第5話 僕
「ねえ、ねえってば」
君の声で僕は思考の海から引き上げられる。
「暗い話題にしたあたしが悪かったら、楽しい話しよ?」
「ああ、うん、そうだね」
「なにその適当な返事」
頬を膨らませる君を見て少し落ち着く。
「いや、ごめん」
完全に溺れかけていた。
「学校の近くに住んでいる川口さんっているじゃん。あの人実は……」
君の楽しげな声は右から左に流れていく。雑談に集中できずにお別れとなった。
「じゃあね」
「うん、また」
この挨拶が最後かもしれないというのに妙にあっさりとしていたのは、夜にまた会えることをお互い分かっていたからだろうか。
君は神社の横にある平屋に戻っていく。僕はまた長い階段を下ろうとした。
階段を下りたところにある商店でおばあさんとひとまわり下くらいのおばさんが話をしていたのが聞こえてきた。
「そういえば、あの子が亡くなってからもう半年経つんじゃないかい?」
「ああ、あの千秋って子かい。あの子はいい子だったよー」
そうか、そうだよな。
僕は拳を握りしめた。
彼女はやはり……
僕は自分の気持ちを再び確かめた。
すっかり日が暮れた。僕はやはり海に向かった。
予想通り君は静かに立っていた。黒髪を揺らしながら。
いつものTシャツとショートパンツにビーチサンダルの組み合わせだ。
「やあ」
僕が声をかけると君は嬉しそうに振り向いた。先ほどの暗い表情などなかったかのようなすっきりとした爽やかな笑顔だった。
「もう会えないかと思った」
「本当はここで会えると思ってただろ?」
「本音はそうだよ」
笑いながら冗談を言う。
「この海がもうひとつ美しい顔を持ってるなんて知らなかった」
「そう、だね」
先ほど見た顔とは違った君と海を眺めながら雑談を交わした。
だが、表情から暗さが抜けたとはいえ、どことなく会話がぎこちなく感じた。
「海、入らない?」
君もぎこちなさを感じたのだろう。珍しい提案をした。
「いいね」
改めて考えると、いつも海で話していたというのに、一度も海に入ったことがなかったのが不思議だ。
浜辺は潮風が涼しかったので水に入ると寒そうだと思ったが、実際に入るとそこまで冷たくない。
裸足の足を海水が包む。とても心地よかった。
ぱしゃぱしゃと水辺を駆ける。
「水着じゃないからあんまり深く入れないけど、これはこれで青春って感じしない?」
「最近海なんか入ってなかったから、久しぶりに海の気持ちよさを思い出すな」
僕らははしゃいだ。淡い蒼の海をひたすら駆け回った。
ほどなく立ち止まり、声をかける。
「なあ」
君は可愛らしく振り向く。
「どした?」
深く息を吸う。
「伝えておきたいんだ」
「最後だから」
君に近づく。
近い。
じっと目を見つめる。
黒い瞳。
恥ずかしくなって反らしそうになる。
頬が熱くなる感触。
時が止まったかのような緊張。
もう一度大きく息を吸う。
「僕は」
「君が」
「好きだ」
君は笑った。
何度見ても可憐で、爽やかで、美しい笑顔だった。
「あたしも」
視界が白いもやがかかったようにくらんだ。
もう離れまいと、愛おしい君を離したくないと、ただその一心で君を抱き締めようとした。
だが、手は空を切った。
溢れる絶望。
こんなにも好きなのに触れ合えない。
どうして。どうしてだ。
何度も繰り返した。
本当は分かっていた。
実体をもつ人間と、実体を持たないすでに亡き人、すなわち幽霊。
触れ合うことは、できない。
悔しくなった。情けなくなった。唇を噛んで、溢れそうな嗚咽を止めた。
「……ごめん」
震える声を絞り出す。
「顔あげてよ」
君の細い糸のような声が聞こえた。
君は……
笑っていた。笑いながら、涙を流していた。
形は見えるのに、触れ合うことができない。
そんなやるせない思いを、僕と君は共有していた。
唇を君の唇に重ねた。
なにも、感じない。
暖かさも、柔らかさも、すべてが潮風に流されたかのように。触れることができない。
やり場のない愛は言葉として君に伝えるしかなかった。
だから僕は最後にもういちど、言った。
「本当に、好きだ」
ゆっくりと、はっきりと。
そして君は涙で濡れた笑顔と、か細い声で言う。
「あたしも好きだよ。千秋くん」
日付は変わり、盆が終わった。
君の声は、僕と共にこの蒼の海に溶けていった。
海に君透く 亜夢谷トム @tom_amuya
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