番外編


恵まれている、ということはよくわかっていた。


両親は共働きで、2人とも技術職。

小さい頃からシッターが付き、望めば望むだけ、教育の機会が与えられた。


両親は仲が良く、私が中学生の頃に弟を産んだ時には少し呆れたものだった。


中高一貫校を経て苦も無く大学に入り、そして、そこで天才たちに小さな挫折を味わわされながらも、私は研究の世界にのめり込んでいった。


仮説を立て、ロジックを組み立てる。

学校の勉強は覚えるだけで退屈だったが、研究は自分の考えや発想を自由に取り入れることができて楽しかった。


迷うことなく進学し、さらに給付型の奨学金を得てアメリカに渡った。


そこで進学を迷わなかった、というのも私が恵まれていた証のひとつであるし、実際、両親の稼ぎならば奨学金を貰えなくても私はアメリカに行くことができた。


自分の努力を卑下するつもりは全くない。

ただ、世の中は根本的に不公平にできている、というだけの話だった。



レイナを見ていてよく思う。

彼女は賢く、努力家だ。


自分のことを顧みる力と、先を見通す力があり、他者を思いやる優しさがある。

我慢しすぎるきらいはあるが、それはこれまでの人生でなくてはならないものだったのだろう。


ベッドの中でぐっと我慢している姿は可愛くていいのだけれど、普段の生活ではもう少し、わがままを言ってくれた方が頼られがいがあるのにな、とはいつも思っている。


だが、レイナは私に経済的に頼ることをよしとしていない。

私が渡していた2万円がよっぽどトラウマだったらしく、頑なに私と対等の立場を取りたがった。


レイナがそう望むのならば、それでもいい。

確かに、なんでもかんでもおんぶにだっこされては、さすがの私でもつらくなる。


だが、本当にそれでいいのだろうか。

足枷を嵌められていたレイナと、シード権を貰っていた私の立場が同じで、本当にいいのだろうか。


金銭の話ではない。

彼女は努力に努力を重ねて、自分の食い扶持をしっかりと確保している。

私が今更、それにどうこうと口を出す筋合いはない。




私が詰め寄った日の、レイナの怯え切った目を思い出す。

人に踏み込まれることを、極度に恐れる目だった。


普通、人は家族や友達と喧嘩をしながら、他人との折り合い方を学び、距離感を身につけていく。

そうやって、踏み込ませていい部分とだめな部分を把握し、勝手に踏み込んでくる相手を適切に跳ね返せるよう準備する。


レイナにはそれが全くと言っていいほどなかった。

拒絶し、跳ね返すばかりで、他人を頑なに受け入れようとはしなかった。


他人との境界を明確に引き、そこを越えられることを拒む。

そこを無理に押し通ろうとした結果が、あの日、力なく蹲ったレイナの姿だった。



やってしまった、と後悔したときには遅かった。

繊細だとは思っていたが、ここまでだとは思っていなかったのだ。


その場は何とか収めたが、それ以降、私はレイナに踏み込むことを躊躇うようになった。

彼女の境界に触れた時は、無理に押し込まず、遠回りに遠回りにゆっくりと侵入する。

壊れそうなときはすぐに手を引いて、彼女が落ち着くのを待つ。


じれったいな、と思う時もある。

だが、私がレイナにできることと言えば、それくらいだった。


他人はそんなに怖いものではないと、彼女に伝えたかった。

彼女が他人と屈託なく笑い合う姿を、見たいから。


だから私は、彼女の泣き顔には、ひどく弱かった。



レイナが私の左手を枕にして泣いている。

ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ち、私の手のひらに暖かい水滴が溜まっていく。


右手はレイナの中に入ったままだった。

彼女が抜くことを拒否するから、そこに留まったまま動けずにいる。


「やめる?」


何度目かの問いかけをしても、ふるふると首を振って拒否される。


レイナは近頃、ベッドの中でも余裕を見せるようになっていた。

行為中も軽口を叩くし、なんなら私の手管を批評したりもして見せた。


だから魔が差したのだろう。

奥まで触ってみたい、と言った私にレイナは簡単に頷いた。


背中を壁につけて横向きに寝かせ、太腿を腹に引き寄せさせる。

恥ずかしい、と左手をレイナに取られたので、右手で彼女の中に分け入った。


その結果が、これだった。



「泣かないで」

「むり……」


私は困っていた。

気持ちがいいことはいいのだろう。

全身が赤く染まっているし、私の右手に合わせて小さく身じろぎをする様子もある。


だが、それが泣くほどのことなのかが、私にはわからなかった。


「痛かったら、左手を上げてね」

「歯医者じゃ、ない……」


軽口を叩けるのであれば、まあ問題はないのだろう。

私は上体を倒すと、レイナの顔を間近で見つめた。


可愛いな、と思う。

世間の基準がどうなのかはわからないが、確実に私の好みの顔だった。

私の顔も、彼女の好みであってほしい、と思う。

好みだという確信は、かなりあるけれど。


最初から、レイナは私を見つめていた。

ミラー越しに盗み見られるのはくすぐったかったが、悪い気はしなかった。


最初はそこまで本気ではなかった。

互いに興味を持っているのが分かっていたから、それならいいかと始めた関係だった。

弄んだつもりはない。

関係がここまで深くなるとは、思っていなかっただけだ。



レイナが泣く。

私にはわからない感覚を持て余して、彼女はさっきからずっと泣いている。


レイナの笑顔が見たかった。

頬を染めて、私に笑いかける彼女が見たかった。


私は慰めるようにレイナの頬にそっと唇をよせて、そして唐突に背中を掻きむしられた。


「え?」


服を脱いでいなくてよかった、と思ったが、その思考も一瞬で掻き消される。


レイナが大声で叫んだ。

私は慌てて左手で彼女の口をふさぐと、困ったな、と眉を下げた。

このマンションの防音対策はかなり手厚く施されている。

だが、叫んで隣に聞こえない程度のものなのかはわからなかった。


右手はまだ中に入っている。

だが、必死にしがみついてくるレイナの様子から、引き抜くことも躊躇われた。


「どうすればいいの、これ……」


気持ちがいいのか、レイナが叫びながら暴れている。

顔を蹴り飛ばされそうになりながら、私はそれでもレイナの上に被さっていく。


「どうどう。落ち着いて、いい子だから」


私の言葉は恐らくレイナに届いていない。

固く目を瞑り、必死に何かを逃そうと動き続ける体は、私の言葉を簡単に弾き飛ばしていく。


私は諦めて、苦しそうに歪められた顔をただひたすらに眺めていた。



「死ぬかと、思った……」

「なんだったの? さっきの」

「あたしも、よくわかんない」


私はレイナの体が落ち着くのを見計らって、ずっと入りっぱなしだった右手を抜いた。

レイナは小さく息を漏らし、自分の中についさっきまで入っていた私の指先を見やる。


「真っ白……」

「ふやけたね」


レイナが顔をしかめて言うので、私は軽く笑う。


「抜くなって言ったの、レイナだからね」

「わかってる。……それより、背中大丈夫?」


レイナが心配そうに私の背中を覗こうと首を伸ばす。


「大丈夫。服を着てたからね」

「ほんと?」


レイナがなおも私の服を引っ張って傷の具合を確かめようとするので、私は着ていたものを脱いで傍に放る。

レイナがすぐに私によじ登るようにして抱き着き、肩越しに背中を見た。


「赤くなってるくらいでしょ?」

「……皮がめくれてる」

「え、嘘。お風呂しみるじゃん」

「あたしが洗ってあげる。冷水で」

「なんで? ぬるま湯がいい」

「腫れが引くかと思って」

「もうすぐ冬になるからね? 腫れが引く前に私が風邪を引くからね?」


私が抗議して口をとがらせていると、レイナは顔を埋めるようにして私の首に抱き着いてくる。


「ごめんなさい」


しょげたように肩をしぼませて、レイナは言った。


「アサコさんの手はいつも優しいのに、あたしの手はアサコさんを傷つける」

「事故だから。ね? 別に腕が取れたわけでもないし」

「腕が取れたらお詫びに死ぬ」

「やめて」


私はレイナの背中に手を回すと、抱え上げるようにして背中をぽんぽんと叩く。


「どうしたの? 別にこれくらい、棚にぶつけたってできる傷だよ?」

「……アサコさんが傷つくところ、見たくない」


レイナが顔を上げて、私の額に額を合わせてくる。


「アサコさんが、好き」

「……うん」


不意打ちの言葉に恥ずかしくなって、茶化してしまいそうな口を閉じていたら反応が遅れた。


「だから、あたしを大事にするみたいに、自分も大事にしてほしい。アサコさん、自分のことにあまり興味ないから、心配」

「……興味、あるよ?」

「ない。あったとしても、もっと持って」

「えー、どうすればいいんだろ」

「自分で考えて」

「そこで私に投げちゃうんだ」


まるで横暴な王様みたいなもの言いに、私はぷっと噴き出した。


「笑わないで」

「笑ってないよ。楽しくなっただけ」

「屁理屈ばっかり」

「違う違う。レイナが私のことをそんなに考えてくれてたんだなーと思って」

「当たり前でしょ」

「そうなんだ」


ふふっと笑って、私はレイナの暖かな体を抱きしめる。


与えた分だけ、返ってくる。

そんな当たり前のことが、なぜだか無性に嬉しかった。


「さっき、怖くなかった? 私は怖かった。レイナが壊れてしまうんじゃないかと思って、怖かった。背中の傷のことなんて、本当にどうでもよかった」


私は腕にぐうっと力を込める。

レイナは私の髪を梳いて遊んでいる。


「別に。アサコさんだし」

「どういう意味?」

「えー。アサコさんが傍にいて怖いことなんてない、……って、これ以上言わないとだめ?」

「だめ」

「……触れてるのも、見てるのも、傍にいるのも、全部アサコさんだから、怖くなる要素がない」

「すごい信頼だ」

「裏切らないでね」

「いえす、まむ」


私は腕の中からレイナを解放し、その顔を見上げる。


そうか。

レイナはもう既に、他人を自分の内側に入れていたのか。

これは責任重大だな、と思って、私は笑った。


「……あと、死ぬほど気持ちよかった。寿命、たぶん縮んだ」

「それは大変だ。あまりしないようにしよう」

「……たまになら、してくれるの?」


そう言って顔を逸らしたレイナを見て、私は自分の顔がにやあっと崩れるのを感じた。


「えっち」

「どっちが」

「でも防音工事しないとだめかも。叫びすぎ」

「え? そんなに?」

「まあね。今回は何とかなったけど」

「……じゃあいい」

「諦めちゃうの? 業者探そうよ」

「そんなことのために業者を探したくないし、お金を使いたくない」

「お金なら……、あいたっ」


ガンッ、と頭突きをされて、私は思わず額を抑えた。


「暴力的……」

「アサコさんがくだらないこと言うから」

「まだ何も言ってなかったよ……」


ふんっと鼻息荒く息をついたレイナを見て、私は少しだけ説得を試みる。


「人には得意不得意があって、全部を均等に分ける必要はないんだよ。それぞれが得意なことをやって協力し合った方が、効率がいいと思わない?」

「……あたしにできることがない」

「じゃあ、ピアノを弾いて?」

「え?」

「私にはできないことだから」


私はレイナの手を取ると、手のひらをやわやわと揉みこむ。


「それで、デートの時は私の手を引いて。この街は私には広すぎて、よくわからないから」

「そんなこと……」

「レイナ。人はお金のために生きてるんじゃない。お金があれば確かに幅は広がるけれど、そんなことのために生きてるんじゃない。だから、優先順位を間違えないで」


ね、と言って軽く口付ける。


「……でも、防音工事はいらないと思う」

「今、いいこと言ったと思ったのに」

「まあ、そうだね。考えておく」


レイナはそう言って、気まぐれな猫のようにそっぽを向いた。


きっとまた、自分で考えて、自分なりの答えを見つけてくるのだろう。

私もまた、彼女の答えを聞いてから、考え直す必要が出てくるのかもしれない。


だが、それでいい。

そうやって話して、試して、考えて、2人で悩みながら生きていけたらいいと思う。


悩んだ末、別々の道を歩むこともあるかもしれない。

けれど、それでも、今こうして2人でいることは変わらない。

2人で悩んだ記憶も、愛し合った記憶も、それは誰にも汚せない。


未来の私たちにだって、壊すことはできない。


「やっぱり防音工事した方が、何かと安心だと思うんだけど」

「そこから早く離れて。アサコさん、そんなにあたしを叫ばせたいの?」

「うーん。さっき叫んでる声をちゃんと聞けなかったから、今度しっかり聞いてみたいかな。気持ちいいんでしょ?」

「変態! やっぱり変態だ!」


ああ、幸せだな。


枕でぼふぼふと叩かれながら、私はそう思った。

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タクシードライバーの恋 三笹 @san_zazasa

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