第25話 死亡




「はは、はははは、ははははははははははは!!!」

 吸血鬼が哄笑を上げた。

 殺戮が振りまかれる。呼び出された死体はもはや九体のフルレイドモンスターだけではなかった。

 ノーマルもパーティーも関係なくわらわらと湧いた死体が街を蹂躙していく。

 バートリーに殺された冒険者も死体となって大地人を殺し始める。

 ヴィルヘルムの影に侵された大地人が冒険者を襲い始める。

 もういいと誰かが膝をつき、死んだ。

 たすけてくれと頭を抱えた誰かの首が転がる。

 息子の残骸を抱いた母親が力尽きる。

 アキバはもう終わりだ。アキバだけじゃない。

 世界のどこだって、もう逃げ場所はない。

 死が追いかけてきた、恐怖が背中にへばりつく。

 あらゆるものが空に落ちる。

 ゲームオーバーだ。誰かが間違えてデッドエンドだ。

 こんなゲームに終わりはサービス終了しかないが、生憎ここはもうゲームじゃない。

 助けてくれるGMなんかいないし、物語の解決策などはない。

 突きつけられ続けるお前じゃないという否定。

 そんな中で、それでもと戦い続ける者たちはいた。

 黒い影をよけて、魔人へと迫る白銀の戦士たち。

 吸血鬼に対し、リーゼが一隊を率いる。高山三佐が補佐に入った。信頼すべき盾は悉く敗れた。眼鏡のギルドマスターはここにはいない。

 二人の武者がバートリーに斬りかかる。剣聖と死神だ。センジが本来タンクではありえないダメージをたたき出すが、フルレイドという規格は決して揺るがない。

 ソウジロウが空中を跳ねた。上からの斬撃を叩きつけるが簡単に受け止められる。

 四方八方から追撃の射撃が飛んだ。それらすべてはバートリーには通じない。

「いいね、いい! すごくいい!!」

 空を見上げ、舞台上の役者のように両手を広げ、くるくると回りだす。

「これが見たかったんだ! 世界が変わる瞬間だ!」

 この光景が見たかった。

 この滅びが見たかった。

 生きるという目的もある。けれど、こうして、ここで、全身で味わっているのは大いなる災厄。

 あのとき見たんだ。

 冒険者の中で、巻き込まれた知性体の中で、唯一このような景色を見ていた。

 なんて、美しい。

 なんて、素晴らしい。

「世界が変わるのが見たいなら、漫画でも読んでろ!!」

 センジの斬撃を素手で掴み、バートリーはにこりと笑う。

「ああ。そうするさ。そうするとも。でも僕は見たかったんだ。漫画も無いし小説も少ない。だったら、ありえる可能性を実行に移すまでさ。君達もそうだろ?」

 何も違わない。

「違う!」

 剣聖の刀が走った。バートリーが剣で弾く。

 挑む冒険者の数は少ない。次々と倒れていくからだ。所属も、職業も何も揃わないまま、負け戦をし続けている。

「違わない。君達もそうだ。できそうだから、できるからで動く」

 どう違う。

 何が違う。

「人が死ぬ? そうか、じゃあ君たちが殺すモンスターは何だ? ああいい、答えなくていい」

 君達はここで死んで、誰も覚えられない。

 山さえ切り落とした斬撃が走った。

 何もかもがめちゃくちゃになっていく。

 声が減っていく。

 ごうごうとよくわからない怖い音だけが増える。

 聞いているだけでしんどくなる音だ。立っているだけで体が重くなる。

 心臓の鼓動が強くなっていく。

 ああ疲れた。

 しんどいな。

 動くことが煩わしい。

 呼吸がつらい。

 何をしてるんだろう、こんなところで。

 辛くて苦しい。

 倦怠感が付きまとう。動かないと思っている両足を動かす。

 必死に呪文を唱えて影を退けた。

「どうしてこんなことをする!」

 猫人の盗剣士が魔人へと吼える。

「なぜ! 君は、君は! こんな人間では」

 彼と魔人の区別がもはやついていない。半端に知っているからこそ混ざる。

 ミサキでさえ、ブルーノに見えた。

 認識が災害みたいにぐらぐら揺れる。

 戦って、これを続けて、ヴィルヘルムとバートリーを殺して、どうなる。

 何か意味があるのか。

 ヘレルの姿が見えない。

 大樹が折れたのはどうして。

 ブルーノはどこにいるのだろう。

 反応がない。見えない。掻い潜ってフレンドリストを見てもすべてが不確かだ。

「メカギルマス!!」

 応戦を続けていたL2が叫んだ。メカギルマスが不意に動かなくなったのだ。

 何が原因かと駆けつければ二体は大樹を見上げ、来たと呟いた。

 言うなり、ヴィルヘルムの前に一人の男が舞い降りる。

 白い髪、赤い瞳、白い外套。

 まぎれもないその姿は、

「ギルマス!?」

 何をして、と警戒を解きそうになった銀次郎が刀を構える。

 違う、ブルーノじゃない。ブルーノだけどブルーノではない。

 纏っている雰囲気がまるで違う。

「行け、ヴィルヘルム。時間だ」

「早めていいのかい」

「問題ない。頑丈な器を手に入れた」

 それじゃあとヴィルヘルムが自らの影に入り、どこへなりと消え失せた。

「大将!!」

 センジが叫ぶ。それは凍えるような瞳を向ける。

「大将だろ!! なにしてんだよ!!」

「くだらない」

 飛びかかるセンジを払いのける。銀次郎とクリスが次いで攻撃を叩き込むとまともに入った。

「届くか!?」

「いや……」

 後ろで見ていたミサキが息をのむ。即座に再生している。再生速度を観察するためにもらった。

 虹が溢れる。

「逃げろ!」

 後退する。

 ブルーノだったものは剣を掲げ、それで自らを刺し貫いた。

「……なにを」

 高濃度の魔力が噴き出す。

 虹が暴れ狂う。

「開門せよ」

 空間が歪む。

 世界が加速する。

 落下が加速する。

 墜落。

 堕落。

 落ちる。

 落ちる。

 バートリーが黒い光になった。

 現実ではヴィルヘルムが同じ光になる。

 互いを標とし、座標はより強固に示された。

 ヘレルは墓標のように剣が突き立てられて、虹光が放たれる。

「おい、なんかやば」

 ディーが塵になった。

 虹を浴びたものたちが消えていく。

 落ちるのではなく、灰に塵に塩に、粉々になった。

 虹は世界の果てにまで届き、すべてを飲み込む。

「……の、くそやろう!!」

 センジが刀を振り、抵抗する。光を斬るという無理難題は少しだけ押すだけで、かき消えた。

 L2の前にメカギルマスが立ち上がる。

「マスター! ニゲ!」

 少しだけ虹は止まって、メカギルマスすら消える。

 抵抗は無意味だった。

 すべてにイエスともノーともいわさず、意思の疎通もできず、アキバを、ミナミを、ナインテイルを、ススキノを、ヤマトを。

 世界を飲み込んだ。

 合致が始まる。

 滅び。

 崩壊。

 崩落。

 災厄。

 世界にとってのリスタート。

 再編は止められない。































 静かな、とても静かな場所にいつの間にか立っていた。

 目の前には柔らかく冷たい青い光を反射する、温かい海がある。

 波が寄せて、消えて、淡い光を帯びていた。その淡い光の正体を知っていた。

 直前まであんなにも恐ろしくてたまらない地獄が繰り広げられていたのに、そんなものは嘘であるかのように穏やかな世界が広がっていた。

 群青の海。白銀の砂浜。

 揺らぐ境界線を見ながら、ヘレルは自身の存在を確かめた。

 踏み出した一歩はさくりと音を立てる。初めての感覚だった。知識としては知っている。いつだったか、春と二人きりで歩いた砂浜のときのものだ。あのときの景色よりも、素晴らしいものが広がっている。なにせ、現実じゃ存在しない虚構だったはずの景色だ。

 清澄な青が弾ける。

 既に誰かが踏みしめた足跡をたどるように歩き始める。

 何もかもが穏やかだった。

 しばらく歩いて、足跡は二つに増える。

 成人男性のものと、小柄な女性のもの。中学生、高校生、ひょっとしたら、大学生かもしれない。

 脳裏によぎる二人の候補を追い払い、歩き続ける。

 どんな思いでここにきて、悔しさを抱え、無力を感じて、歩いていたのだろう。

 寂しくはなかっただろうなと思う。

 二人いたのだから。誰かの目があるから歩き続けられることもある。

 もらったものをきちんと彼らは返せただろうか。たぶん、返せたのだろう。だからこそ、あれは最も警戒し真っ先に叩き潰すだけの価値はあった。

 足跡が不意に途切れた。彼らはここで戻ったのだ。

 記憶の海から感じるものはない。ありとあらゆる魂の欠片が揺蕩っている。

 海にこぼした一滴のワインだけを味わうことは不可能だ。

 足跡が歩まなかった先を、一人で歩き続ける。

 果てはないのだろうかとふと考え、やめた。あるに決まっている。観測してしまえば、考えて結論を出してしまえばそれまでだ。

 どれほど歩いただろうか。当てもない歩みは続く。

 やがて、向こうから誰かがやってきた。

 印象としてはまず頭が白い。服は黒い。

 どんどんと近付いて、輪郭が鮮明になる。

 黒いドレスを着て、白い羽織。

 狐尾族であることを示す耳がある。

 足跡はなかった。そこを歩いているのに、刻まれていない。

 一種の幽霊だ。

「あのとき、お前の前に立った不完全な機械。あれから俺達を感じた」

「――ああ。メカギルマスだ。ギルマスの、髪を頂戴して製造した」

 魂の劣化複製。そこにまで至った事実に少しばかりは驚くに値する。

「ここにいるのはメカギルマスのおかげというわけか」

 L2が感傷を抱くように渚を見て、目を見開いた。

「……なぜ」

 地球がない。

 大きく見えるはずの蒼い惑星はここには存在していなかった。

 ここに何度か来たことがあるのだろう。ここにくれば記憶が繋がり、連続する。

「なぜなど知っているだろう」

 起きたことを考えれば済むだけの話。

 上に落ちていく。ひびが入った空。

 崩壊、崩落、災厄、才天、合致。

 ヘレル、ブルーノ。

 彼の願い。

 存在と否定。

 死と生。

「本当に、世界を……」

 あり得ないとL2は口に出しかけて、やめた。

 ありえないと思えるようなことなど、あちらでもこちらでも散々引き起こしたり見せつけられたりしている。

「ならば、現実は……」

「想像通りだ」

 あれがここになければ移動しているに決まっている。その移動先は、合致先は。

 巻き込まれる直前にバートリーが光へと姿を変え、ヘレルから発せられた光。

 疑いようはなかった。

「なぜ、ここにきた」

「お前が来たのはバグのようなものだ。意識だけがここにある、お前の体はここにない」

「私が聞きたいのは貴様のことだ」

 真っすぐにそいつは睨んできた。

「合致の発動者は貴様だ。術者本人だけがなぜここにいる」

 置いて行かれたのか。

「いや、違う。惑星、世界という大容量のデータを二つ融合させるという行為は時間がかかるのだろう。術者はそこに溶けあえない。発動した本人だけが、巻き込まれない」

 いわばゲームのインストールだ。

「成立するまでに時間がかかる」

「それがどうした」

 ヘレルは否定もせず、問うた。

「結論は既に出ている。結果は観測されている。お前は、何もできない。かつて橋場春という才能に見切りをつけられたように」

「確かに私は取るに足らないと判断されたよ。だからと言って大人しくしてられるわけがない」

「無駄だ」

「私も貴様を倒せば止まるなどと考えてないさ」

 だが、とL2は言う。

「ギルマスだけは返させてもらう」

「ブルーノを返す?」

 ふっ、と笑みが漏れた。

「ふざけたことを言う」

「その体はブルーノのものだ、ヘレル」

「違うな、橋場和人のものだ。俺もあれも、無断で借りているだけに過ぎない。元々一つの魂の欠片だ。俺も欠片の一つ」

 そうだ、元は、この体の持ち主は、選択を拒んだ男のもの。

 こんな事態になっても、目覚めない馬鹿な男のもの。

「体だけじゃない。返せ、ブルーノをだ」

「わからないようだな。ブルーノがそもそも虚構だ。お前たちはキャラクターを消費していたに過ぎない。いずれ消えるだけの命だ。そも死にたい人間だ。それを生かして何になる。お前達は、ブルーノに生き地獄を見せろというのか」

「ああ。その通りだ」

 迷いのない返答に眉を顰める。表情の乏しい男はわずかに動くだけで劇的な変化に思える。

 ああ、血の通った人間なのだ。

「私達のギルマスだ。死にたいというのは良い。だが死ぬのを実行に移すのだけは許さん。自殺だけは、許してたまるか」

 死なせてたまるか。

 失ってたまるか。

「だから返せ、ブルーノのすべて。私が生かしてやる。私達が生かしてやる」

「橋場和人を見捨てるか」

「そんなことは知るものか。取り戻してから考える」

「世界はもう手遅れだ」

「世界など知らん!」

「随分熱くなるな」

「はっ、世界の終末だ。テンションも上がるというものだ」

 目をぎらつかせ、L2は口の端を釣り上げる。

 そうだ、これも結局は自分がやりたいことをしようとしてるだけだ。他人のことなどどうでもいい。世界がどうなってもいい。

「俺を傷つけて、どれほど影響が出るかわからないお前じゃないだろう」

「なんだ、負けると思ってるのか」

「くだらん挑発だ」

 いいだろう、来い、とヘレルが虚空へと腕を伸ばす。

「それって俺も参加していいよな」

 月に響く第三者の声。銀砂を踏みしめて、一人の武者が歩いてくる。

「センジ」

 L2が魔法鞄を放り投げた。ゴロゴロと中身が転がる。魔法鞄から魔法鞄がマトリョシカみたいに出てきた。

 センジは何の変哲もない太刀を一本構える。それだけで、戦いの準備はできている。

 刀を振るだけで世界の飲み込みに耐えた。あれにほんのわずかにでも抵抗したのは数名。月に出たのは二人だけ。

 後はもう、煮込まれてどろどろになったスープのようになった魂だけがある。

 抵抗したといっても魂の搾りかすのようなものだ。幽霊だ。身体までここにあるわけじゃない。

「この体の性能を試してやる」

 剣を抜き放つ。

「来い」

 短い言葉と共に、二人が行った。

 









 L2が放り投げた鞄から従者が飛び出した。砲を構え、すぐに打ち込むと同時、センジが離れた位置から刀を振るう。

 武器が切り替わる。薙刀へと。射程が伸長された攻撃は優にヘレルへと届くが爆撃ごと切り裂かれた。

 薙刀の刃が切り落とされる。爆発が切り裂かれた。常識外の存在ということにセンジは笑って、突っ込んだ。

 変わらず刃を振るう。薙刀から打ち刀へ、ハンマー、扇と射程を変更しながら間断なく攻撃を続ける。

 ふと身をそらすとブラインドとなったセンジの体の向こうからフロストスピアが駆け抜けた。砲撃は三か所。空蝉模倣の併用、十字砲火を行う。

 攻撃を重ねて、撃ち抜く。ずるりと鞄から抜いたのは門松を基にしたミサイルだ。センジが後退し、門松ミサイルが炸裂するとお返しとばかりに爆炎ごとセンジが斬り結ぶ。

 振るうのは草薙。遠隔斬撃が八方から襲い掛かり、爆雷と合わせて狂ったように咲いた。

 白煙が晴れ、現れるのは無傷のヘレル。再生したのではなく、すべてを捌き切った。

「一歩位動けよ……」

 言いながら次の攻撃を開始する。センジのやることは変わらない。より早く、より鋭く、より強く。武器を振るうだけだ。

 L2が用意していた手数は少ない。空蝉模倣と正月クリスマス用のミサイルランチャーのみだ。メカギルマスはもういなくなっている。合致に巻き込まれたのではない。あのときすでに消え、吸収された。

 倒す。

 再度走った。

 結果は変わらない。

 いなされる。ダメージは通らない。攻撃が当たらない。

 パターンが少し変化して、ヘレルが剣を振った。なんてことのない軽い振りが全力の一撃を凌駕し、右腕が落ちる。

 規格が違う、器が違う、世界が違う。

 文字通り二つの世界を巻き込み、欠片が戻った姿だ。

 適う道理はない。

 戦うのはブルーノ。外見に相違点は見つけられない。内側には類似点しかない。

 何かが違うと叫んでいる。

 ブルーノではない。ブルーノはそも欠片だという。

 魂が分かれた結果、存在していた。

 夢のようなものだ。もしこの大災害が別の形で終着したとしても消えるだけの存在。

 消えることを望んでいた男を引き留めてどうするのかもわからない。

 ただそれだけはだめだと思い、刀を握った、呪文を唱える。

 最初に出会ったとき、ここまで面倒な男だと思わなかった。憂鬱を吹き飛ばしてくれる、面白そうなことに巻き込まれると直感しただけだ。

 衛士に斬りかかり、渡り合ったあの時。

 ススキノで初めて目にしたとき。

 剣が増えて、飛んできた刀をよけきれず、L2が膝をつく。

 羽みたいに展開された剣がセンジの四肢を落とした。

 結局、こんなものだ。

 どうしようもない。

 もう世界は終わって、始まる最中だ。

「お前達では足らんな」

 ヘレルはそう言って、蟻でも潰すみたいにこともなくL2へと剣を振り下ろす。

 内側から焼かれるような痛みが走る。視界が明滅する。痛くて熱い。いや、痛みは過ぎてひたすらに熱い何かが体の中でのたうち回る。

 ミサキも味わったものだ。現実としての痛み。

「アホブルーノ……」

 剣がねじられた。意識が飛びそうになる。飛んでいるのかもしれない。コマ落ちみたいにヘレルが、世界が揺れる。

「ふざけんなよ……」

 センジの声が漏れた。

「ふざけんじゃねえ……」

 声が滲んでいる。

 視界がぼやける。

「大将! あんたそんなんでいいのか!! 俺はよくねえぞ!」

 おれは、

「俺はあんたとまともに喋ったのがクリスマスが最後だぞ!! ふざけんなよ!! あれからまともに話さなくなって、これでいいのかよ!!」

 ふざけんなと繰り返した。

「俺は嫌だ……最後なんて認めねえ……最後じゃねえ……絶対だ……」

 くそ。

「ばーか、ばぁか! 大将なんか馬鹿だ! 馬鹿阿保! バカバカバカバカ!!」

 ちくしょう。

 喉の奥からこれでもかといわんばかりに情けない泣き声が出る。

 子供みたいだ。誰もかれもが取り繕うくせに隠しているそれをさらけ出す。

「帰って来いよぉ……帰ってこねえと嫌いになるぞ……」

 ぐすぐすに濡れた願いがかなうことはなかった。

 血が噴き出て、ぐちゃぐちゃになったセンジの瞳が光を失っていく。

「――――」

 L2は、それをぼんやり見ながら、思った。

「…………」

 この男は、誰だったか。

 わからない。

 ただひどく、何かの残骸で。

 とても大切で。

 発明品とか見てもらいたくて、もう少し。

 ああだめだな。

 思い出せない。

 最後に見たのは無感動に迫る刃だった。



























 幽霊はやがて消えて、何もなかったように穏やかな海が残る。

 群青の海は絶えず押しては寄せて。

 記憶の粒子は宙に消え、白銀の浜は変わらない。

 彼らの断末魔はついぞ誰にも届くことはなかった。

 終わる命の声など誰も受け取りたくはない。

 死んだ人間はただ人間の形をした肉だ。だというのに訳も無く涙が出る。

 たぶん、どこかから指令が出てるのだろう。

 どこから?

 考えても仕方のないことだ。

 感情はただの反応だ。反射的で、機械的。

 楽しくて笑って、悲しくて泣いて。

 そんなものを心だなどと呼ぶ。

 おかしいじゃないか。

 ただただプログラムされたものなのに。そんなものを、大事なもののように扱う。

 無味無臭なくせに、叩かれたら痛いとか、触れたら温かいとか、そんな、当たり前の、反応。

 神様がかいたコード。

 神様など存在しない。じゃあ誰だろう。

 ああ、考えても仕方のないことだ。

 無機質なものが生み出した機械的な反応こそが、冷えていく宇宙を駆動させ、増大する意思が合致に遭遇までを引き起こした。

 しかし、結局は航界種の世界も冷えたのだ。

 ここには山というほど、争えるほどの資源がある。複数の世界が奪い合うほどのものだ。

 共感子というのはただのエネルギーで、人などというのは結局のところ燃料に他ならない。

 使い捨ての資源。そんなものが考えて、動いて、生きている。

 吐き気がする。使い切られず、増えて、間違え続けている。

 人は間違えたのだ。どうしようもなく、増えていくという目標は間違っている。

 多様性を得るのは間違っていた。

 それゆえに人は何かを食いつぶし、燃料であることを否定した。根底を否定したのだ。

 死にたくないという叫び。

 何かを害し、殺し、傷付け、存在する。

 その間違いの極致を、ヘレルは行う。

 正しく、何かをやり直すために。

 何かを得るために。

 何か、良かったと思えるものを大切に抱えて、何十億の人間を殺した。

 とんだお笑い草だ。何万も焼き殺した最低で最悪なあれの後を追わないと決めていたのに。

 そうだ、あれだ。

 唐突に思い出した。

 橋場和人でさえ封印していた、死を求めていた原因を。

 贖罪を。

 もう遅い。

 もう何もかもが遅い。

 気が付くのには遅すぎた。

 一人、静かの海で立ち尽くす。

「俺は生きる」

 あの男は、死にたかった。

「俺は残った」

 あの男はもう嫌だった。

「俺は選んだ」

 橋場和人は選択すら拒んだ。

 生きるか死ぬか。それさえも選びきれず、のうのうと息をし続けることも、抗うことも戦うことも放棄した。

 恐怖から影は生まれ、

 死から逃避し、

 明日に縋りつき、

 存在を求め、

 否定を求め、

 それゆえに、五つの魂に引き裂かれた。

「どうした、橋場和人」

 なぜ。

「何も答えない」

 なぜ。

「答えない」

 どうして。

「何か言ってみろ」



「何か言ってみせろ」



「お前にはまだ時間が残っているはずだ」



「お前の魂だ。お前が放棄した選択だ」



 お前が



「お前が捨てたものを俺は続けた」



「バートリーは世界の革命を望んだ」



「ヴィルヘルムはあの女に会いたかった」



「アイズは自分を愛すると決めていた」



「ブルーノは今度こそ終わると決めた」




 なぜだ








 答えは帰ってこない。




 虚だけがある。




 鏡は返事をよこさない。




 どうして。



 なぜ。



 なんで。





「答えろ! 橋場和人!!」





 お前は、




「何がしたかった……」





 何を望んだ。







 欠片でさえ分からないことだった。





 合わさってもわからないことがあった。





 応えるものはいなかった。







 ただ独りだった。









 災害は終わり、災厄が始まる。




















































 さくりと、音がした。



















 振り向くと、そこに


























 橋場和人がいた。







 ここにいたくないと表情だけで告げていて、

 死にたいと願い、

 生きたいと願っていて、

 矛盾したままの男が、そこに、まだ、いた。








「お、まえは……」

 救われたような顔で、ヘレルは和人を見る。

 地獄の底で一本の蜘蛛の糸を見つけたみたいに。

 だがすぐにはっとしたように気が付いた。

「ブルーノか……!」

「ああ」

 なぜ、ここに、その姿で。

 見せかけているだけか。違う。そんなことはありえない。

 ならば、ここにいるのは。

「溶けあっている最中の世界から拾い上げたな」

「それしか、活動できる体がなかった」

 才天の肉体は脆い。変質に耐えうることができないのだ。ブルーノという想定外しか。

 本来ならば変化はゆっくりと侵攻していくはずだった災厄が急速に遂げることができたのはブルーノの器があってからこそだ。

 現実に存在している和人の体も、同じような強度を保有している。

「まだ、足掻くか」

「それだけが俺達に下された指令だ」

 選択を放棄し、端末に乗っ取られた橋場和人の肉体。

「ならば、もう、橋場和人も必要ない。その男も間違えたのだ」

「それは終わらなければわからない」

 月面。

 海。

 砂浜。

 静かの海で。

 ほかの天体が何一つ見えない、取り残された世界で。

 たったひとりの人間が、命を奪い合う。

 もう命なんてないのに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る