。
だから剣を抜き、鍔迫り合いへと持ち込んだ。
鉄と鉄が摩擦を引き起こし、熱が籠り、赤く染まる。
力負けするのは当然ブルーノだ。膝をつく。上段から攻撃が叩き込まれ、何とか受け止めるもの矢継早に二撃目が届く。
壊れたテレビでも叩くように剣が振り下ろされる。衝撃で体が揺さぶられた。
何度も何度も繰り返す。影がそれを支える。死体を杭のように打ち出すが握りつぶされた。
握りしめていた剣が弾き飛ばされ、追おうとする喉元に切っ先が向けられた。
「お前の求めているものを与える」
終わりだ。
何度目かの限界を迎える。
何度目かの諦めを得た。
これで最期かと何度も思った。
これで終わりにしよう。
溶ける意識の中、そう思い、まだ、残っているものを思い出した。
結晶が下からヘレルの剣を突き上げる。
「無駄だ」
武器はない。影も死も見切られている。
同じ魂だ。同じものから生まれた。
だから、当然。
当然、和人の心臓が残っているのも知っている。
ブルーノは胸元へと手を伸ばし、一瞬で心臓を引き抜く。
「――――」
自らの核を武器とする。それが共通の特性。
心臓を失うようなダメージでは息絶えない才天故の特性。
和人の心臓を握りつぶし、抜刀するのは一振り。
剣が走る。
閃光が駆け抜け、ヘレルへと。
「…………」
届くことはなかった。
「なにをしている」
ブルーノは、倒れ込んでいた。
「おい」
返事はない。
心臓を変換したから?
違う。
とっくに、限界だった。
不意に電源が落ちていたと、心臓は既にとまっていたと、気付いただけのこと。
五つの魂の欠片が共有され、肉体も揃い、一個の生命であると自分が騙され続けていた。
もう、終わっていた。
「何をしている」
自身も限界の中、なぜと問う。
答えはない。
答えはない。
ただただ静かだった。
風の音はなく、なじむようなノイズのような並みの音だけが繰り返される。
二つあった心臓の音は、一つしかない。
求めていた結末のはずだ。
存在が残る。
生きるためにあがいた欠片が残る。
唐突な幕切れ。
終わった、終わってしまった。
僅かな熱も、やがて冷えていくだろう。
ヘレルも、残り僅かに消える。
残っても生き残ることができるかどうかは、賭けだった。
世界は既に落とされた。
消える。
また世界に消される。
たった一人の生存を許さない世界。
また捨てられる。不要だと。
こんなにも、足掻いた熱はあるのに。
ブルーノの遺骸に跪く。
目は虚ろ。半端に開けられた口。
血まみれの体。
空洞の心臓。
死にたいと思った。
生きたいと思った。
選択を放棄した。
残り僅かの命を握りしめ、ヘレルは目を閉じる。
愚策だ。
月からの移動は既に困難。
愚かだ。
見捨てればいい。
もう死んでいる。
光が灯る。
虹が弾ける。
月は静かに、佇んでいる。
白銀の頂 @mochimiyabi
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