妖鬼士伝

石井鶫子

雪行路


 ……残暑を惜しむ蝉の声が山野に響き渡っている。波になって伝わる真芯への響きに気を取り戻した子供は顔を上げた。彼はまだ幼かったが、自分の身の上に起こったことがありきたりでないことだけは理解していた。

 ……蝉の声がじわじわ降りそそいでいる。子供はそろそろと身を起こした。彼を襲った疾風のような災厄は、やはり風のように駆け去っていた。子供は強烈な頭痛が後頭部にすることに気付いた。転んだときに怪我をしてしまったのだろうか。痛い、と思った瞬間いつものようにそれを訴えようと姉ちゃん、と呼んだ。

 ……蝉の声が哀痛を叫んで濃ゆくとぐろを巻いている。

 姉の返答はついに返らなかった。子供はよろよろと立ち上がり、立ち上がって視点が上がったことで子供はその周辺の惨状を目にした。倒れている大人たち、血流に伏せてぴくりともしない。尋常ふつうでないと子供は悟った。

 子供は姉ちゃん、と呼んだ。唯一の庇護者を。

 ……蝉の声が返る。

「姉ちゃん」

 子供は次第に込み上がってくる不安に押し潰されるように姉を呼んだ。

「姉、ちゃん」

 ついさっきまで彼の手を握っていてくれた白い手はどこにも見当たらない。子供は大人たちの体の隙間から姉の痕跡を捜そうとするが、見つからなかった。

 ……蝉の声がはりつくようにじりつき、騒ぎ立てている。

「ね、え、ちゃん」

 少しおどけて呼ぶといつもは何よという微笑み混じりの声がしたはずだった。

 ……降り注がれる蝉の、痺れるようなわめき。

「ねーえ、ちゃん」

 姉の声はやはりしなかった。蝉が煩くて聞こえないのだと、子供は小石を拾って近くの木に投げる。一瞬そこは静寂に戻った。

「ね、え、ちゃーん、ねーえちゃん、ねえちゃん、ねえちゃん、ね、え、ちゃ、あーあ、ん、」

 一度止まった繁雑な鳴き声がまた周囲を席捲し始めた。

 子供は急激に上がってきた涙を唇だけで堪えながら姉ちゃんと繰り返した。そうすることだけが、姉の返答をもらえる術なのだと思っていた。

 ……蝉の声が煩く何重にもなって響いている。

 子供はそれに負けまいと大声を張り上げた。

「ねーえ、ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃあん」

 それが号泣になるまでさほど無かった。姉ちゃんと呼ばわりながら子供は泣いた。泣き、続けた。

 もちろん子供は知らない。

 大陸の北部には自分たちと全く違う文化と風習をもった民族がいることを、彼らを自分たちが蛮族と見下していることも、彼らもそれを知っていることも。

 そしてやはり子供は知らない。

 彼らがしばしば国境の河を越えてこちらへ侵入し、略奪を糧としていることを。河が凍りつく冬はそれも収まるが、問題はそのせいで本国へ戻る道の困難になった彼らのほうだということも。生きるためにその冬には近隣を縦横に駆け回って村々を襲い、必要なものを手に入れていることも、そのまま盗賊として身を堕とす者共があることも、子供が出会ったのもそうしたはぶれ族であったことも。

 彼は何かを知るにはあまりに子供であったのだ。

 それが結論であった。


* * * 


 相翰そうかん、と風に乗って声が聞こえた。少年は茅刈りの手を止めてかがめていた腰を伸ばし、声の方向を見た。この声が誰であるか、考えなくてもよかった。癩性で怒りを何処か含んだ声は梁敲だりょうこう

「相翰、返事をおし、相翰ッ」

 ここです、と手を挙げて返事をするとやがて草の波を掻き分けるようにして中年の女が顔を出した。彼女は背が低い上に右足を蛮族にもっていかれており、そのせいで腰を屈めて歩く。それで背の高い草に囲まれると相手が見えないこともあるのだった。

「まったく、返事くらいおし。どこで手を抜いているんだか分かりもしないじゃないか」

 口を開くと罵りばかり、相翰はいい加減うんざりとしながら俯いて聞き流した。手が不意にぴしゃりと叩かれる。

「大方、あたしの言うことを黙って聞いていればいいと思っているんだろう。お前たちの考えることは皆同じさ。けど、あたしが上申書さえ書けばお前たちなんかもっとひどいところへ労働に行かされるのは決まっているんだからね。分かったら返事をおし」

 はい、と答えて相翰は叩かれた手をゆっくりさすった。別段痛いわけではないが、やはり軽い嫌悪はあった。皆同じ、というなら梁敲の方とていつも同じだ。気に入らないことがあると子供たちにあたる。相手の返答が気に入らないと難癖をつけてねちこく苛める。庇うと同じ目にあうから後で慰め合うしかない。

 何故助けてくれなかったのかという仲間はいなかった。皆結局は平等に経験していることでもあるからだ。それでも彼女が国の制度として成立している孤児たちの施設の管理人であることは間違いがない事実で、事実だからこそ重苦しいものだった。

 それに、と相翰は内心で溜息をつく。結局二十歳で成年と認められて戸籍を貰えるまでは施設にいなくてはならないが、どうしても嫌なら飛び出していっても構いはすまい。流れていく旅人たちの間に混じっていくことがそう難しいことだとも思わない。

 それを計算に入れながらここにいるのは、梁敲が言った通り、この杷遼郷の暮らしがやはり恵まれているからだ。梁敲はこんな調子だが郷長は枯れた風情の老人で、苛性でない。それに二十歳まであと五年だ。

 穀物の出来不出来は天の決めることだから波があるが、飢饅にならないよう蓄えておくことが治世であり、水害にならないよう堤を整備しておくことが為政者の役目だ。

 杷遼は国境の河から僅かに南へずれたなだらかな平原の土地柄、天領国領地に近く御士大夫役人の目が届くという物理的な理由ではあるが善政が敷かれていた。運がいいのだ。恐らく。

 それを思って憂鬱に相翰が溜息になると、それを耳聡く聞きつけて梁敲がまた手を叩いた。本当は頬を張りたいのだが手が届かないのだろう。

 すみませんと相翰は軽く頭を下げる。近くにいたはずの仲間たちの気配は遠い。余波を貰うのを恐れて離れた場所で作業をしているだろう。

「お前たちは揃って根性が悪い。まったく嫌になるね」

 苛々と梁敲は爪を噛んでいる。何か用事ではなかつたのだろうかと相翰は梁敲を促した。梁敲は不機嫌に頷いた。

軍門大人将軍閣下幕友秘書さまからの使いが来ている、お前に、だ。さっさと寮堂へ行って、ご用事を承ってきな」

 軍門大人、と相翰は不思議な顔をした。心当たりはまるでない。幕友というのは参謀などの側近のことだ。相翰は首をかしげながら刈り終えた茅を束にしておき、鎌を腰へ挟んで畑から上がった。

 泥で汚れた足を拭って寮堂へ上がろうとしていると、背後からあの、と呼ばれた。振り返ると少女がぽつんと立っていた。年齢は十二、三というところか。意志の据わった強い光のある瞳が印象に焼きついた。

「こちらが杷遼の奨善院?」

 相翰は頷き、ちらりと寮堂を振り返った。この少女は新しい入寮者だろうか。ただ、今は多少間が悪い。あまり使者を待たせたことが梁敲に知れると夕餉を貰えないことだってあるのだ。

 その迷いが顔に出たのか、少女はくすりと笑った。

「いいわ、院長はどこ? 用事があるんでしょ、そっちへ行って」

 相翰は安堵に頷き、梁敲の房室のある講堂を指した。

「癖のある人だから気をつけてね。君、ここへ入るの?」

「いいえ。でも、人を待たなくてはいけないの。さっき郷府役場へ行って聞いたらあたしはまだ子供だからここへ行くようにって。働けば面倒を見て貰えるんだからいい事だわね」

 そうかな、と相翰は苦笑になる。それでもこの少女がそう長くない期間でここを出ていくとするなら彼女のためには悪くないことに思われた。

 後でねと行って相翰は寮堂へ上がり、振り返った。少女の後ろ姿がまっすぐに彼の教えた講堂へ向かっていくのが見えた。梁敲に会ったらそれは驚くだろう。ずっと前の代の皇帝陛下の慈悲で始まったはずの奨善院を仕切るはずの院長があれだから。

 肩をすくめて待合室に入ると、待っていたのは若い兵士だった。郭相翰、と呼ばれて返事をする。郭とは相翰の本姓だった。名は煕である。

「もうずっと以前、絡封で蛮族に襲われたということだが」

 それは事実だったから相翰は頷いた。髪で隠れていて普段は見えないが、後頭部には手で触ると分かるほどの傷痕がある。

 山越えの街道を背後から来た蛮族に一撃殴打されたのだった。ただ相翰が運が良かったのはそれですとんと気を失ってしまったことで、そのおかげで命を奪われずに済んだ。その場にいた大人は皆殺しだったのだ。

 いや、それは事実ではない。相翰は姉と二人、父方の祖父を頼って歩く旅の途中だった。両親がその年の流行り病であっさり亡くなり、奨善院に入るよりはと祖父の家に行く途中だったのだ。

 途中で行き会った旅芸人たちとの旅は楽しかった。幼い子供と、ようやく大人にさしかかろうとしていた年齢の姉との二人旅では危険であったし、両親の死から塞ぎがちだった姉がようやく笑顔を見せるようになったことも嬉しかった。天涯孤独なのだとばかりに硬く自分の手を握り締める姉の、細い腕の強い力が痛かった……本当に、痛かった。

 その道行き、杷遼近い山道を越えていた時に突然彼らは現れて大人達を皆家畜のように屠り、姉を攫っていった。姉の死体だけがなかったのである。彼等は南から現れ、西へと去った。わかっているのはそれだけだった。

「姉さまの名前を覚えているかね」

「郭、予、祥苓です」

 兵士は懐の書き付けを見て小さく頷いた。その懐から取り出されたものを見て、相翰は微かに瞠目した。記憶の底に揺らめくようなものがある。赤い陶器の玉を連ねた首環に見覚えがあった。知らず深い吐息になった。

 相翰の反応で兵士は確信を強めたように重い声で、これはお前の姉さまのものだねと念を押した。相翰は頷いた。薄れた記憶の中で姉の首にそれが巻きつけられていたのを見ていた気がした。

「一昨日に岳斗で捕まった蛮族の男がこれを持っていてな。締め上げたらお前の姉さまのことを喋ったよ。これがお前の姉さまのものならば、お前に返そう」

 受領の署名をするように言われて相翰は素直に従い、それから恐るおそる視線をあげた。いや、多分この答えは分かっている。兵士は多少言い難そうに目を逸らした。そうですか、と相翰はつぶやいた。

「姉は、死んだんですね」

 耳奥に、騒ぎ立てるあの日の蝉の声がした。

「死んだんですね……」

 兵士は重く頷いた。

 相翰は有り難うございましたと頭を下げた。半ば諦めていたとはいえ、喪失感は胸を刺した。風化しない記憶を思い出というならば、それは相翰の内では十分に昇華して、結晶のように美しく固まっている。

 相翰は返されてきた首環を握りしめた。冷たい陶器の感触の彼方に、それを遥か昔、身に付けていた人の気配は微弱であった。それがある気がするだけ、きっとましなのだろう。自分は運がいい。刷り込もうと何度も眩いてきた言葉を、相翰はもう一度自分に言い聞かせた。

「蛮族の男、というのは」

 一息いれて落ち着きを戻し、相翰は聞いた。蛮族を目にしたのは相翰が気を失う前のほんの一瞬のことだが、顔を見れば何かを思い出せるかもしれなかった。思い出したところで何があるとも思えないし、第一その男が姉をさらった男でもないだろう。だが、見える形での怒りの対象が欲しかったのも事実であった。

 兵士はゆるく首を振った。

「実は逃げてしまってな。そうだお前、この辺りで蛮族を見かけなかったか」

 彼らの風俗は明らかに相翰たちとは違っている。獣皮で作られた腰巻に分厚い袴、がっしりした靴、やはり獣の皮の肩抜きに厳寒の地特有の毛皮の帽子や襟あて、どれも独特の刺繍が入る。必ず馬と犬を連れ、弓を構えている。弓は彼らの得意とする武器なのだ。相翰は首を振った。

 姉が行方知れずになり、相翰は幼くて祖父の居場所を知らなかった。結局相翰は拾われた里の奨善院に入った。

 孤児が食いはぐれぬようにという国の善意は施行の頃の崇高な目的とはややずれて、里の富を増すための労働力をただで提供する場所になりつつある。国と天子の大恩に感謝して自らの働きで返す……という美しい建て前が、相翰たちを朝から晩まで働かせて僅かな金さえ貰えない生活に押し込んでいる。

 兵士はそうかと頷いた。相翰から有力なことを聞けるなどと最初から期待もしていないのだった。

「見かけたらすぐに里長に届け出るように。邪魔をしたな」

 兵士はそれから思い出したように姉の冥福を祈り、帰っていった。取り残されて相翰はぬるい吐息を捨てた。

 姉のことは諦めるように、と誰もが言った。相翰はそれに逆らうでもなく頷いてきたが、真実諦めるには足らないものが多すぎた。最期の言葉も形見もなく、ただその場から忽然と消えただけのような、そんな気がしていたのだ。

 深い疲労を肩に感じて相翰はまた溜息をついた。だが、事実はようやく相翰の前に姿を見せた。姉の形見が帰ってくるという形で、はっきりとその死を告げたのだ。それはやはりという落着をもたらすと同時に、心奥にくっきりした落胆を連れてくるものでもあった。

 相翰は手にした陶器の首飾りを見る。姉には華やかで鮮やかな色が似合った。髪の結いあげを初めてしたときの姉の誇らかな様子が今、目に蘇ってくる。

 いや、それは姉の死をやっと事実なのだと思えたからこそ、克明になぞることができるのかもしれない。握りしめると冷たかった陶玉が相翰の体温に徐々に暖まっていくのがわかった。相翰はそれを大事に懐に収めると、畑仕事の続きをするために外へ出た。


* * * 


 夕食のときに先ほどの少女が隅に座っているのに相翰は気付いた。少女も彼を分かったのだろう、視線だけで微かに笑って頷いた。多少日に焼けていたから、あれから早速仕事を手伝わされたに違いなかった。

 相翰は碗を抱えて少女の隣に座った。少女がいざって場所を開ける。相翰が名乗ると黄鈴という返答があった。

 今日の碗は鳥肉の入った粥だった。正直相翰には若干もの足りない。何しろ十五の育ち盛りだ。

「早速仕事だったろ。ごめんな、客ならもうちょっとゆるめたっていいのに……」

 そんなことを言うと、黄鈴は首を振る。それほど表情に影がささないところを見ると気にした様子はなかった。

「いいわ。どこの奨善院もこんなものよ。それに働かなくては食べられないのは奨善院も関係ないわ」

「……君は偉いんだね」

 黄鈴は軽く笑った。自分の物言いがひどく子供じみていたことに気づいて相翰は苦笑した。適当に雑談をしながら粥を平らげてしまうと、黄鈴がくすくす声を上げた。

「あたし、あんまり要らないから食べなさいよ」

 相翰が何かを言い返す前に彼女が素早く自分の分の食事を相翰の碗に開け、立ち上がった。一瞬返事の遅れたことを悔やみながらでもと言うと、黄鈴は笑って首を振った。

「いいの。本当にいいのよ。……あまり元から食べないの」

 それだけ言って黄鈴は手招きする少女たちの輸の中へ入っていく。寝起きする寮は男女別々だし、年頃が十の最初を越すころになると尚更意識し始める年齢のこと、相翰たちと少女たちは明確に、自分たちの自然な総意として離れていることが多い。

 輸の中から切れ切れに彼女の旅の話が聞こえるが、時折は少女たちの上げる笑い声に消されて聞こえなかった。

 あまり遅くまで居残って話すことは難しい。灯心代や油代のことを、梁敲が細かく気に病んでいるからだ。あまり予算がないのも薄く分かってはいるが、余計なことをつい勘ぐっててしまうのは向こうの人徳というものであった。少女たちもその辺りの限界の機微を理解している。意外に早く引き上げていく子供たちに黄鈴は微かに怪訝な顔つきになったが、何であるのかを理解したのか苦笑になった。

 相翰は女子寮に引き上げていく黄鈴を見送る。しゃんと伸びた背中に彼女が年齢を越えて芯を確立していることを感じさせた。

 布団は冷えている。茅を刈り終える頃には雪が降りる。秋も深くなると布団を被っても中々温まらずに両手を擦り合せ、目を閉じて夢の中へ逃げてしまおうと躍起になるのが相翰の常だ。

 だがこの日は違った。戻ってきた姉の生命の証拠が相翰の神経を冷ややかなままにしている。冷たい陶器が手の中で存在を主張しているのだ。相翰は溜息になった。姉の存在は両親がいなくなって里を移ってからの相翰にとっては唯一の肉親の希望であった。

 これだけなのかと尋ねても良かったと相翰は思った。

 たったこれだけなのか。他に何でもいい、その男が持っていたのはこの首飾りだけだったのか。せめていつか、両親の墓廟に添えることができる、他の何か。

 この首飾りは相翰が姉と、姉のいた幸福な日常の追憶の想起のために手元に残しておきたい。これ以外何一つないとするならやはり落胆と言うべきであった。

 家族。相翰にはとうにないものであるが、記憶があるだけ自分はましだ。寮にいる子供たちの中には親がいなかったり、いても語りたがらないものも多い。自分は運がいい。運がいいのだ。

 いつものように刷り込む仕種はこの日は上手く行きそうになかった。姉ちゃんと泣く子供の声が、蝉に混じって聞こえてくる。

 相翰は一息ついて起き上がった。隣で横になっていた少年がどうした、と囁いてきたがそれには首を振る。ちょっと外、と答えると曖昧な返事が返ってきた。

 寮を出て廊下に座り込み、ぼんやり月を眺め上げる。

 追悼は一人でするものであった。手の中で首飾りを転がしながらそうして姉の思い出を掘り起こしていると、あら、という声がして相翰は声の方向を見やった。声で誰かは薄く分かっていた。

 女子寮の廊下を殆ど音も立てずに渡って黄鈴は相翰の隣へ膝をついた。どうしたの、と微笑みながら首をかしげる仕種は思いのほか年を取った女のようだ。そんな気配を一瞬感じて相翰は苦笑になった。黄鈴はどうしたって彼より年下の少女であるのだから。

「何でもないよ。君こそ、どうしたんだよ」

「あたし? あたしは……ちょっと、眠れなかったから」

 くすっと笑う顔が月光の下で明るく、屈託ない。相翰は釣られるように笑みになり、首飾りを手首に巻きつけた。

 いいお品ね、と黄鈴が言うのに合わせてそうだねと軽く流す。触れられたくないのが分かったのか、黄鈴はそれきり首飾りのことに口を添わせなかった。

 その代わり黄鈴は相翰の隣へ座り直していい月ね、と呟いた。ありがたかった。感傷は一人で噛むものだ。感慨を分け合うことができる相手は血のつながった家族でしかなく、希望のあった唯一の家族の死を伝えられて後は真実、天涯孤独でもあった。

 姉もあの頃、同じように感じていただろう。そして自分よりも遥かに恐怖であっだろう。自分には姉がいたが、姉には誰もいなかったのだ。両親の死の哀しみと、物事をまだ分かっていない弟を抱え、彼女はそれでも必死で顔を上げようとしていた。

 何の折りだったか不意に抱きしめられた記憶がある。姉の腕が自分を抱き寄せ、胸に深く相翰の頭を抱え込みながら、大丈夫よ、と呟いていたあの声音。誰かにそう言って欲しかったのは姉の方だったのだろう。

 だが姉の覚悟も決意も全て背後からの風が吹き飛ばした。結局それだけのことだ。相翰はぬるい溜息になった。

「誰か待っているって言ってたよね。ご両親?」

 黄鈴に迎えに来る家族があるなら、それは喜ばしいことであった。黄鈴は一瞬迷って首を振った。親みたいなものだけどね、と付け加えられて、意味が良く分からずに相翰は怪訝な表情になったようだ。黄鈴は小さく、忍びやかな声を上げて笑った。

「あたしの親はもうずっと昔に亡くなったの。色々あってね、知り合った親代わりの人と旅を。それも長いわね……でも時々は自分の親のこと思い出してあげなくちゃ、父さんも母さんも可哀相だから」

 誰も思ってくれないなんて寂しいでしょう、と付け加えて黄鈴は月を見上げた。その顔がいささか寂しげに相翰と似たような感傷を漂わせている。彼女の親のうちのどちらかは月の夜に亡くなったのかもしれないと相翰は思った。

 そうだねと相翰は眩いた。誰かが思い出して追憶することで人の死が過去として堆積し、やがて何かに変化するのであれば、その色が暖かであればよいと思う。

 墓廟の下には冷たい柩が置かれるだけだ。魂の転生や輪廻を説く教えや死んだら神の元へ召されるのだという教え、沢山の神があるにせよ、皆一様に死者の魂を弔う。

 それはきっと、誰かの死が誰かにとって大切なものであるように祈り願う、人の心の習性なのだろう。

 黄鈴は自分の姉のことを知っているのだろうかと相翰はぼんやり思い、それから自分で否定した。それを知ったのは相翰とて今日の昼間、寮友たちにも話していないのだ。だからきっと、黄鈴自身が相翰に合わせながらも遠からず近からぬ場所を選択しているのだろう。それを思うと、自分のほうが遥かに年少のような気がした。……結局の所、慰められているのだから。

 二人は目を合わせて微かに笑いあった。それが導きになったように、相翰は自分の親と姉の話を語った。黄鈴は頷きながら聞いていた。彼女に聞いてもらうと気が抜けていくほどに何かが楽に癒されていくのが分かった。

 俺は運がいいんだ、という呟きを、今度は自分で信じることができそうだった。耐え難い事実、心に許せない出来事があるときは相翰はこれをいつも繰り返す。幸福を探すのは難しいが、簡単なことでもあるという真実は彼の根の深い場所にあって、最早覆されるものではなかった。

 そして、それでも泣きたいときもある。そんな時慰める魔法の言葉が自分は運が良い、なのだった。

 相翰はゆっくり身を縮めた。丸くなる一瞬の、この満ちた感覚は明るい月夜には相応しく思われたのだ。黄鈴はそうっと笑い、そして不意に視線を流した。少女のみじろぎにつられるように、相翰は彼女の視線の先を追った。

 月光の下、村外れの方からふらふらと歩いてくる影があった。昼間に比べて格段に不明瞭ではあるが、体つきで女性だと分かる。

 何かを探しているのだろうか、時折足をゆるめては視線をあちこちに彷徨させているが、見つからないのだろう。悲しげな吐息が聞こえるようだった。

 黄鈴が素早く立ち上がった。思いもかけぬほど厳しい表情なのが見て取れ、相翰は背を正す。少女の体から張り詰めた緊張が溢れてくるようであった。空気にすくみ追われるように相翰は女に視線を戻した。

 女は変わらず頼りない足取りでこちらへ向かっていた。歩き方がおかしい。足に怪我をしているようだと気付き、相翰は声を掛けようとした。座って少し休んでいけばいい、と思ったのだ。

「でも」

 不意に黄鈴が呟いた。

「まだ何もしていないし、それに……いいえ、駄目よ」

 意味は不明だった。相翰はその意図を聞こうかと首を傾げ、それよりも女の方が先だと結論付けた。女が近くなる。その顔立ちが月の弱い光の下で青白く浮かび上がった。

 相翰は思わず立ちあがった。

「……ね、え、さん……?」

 喘ぐように転がり出た言葉に、相翰は自分で息を飲んだ。

 嘘だ。でも。

 黄鈴の声がお姉さんなの、と問い返さなければ相翰は呼吸をしばらく忘れていたかもしれない。少女の言葉に浮かされるようにぽうっと頷き、そして相翰は微かに震えた。

(ねえちゃーん、ねぇえぇえちゃあぁん……)

 子供の声と蝉の騒音が、耳の奥に何重にもたたみかけながらよぎっていく。

 死んだんですね──姉は死んだんですね……

 違う。俺の目の前でいなくなったんだ。死んだのを、誰も見ていない。いなくなっただけで、戻ってきたんだ。きっとそうだ。死を告げられた時に飲み下しきれなかった納得が、吐き戻すように急激に、胃の底から上がってくる。

 相翰は喉にあがってきたものをうっと飲み込み、そして呪縛が溶けたように走り出した。


* * * 


 茅刈りの手を止めて相翰は空を見上げた。白く細かなものが降りてきている。ここ数日底冷えしたから遠からず降るだろうとは思っていた。例年よりは早目のような気もするが、杷遼は国の中でも北部と呼ばれる地域のこと、決して理不尽に早い訳ではない。

 相翰の視線に気付いたのか、隣で同じように腰を屈めていた少年が同じようにし、雪だと呟いた。

 本格的な冬の前に、茅刈りは終えることが出来そうだった。そろそろ炭も買い込まなくてはならない。積み下ろしが重労働だから、奨善院の子供達は炭の買出しに従事するのを嫌う。志願すればきっと行かせてもらえるだろう。

 相翰は僅かに唇を綻ばせる。怪訝な少年の視線に気付いて、何でも無いよと笑うと、少年は曖昧な微笑を浮かべた。

「最近相翰、御機嫌……なあ、黄鈴といい仲って本当?」

 違うよ、と相翰は笑う。

「気が合うから一緒にいるだけさ。彼女、人が迎えに来るのを待っているだけだって言ってたから、その内いなくなるんだしね」

「ふぅん……ま、いいけど」

 二人は肩をすくめ、少年は作業に戻った。余り雑談に終始しても日暮れまでに言いつかった量を出来ないのだ。

 相翰はちょっと、と言い置いてその場を離れた。少年は不思議そうに相翰を見たが、やがて自分の仕事に没頭していった。

 相翰は梁敲に見つからないように身を屈め、そっと炭小屋へ回る。本格的な冬が降りるまでそこは殆ど空小屋、誰も足を踏み入れない。隠し事には好都合だった。

 炭小屋へ入ると、奥で人が身動きする気配があった。相翰は安心させるために殊更優しい声で姉さん、と呼んだ。

「俺だよ。飯、ちょっとだけど持ってきたから……」

 言いながら相翰は昨晩置いた椀を見る。すっかり水分を吸って肥大した点心が、残り少ない汁の中で沈んでいる。箸でちぎった跡はあるが、手はつけられていなかった。暗澹とした溜息が漏れる。中に含まれていた僅かな非難に気付いたのか、細い声がごめんねと言った。

「食べられないの……ごめんね、相翰……」

 か細い声音に篭る震えるような深謝を嗅ぎ取り、相翰は慌てていいんだと明るい声を出した。

 あんまり美味いもんじゃないよねと言いながら相翰は椀を下げ、持ってきた饅頭を差し出した。受け取りながらも細い佳人はひっそり微笑むだけで、口をつけようとしない。

 その笑みも次第に弱くなっていくのが最近はっきり分かるようになり、相翰は次第に募っていく暗い色をしたものに怯えている。

 どうしたらいいのだろうと内心で途方に暮れていると、炭小屋の扉が開いた。相翰は振り返る。炭のおいていない炭小屋など覗く人間などいないだろうとたかを括ってはいるが、やはり予測もなしに扉が開くと一瞬不安が過ぎる。

 またここにいたのね、と言う少女の声は、半ば呆れている。相翰は曖昧な笑みを浮かべ、肩を煉めた。

「仕事を抜けて良いことなんか何も無いわよ」

 黄鈴はそう言うと、ちらりと相翰の背後を見遣った。相翰は身体をずらす。溜息がした。

「あのね、食べられない人よりも食べるべき人が食べないと駄目だと私は思うのよ。食事なら、私の分を出すって言っているでしょ? 相翰はこれからどんどん体が大きくなるんだから、食事を削っちゃ駄目よ」

 うん、と相翰は生返事をした。が、それが了承で無かったことくらいは少女にはすぐに分かるようだった。溜息。

 それから少女はじっと炭小屋に座り込んだ女に視線を与えた。同性同士だからなのか、その視線は相翰よりも遥かに冷静で、じっくり彼女の状態を見定めるような緻密さまで含んでいる。女は観察されている居心地の悪さに身を丸くすくめ、俯いた。

 黄鈴のこうした態度は相翰に重い負荷を与えた。明るく芯の強い厳しさと優しさを持っているはずの黄鈴の態度に、彼女に関する限り厳しく、監視者のような冷酷さを感じる。相翰はそれがどこと無く怖かったし、何か相容れない、異端者のような気配を視線に時折感じる。根本から、異なっている、というような。

 けれどそれは愚かな感慨でもあった。彼女のことがない限り黄鈴は多少しっかりしすぎている感もあるが、普通の少女である。自分がきっと、勘繰り過ぎているのだ。

 あの晩だって、黄鈴は手を貸してくれたではないか。

「姉さん……!」

 月夜の中で女に駆け寄った相翰は、その姿の酷いことに半ば悲鳴に近い嘆息をした。

 ぼろぼろに崩れそうな褞袍わたいれは薄汚れて元の色など留めていない埃色だ。しかもその下に着ているのはごく薄い短袍きもの一枚きり、褞袍と同じく酷い具合。褞袍の方も年月を耐えた布団のようにぺったりとして、とても寒波から身を守れるような代物ではない。

 だが、真に相翰に悲嘆の声を上げさせたのは怪我でもしているのだろうかと見やった足の具合だった。

 一体、どこをどう歩いてきたのだろう。膝から下は一様に黒ずみ、紫色に変色している。慌てて道端に座らせてみれば、更に酷かったのは足裏だった。

 どうしたの、と言う自分の声が苦しく歪んだのを相翰は自覚した。変色しているのは同じだ。但し、こちらは赤い色に一面染まっている。ひび割れ、あかぎれ、癒蓋かさぶたの上を覆う出血と引き剥がされた皮膚──そして、ぞっとするほど冷たい身体。たった今、真冬から現れたように彼女の肌も髪も氷のような温度であった。

 相翰は足から目を背けた。痛々しくて直視できない。姉さんと必死で呼ぶと女は不思議そうな目で相翰を見た。ぽかんとした目つきであった。

 もしかしたら人違いだろうか。面差しは確かに姉だったが、生き別れて既に八年が経過している。違うと強く言われれば同じ強さで否定する自信はなかった。

阿相…相ちゃん…?」

 不意に女が呟いた。相翰は声を上げ、夢中で頷いた。阿相とは幼い彼に姉が与えた呼び名であった。

 姉が怪訝な顔付きだったのは、きっと自分があまりにも成長したからなのだと相翰は思った。蛮族に襲われた時、相翰は僅かに七歳、考えれば年月が自分の上に降り注いだ慈雨のおかげですくすくと育ち、背も声も面立ちも変化しているのだから。

「阿相ね、大きくなって……」

 口をきくのが億劫だったのか、姉はそれきり絶句した。愛しげに細まる目。弱々しかったが、確かに視線はまっすぐに相翰を捕らえていた。

 姉弟はしばらく抱き合った。姉の肌はこちらが痛みを覚えるほどに冷たく、そのために離れなくてはならなかったが、出会えたことだけで満足だった。

「お姉さんなのね……」

 悲痛を押さえたような声がした。相翰は頷き、黄鈴を見た。彼女の表情も姉の身体と同じく凍えていた。

「そう、相翰の、お姉さん……」

 だがその気配は相翰が諦めた再会を果たしたことを喜ぶものではなかった。傷ましげな目をしてたたずんでいる。

「……あのね、相翰。お姉さん、亡くなったのじゃなかったかしら?」

 何を言っているのだと相翰は眉を寄せる。誰一人、姉が死ぬ間際を見ていない。ずっと行方知れずだったのだ。首飾りが帰ってきたところで、蛮族の男が持っていたところで、それが姉の死に直結するものだとは限らない。

 それに、その蛮族が姉の死を口にすることで昔攫った女の面倒を打ち切ろうとしたのだと言う想定を覆すものは何も無いのだ。形見一つで不承不承受け入れた死という言葉を現実が覆してくれたのだ。良い方向に。

 相翰の強い不快の表情に、黄鈴はごめんなさい、と言った。直裁な謝罪を受けて相翰はやや機嫌を直そうとする。黄鈴はその日来たばかりの新人で事情をよく知らない。それに所詮は他人事でもあるのだから、と。

 黄鈴はすぐに思考を切り替えたようだった。どうするの、と聞かれて相翰は何を指した質問なのかを理解できず、何、と返した。

「この人、どうするの。奨善院って年じゃないけど……北に捜われてたんでしょう? あんまり里に受けは良くないわよね……」

 相翰はやや遅れて頷く。

 蛮族に連れ去られた人間はその殆どが帰ってこない。奴隷として扱われると聞いている。が、ごく一握り戻ってくることもあった。自力でどうにか脱出した者──そして、彼等に通じ、新たに襲う村の配置や富の具合を調べるために脱出を装う者。

 蛮族、と相翰は顔を歪める。国境の大河はまだ凍りついていない。馬で渡ることの出来る浅瀬を選んで彼等は来襲し、収穫を終えた村から富をかすめ取り、奴隷を掻き集めていく。それが彼等にとっての収穫であるというように。

 そんな事情で、蛮族の元から脱出してきた人間をそうそう歓迎をしない空気はどこの里でもあった。ここが元の出身の里であったなら緩和もされるだろうが、生憎相翰達の出身はここではない。たまたまこの近くで蛮族の来襲に遭い、行くところが無かったから相翰はこの里に居付いているというのが正しいだろう。間の悪いことに晩秋だ。間諜目的だと言われるのは明らかに思われた。

 黄鈴の言葉は冷静で、的確であった。相翰は身体の力を失いかけている姉を見る。彼女からは血の気も引いているようだった

 放っておくことは出来ない。だが里の施設に預けるわけにも行かない。何かの拍子に蛮族の元から脱出して来たと知れたらきっと悪い方向に事態は転がってしまうだろう。

「どう、しようか……」

 自分の声も、困惑している。いっそ二人で逃げてしまってもいいが、姉の消耗ぶりはひどい。せめて回復するまではどうにかしなくてはならなかった。

「炭小屋は? あそこなら人が行かないわ」

 沈黙を破り、黄鈴が言った。手早くその考えを検証し、相翰は頷く。炭小屋には秋の終わりに買い込む一冬分の炭を入れる以前、殆ど人が寄りつかない。割にしっかりした作りをしており、雨露をしのぐ意味では申し分ないし、若干梁敲の普段寝起きしている講堂からは距離がある。なるほど良い思い付きであった。

 姉が回復したらその先のことも考えなくてはならないが、今はとりあえず彼女の身を安全に匿うことの方が先だった。里人に正直に話しても、良い結果にはなるまい。

 炭小屋に運び入れると相翰は藁で横になる場所を作る。姉を横たえると黄鈴が井戸から水を汲んできて、傷を拭ってくれた。それぞれが寮に戻ったのは大地の稜線が白んできた頃だった。炭小屋を出て相翰は躊躇いながらも黄鈴に声をかけようとする。

 と、黄鈴は振り返った。言わないわ、と低く言われて相翰は頭を下げた。彼の言いたかったことを、彼女は理解し、先回ったのだった。

 そうしてもう十日、姉の状態は良くはない。足の方は未だにじくじくと膿を吐き出し続けているし、何より、殆ど物を食べようとしない。宥めても怒っても、困ったように微笑みながらごめんねと繰り返すばかりだ。

 そして黄鈴は相翰が姉に関わることにあまり良い顔をしなかった。手伝うことと賛成することは違うのよと言われ、どこかにしこりを残したままだ。姉の食事は相翰が自分の分から出しているが、黄鈴は何度も相翰自身がきちんと食事をするべきだといった。頑なであった。

 自然、黄鈴とばかり話すことが多くなった。いい仲などという噂は実際根も葉もないわけではないのだ。実体は全く違うものではあるものの。

「ともかく」

 黄鈴は腰に手を当てて、彼女よりも身長の高い相翰を上目に軽く睨む。そうすると叱られているようだった。

「食欲がないなら、もう体がどうこうじゃなくて心の仕業よ。あなたはよくやってる。出来ることは殆ど全部やっていると思うの。ちゃんと自分のことを考えて頂戴」

 うん、と相翰は煮え切らない返事をした。黄鈴の言うことは判る。相翰が具合を悪くしたら姉の面倒は誰も見なくなる。彼が倒れては本末転倒という事を言いたいのだろう。

 けれど相翰はそれが姉を見捨てることのような落ち着かなさ感じている。それがある限り、黄鈴の忠告を実質無視し続けることになるだろう。

 いいわ、と黄鈴は呆れたように笑った。彼が何を思っているのか、彼女には判るようだった。

「私、行くわね。あんまり時間を無駄に出来ないでしょ。ここの院長ってほんっと、厳しい」

 苦笑し、黄鈴は背を返す。自分を気に掛けてくれたのだと、暫くしてから分かった。

 姉の呻き声がした。相翰は慌ててその前に膝をつく。彼女は元々肌の白い女であったように相翰は記憶しているが、ますますそれはくっきりしていくようだった。……青ざめているのだ。

 相翰は相変わらず夏の沼のようにひんやりした姉の手を取り、さすってやる。こうしてやると彼女の血の気の薄い手に僅かながら戻ってくるものがある気がするのだった。

 寒いね、と相翰は低く呟いた。祥苓は微かに頷いた。彼女はひどく無口になっており、何をするにも気怠げで億劫そうだった。

「雪が降り始めたから、今日はもっと冷えるね……後でどうにかして暖まるものを……」

 言いかけて、相翰は姉の様子がおかしいのに気付いた。さほど血色の良くなかった頬からも完全に血の気が引き、硬直したように肩をいからせている。半分開いた唇が細かく震えているが、声は上げなかった。

 濃い恐怖。煉み上がって声もないのか。姉さんと呼びかけようとした相翰の耳に、祥苓の呻きが聞こえた。

「どこにいるの……」

「姉さん?」

「私はここよ……」

 姉の瞳にみるみる浮き上がってきた涙に、相翰は胸を衝かれて黙り込んだ。

「私を呼んで頂戴……」

 相翰は重ねてどうしたのかと聞き、返答を諦めた。祥苓の瞼がぱちりと瞬きをすると、押し出された涙がぽろぽろとこぼれた。

 どうしていいのか、分からない。困惑したまま相翰は咽び泣く女を直視できずに俯いた。彼はそうした経験を持ち合わせていなかったし、もしあったとしても当惑しただろう。祥苓の涙は誰も寄せ付けない鉄壁の自我でもあり、隔絶された彼女だけの哀しみでもあった。

 相翰は黙っていた。何もしてやれない自分自身をもどかしく、苛立たしく眺めるが、それも解決にはならない。芝居のように劇的に何かが変わる一言を言えるには、まだまだ彼には年月が必要なのだと、そんなことを思った。

 相翰は溜息になった。仕事があるからと口にしてその場を離れたのは、自分がひどく場違いな存在のような気がしたからだ。仕事というのも嘘ではないけれど。

 外はやはり薄い雪が降っていた。相翰は量を見定めようと暗い色の雲を凝視する。今夜は冷えそうだった。


* * *  


 キィという鳴き声がして、それは何処でもない場所から現れた。それは人によってて耳鼠ジソと呼ばれており、鼠とよく似ているが耳は体躯に比して明らかに大きく、鹿のような斑点まだらがある。

 それほど沢山の物も食べず、肉を食わず、特筆するようなことは何も出来ないが、それでもひっそり縄張りを持ち自分の食い物くらいは確保している。

 時折自分よりも逢かに強い存在が現れることもあったし、人の目に触れることもある。耳鼠は生態系の底辺近くに存在しており、時折現れては耳鼠よりも強い存在たちを狩っていく「人」という獣も、力無い故に耳鼠を見逃した。耳鼠は何もかもが半端に足りぬ己を理解してもいた。

 耳鼠はややあってから周囲を見回した。何者かが呼んでいるような気がして大して広くもない縄張りを走り回っていたとき、ふうっと空気の匂いが変わった。目をしばたいた時、それまで自分がいた場所とは何もかも違っており、それが何処だかは分からなかったが、違うことだけ理解していれば十分だった。耳鼠は鼻を鳴らした。浮かれたような気分になった。そわそわと浮き立つような心地の良い匂いがする。放っておけないような。これだ、と吸い寄せられるように匂いの元の方へ寄っていく。この匂いを感じてこちらに来たような気もした。

 耳鼠は喘いだ。近くなるにつれて強くなっていくこの匂い。ふらつく視界も、痺れるような思考も、全てがどうでもいい。この──素晴らしい匂い。うっとりしながら耳鼠はよたよたと匂いの方へ進んだ。前肢も後肢も力が抜けたようであったが、それも些細なことだった。

 芳香といってもよいだろう匂いに釣られるように耳鼠はそちらへむかっていく。「人」の住処は木で周りを囲んであるが、それらが林立する一角から匂いがする。

 行かなくては。行って、この香りに身ごとまみれてみたい。耳鼠はまっすぐに自分の持てる速さで移動しようとしたが、その体が急に支えを失った。キィキィと声を上げる。首後ろの皮膚が捕まれて、つり下げられているようだった。

「人」が何か言った。耳鼠にはそれが何であるか分からなかった。だがそうしなければという強い呪縛に負けて振り返ったとき、射抜くような眩しい光が自分の目を縫い止めたのが分かった。

 入ってくる、何か。打ちのめされる、何か。恐怖というより、は畏怖に似たものに簡単に耳鼠は屈した。求められるまま名を口にする。名を呼ばれたとき──自分がこの「人」を主人とすること、主人の命令には逆らえないことを理解していた。

 それを折伏と呼ぶことなど、耳鼠には関係なかった。


* * * 


 黄鈴は溜息をついた。自分の足下に弱く広がる月光の影に金湖キンコと名付けた耳鼠が潜り込んでいく。小物中の小物で良かった。珍しく愛らしい小動物のような外見をし、性質もおとなしい、愛玩できるほど力のない妖魔で。

(巣が出来かけているな)

 黄鈴の内側に巣食う存在が囁いた。それは年を経て尚若い、重みのある女の声であった。黄鈴は頷いた。

「仕方がないわ……彼はすっかり夢中だから」

(道理を説明してやらんのか。いずれ破滅するのは分かっているだろうに、我が君)

 黄鈴は目をすがめた。苦い顔つきであった。

「私だって今、父さんと母さんが目の前に出てきたらそれが僵尸ばけものだって分かっていても飛びつくわ。同じように匿うかも。だからおだまり。……どうにかするわ」

 黄鈴は苦々しい顔のままで呟き、彼女自身にも芳香として漂ってくるその気配の元へ視線を向けた。

 視線の先にあるのは小さな小屋であった。芳香は強く、最近は小屋を見るだけで虹色の煙を見る気さえする。気配を感じる度に人ならぬ身を改めて認識する、と黄鈴はぬるく溜息をついた。

 それが合図だったように、小屋の扉が開いた。そろりと出てきた人影は用心深く周囲を見回し、足早に他の建物へ去っていく。彼を見送って黄鈴は小屋へ入った。

 中には女の姿をしたものが横たわっていた。美しい女であったことは確かだろう。目鼻立ちの陥隆も、眉の風情も全てが中庸にまとまって欠損のない印象がある。飛び抜けて目を引く顔立ちではないが、小綺麗にまとまっていた。

 僅かに施した化粧は昨晩黄鈴がしたものだ。そうでもしてやらないと、彼はこれに食事を与えることをやめない。これが息絶え絶えという風情なのは食事を摂らないからでも長い距離を逃亡してきたからでもないのだが、彼はこれが自分の肉親だと信じているから切り出しても藪蛇となることは明白だ。正確に言うならば肉親であった、というべきだが説明しても理解をしてもらえるとは思わなかった。

 女は薄目をあけて黄鈴を見た。僅かに瞳に怯えがはしる。宥めるように黄鈴は首を振り、笑みを浮かべて見せた。

「今すぐどうこうはしないわ。相翰が傷つくから」

 女は黙って涙をこぼす。贖罪でも、赦しを乞うものでもなかった。黄鈴は頷いた。

「泣かなくていい。私はあなたの望みを叶えてやりたいと思っているのよ……誰に会いたいの?」

 女はじっと黄鈴を見上げた。黄鈴は女のすがりつく目に首肯してみせた。

「そのかわり、探し出したらあるべき位置に戻るのよ、いいわね。相翰を巻き込んではだめ。あの子にはまだ未来があるんだから」

 女は何度も頷く。黄鈴はそれを見て、女の前に膝をついた。やはり気配で自分が相容れないものだと分かるのか、女は僅かに後じさろうとする。腕をつかんで引き留め、黄鈴は教えなさい、と強い声で言った。

 観念したように項垂れる女の顎に手を掛け、黄鈴は自分の方を向かせる。黄鈴が女より圧倒的に優位であった。

「鬼魅降伏、陰陽和合、急急如律令」きみはこうぶすくべしおんみょうはわごうすべしいそぎさだめのようにせよ

 黄鈴は自分の瞳を通して沢山の物が流れ込んでくるのを感じている。奔流のような情景や言語の渦の中を泳ぎ回るようにして、ようやく目的のものを見つけた。

 女の黒い瞳が大写しになり、吸われるように視界が黒く染まる。一瞬の暗黒は雷光に照らされたように黒白が反転し、浮遊するような感覚が全身を押し包んだ。何かが自分の内から這い出して、その中をまっすぐに駆けていく。

──鳥のような、目線であった。浮遊しているが……視界は不明瞭だ。白い。圧倒的に白い。ちかちか瞬いて苛立たせる。

 雪だ。は突然理解した。雪が降っている。地上のものを塗り潰そうと躍起に激しく荒れているのだ。

 風音が吠える。空気を切り裂くように体をかすめていくと酷く痛い。横殴りの雪だ、風のままに時折渦を巻く雪。

 遠く、細い呼び声に気付いたのはそのときのことだ。ごうごう唸る咆哮の中、弱いが確かに聞こえた。

 見つけた。は呟く。雪の中に何かの強い匂い。暖かな、息づく獣のにおい。餓えを満たし、狩る者としての欲求までも満たしてくれる、軟らかな肉の獣。

 は雪嵐狂う下方へ降りていく。ふわふわした薫香が漂っている。良い匂いだとは陶然となる。この匂いが自分を酔わせてくれるのを知っている。死の近い獣達から立ち上るこの匂いは、まさしく美味快楽の極致に近い。

 どちらだ。どこだ。は探す。風の方向が出鱈目に変わるせいで、特定できない。だが近い。近いのだ、ということは分かる。

 逸る心を抑えるように、はそろりと舞い降りた。こういう時は後に延ばせば延ばすほど、待ち遠しくて楽しい。

 降りた瞬間に、大きな爪に鋭い痛みが走った。それは仰天し、一瞬上へ逃げかける。雪に遮られて劣悪とも言うべき視界の中、ぽつりと赤花が見えた。

 視線ごと、芳香が飛び込んでくるようだった。見つけた。それは歓喜する。しのびよると足跡であった。二本足の獣のものだ。花が開くように雪に落ち、点々と続いている。

 見つけた、見つけた。は何度も呟く。楽しいことがこの先に待っている。がほくそ笑んだとき、声が再びあがった。ごく近くであった。

 苦痛を訴えるような切迫した声が、必死で何かを呼んでいる。名前か? しかし、吹雪の中に誰がいるというのだ。

 赤い花が目印のように殆ど先の見えない世界の中、を案内してくれる。下に降りるとやはり火傷するような冷たさを覚えたから、は地上すれすれの辺りをゆるく飛びながら進んだ。

 見えた。あの獣だ。柔らかくて、暖かな。

 は舌なめずりをする。正直、腹の足しにはなりそうにないが(見つけた獣はとても痩せていた)、雪の中であれば暖かな汁で喉を潤すのがいい。それにあれからはとてもいい匂いがする。視界に捉えただけで浮き立つほど。

 獣が何かを叫んだ。は更に慎重に進んだ。狩りをするときの高揚が久方ぶりで心地よい。嘴をくちばし限度まで開いて飛びかかろうとしたとき、雷鳴のようなものが突然脳天を撲ち据えた。

(おやめ!)

 は体を痙攣させる。声はが従わなくてはならない少女の姿を借りた者の声であった。

(私は心まで人でないものになるつもりはない! これ以上不埓な真似をしたら、お前の使役を打ち切るから!)

 は震え上がる。主人に見放されると言うことは、即刻主人の餌になるということを意味していた。

(お前の力をかっているのよ。さ、おゆき)

 命じられてそれはしぶしぶ小さな獣の姿を追う。二本足は先ほどと同じように名を呼びながら彷徨さすらっていた。投げる視線、伸ばす指先。何かを必死で求め、求め続け、そして何も手に入れられなかったことは永遠に雪の中に佇んでることで分かる。永劫に同じ場所をぐるぐる回っているのだ、これは過去の夢だから。

 がうんざりしかけたとき、主人の声がした。

(これ以上は無駄ね)

 そうだ、とは頷く。戻っておいでといわれて翼を広げ、白い世界を後に飛び立つ。ぐんぐんと上空へ上っていくと、ぐにゃりと体が歪む感覚がした。同時に世界は黒くなり、張りつめたように現実が戻り、ゆるやかに闇に溶けていった。

 黄鈴はふうっと息を吐いた。催黄サイオウは蛛鳥としゅちょういう鳥型の妖魔の一種だが、どうにも制御しにくい。夢に入り込んでは幻や追想の人を食う性質上、過去の記憶を探るにはよいのだが、勝手に自分の楽しみにふけってしまう辺り、まだまだこちらの薫陶も行き届かぬ、ということだろうか。叱ってやるといつも不満げだ。何度言っても懲りない催黄だが、それ故の明るい太々しさが憎めない。それに、おやめと言って従わないこともないのだから。

 さて、と黄鈴は怯えるようにこちらを見上げている女に視線を戻す。元よりこの女には既に実体がないが、それでも記憶と感情をまさぐられて良い気分のはずがなかった。

「ス、ウ、ン? スウン、というのね……」

 聞き慣れない言葉であったが、どうやら人の名前らしい。女はこくこくと頷いた。スウン、と繰り返す真摯で、追いつめられた者の絶望的な目付きが痛かった。

 黄鈴は落ち着かせるように穏やかな笑みを浮かべて見せ、女に目を閉じるように言った。

「気配を立てないで。何も考えないで。スウンは私が探し出してあげるから、安心してここに、何も考えないでおいで。次にスウンの事を思ったらお前は妖魔に食い散らかされて、二度とスウンに会えなくなるわよ」

 恐らく、この女のような中途半端なものが一番たちが悪い。人ではなく妖魔でもない、その希少さ加減が絶妙な芳香となって妖魔を呼ぶのだ。酒に酔う人やまたたびに腰砕ける猫のように妖魔は寄ってくる。彼らにとっては珍らかなものは価値があり、食えば力が増すものなのだ。

 妖魔でないから折伏は出来ない。が、人でないから死ぬこともない。さて、難儀であった。

 この女がスウンを思い、焦がれれば焦がれるほどに執着心は募り、女の気配を強くし、妖魔を呼ぶ。

 妖魔がいずこからか呼ばれてくる空気の歪みを「巣」と呼ぶが、その近くには必ず妖魔を誘うものがあるのだ。例えば、瑠璃や翡翠などの玉石。例えば、この女。

 巣になりかかっている、と黄鈴の内側にいる黄鈴の共棲者は言った。この女の美味そうな気配に大物の妖魔が気付くことはこの村の壊滅を意味する。最初に呼ばれてきたのが耳鼠という小物であったことは幸いであった。

 女が頷くのを見て、黄鈴は腰を上げた。いいわね、と念を押して外へ出る。月は傾きかけているが、夜明けにはまだ早かった。

 黄鈴は深い吐息を落とした。疲労も感じたが、それよりも女の絶望が殆ど呪いのように堅固であったことに、憂愁を覚える。

それを振り払うように黄鈴はみんなおいで、と呟いた。

 少女の足下の影が、ぐにゃりと形を崩して瞬く間に広がった。沼から上がるように影が次々に現れる。妖魔を知っているものがいれば悲鳴を上げるであろう、どう猛な種類、比較的おとなしいもの、大きなものも小さなものもいる。

 それらをぐるりと見渡して、黄鈴は低い声を出した。

「みな、お行き。スウンを探して私の前に連れておいで。もしもこの世からいなくなっていたら、痕跡を持ち帰るのよ。その仕事が終わるまで決して水以外のものを口にしてはならない。誰かに姿を晒してはならない、いいわね」

 返答はない。ないが、影達が土に溶け込むように消えていったことでその了承だった。

 たった一匹、小さな影がのろのろ走り去ろうとした。黄鈴は気付いて苦笑になる。耳鼠は足も遅いし翼もない。遁行は出来るだろうが、かなりの努力を必要とする。

「金湖、お前はいいわ。お前は私の所にいて、時々遊んで頂戴ね」

 耳鼠が返答のようにキィ、と小さく鳴いた。


* * *  


 その噂が聞こえてくる頃、雪は既に回数を数えられていた。時折降りては底冷えする夜を運んでくる。例年は仕事が免除されるから歓迎していたが、今は姉の身体に障らないだろうかと気になって仕方がない。相翰は炭橇すみぞりを引く馬に軽く鞭を当てながら白い息を吐く。

 今年の雪は早い。国境の河はまだ凍ったという話は聞かないが、それも時間の問題だろう。相翰は馬をあしらいながら河の方角を見る。河が凍る。北の連中が取り残されてこちらの蓄えを食いつぶして歩く季節が来る。

 だが今年の噂は多少様子が違っていた。それがどうにも相翰の気にかかる。はぐれたのか最初から何かの目的で渡河したのか、蛮族が一人きりで近辺を放浪しているというのだ。黒毛の見事な馬に乗り、茶色い猟犬を連れているらしい。特異なのは誰を襲うでもなく里をうろついて捜し物をしているらしいということだ。

 相翰は頬にあたる雪を煩わしく払いのけて身震いした。嫌な感じだ。姉が迷い込んできたのが二十日ほど前、そしてそれを追うように現れた、蛮族の男。

 いや、一番気にくわないのは捜し物だという部分か。姉もまた何かをしきりと気に掛けていた。最近は口にしなくなってきたが、忘れているわけでもあるまい。相翰に気を使っているのだろう。

 もっと甘えてくれてもいいのにと相翰は思うが長い間生き別れていたこともあって、感覚がつかめない。それに現在の自分が王朝の保護を曲がりなりにも食うている身で実質稼ぎのないことを思えば、出ていこうという足も竦んだ。

 姉と二人で故郷へ帰ってもいいが、それにはやはり金がいる。奨善院からは労働に応じた金が出るが、小遣い程度の額であったし、少なくとも暖かになって、道々に仕事を探せるくらいの季節でなければ辛い。

 ぴしりと雪がまた顔に当たった。凍えてくると冷たさよりも痛みを感じた。相翰は早く帰ろうと馬をせかす。

 炭小屋を姉に密かに与えている以上、炭の買い出しや中への積み込みを相翰は引き受けざるを得なかったが、それでも良かった。暫くは炭小屋の近辺をうろつくことに理由が出来るから。

 帰ったら早過ぎない程度の効率で荷入れをしなくてはならない。雪は辛いが、それを理由に積み込みを遅らせることが出来るなら、災い半分幸福半分といったところだ。

 が、厳しい寒さの中の作業が辛くないわけではない。それを思って相翰が溜息をついたとき視界の隅に寄せ集まったような小さな集落と、その周囲の隔壁が見えた。

 相翰は早く里に入ろうと更に馬へ軽く鞭を当てた。

 だが、近づいて行くに連れて里の様子がおかしいことが分かった。雪が降りては止む季節には、里人は殆ど外に出ない。雪と土の色が斑になって大地を覆っている。が、今決して広くはない路を埋めているのは里人だった。

 里に入ると、何が起きているか一目で分かった。人々が近寄りすぎないように取り巻いている男は騎乗しており、彼らよりもずいぶん高い位置に身体があったのだ。

 獣皮の腰巻、毛皮に覆われた大袴に靴、やはり獣の皮の肩抜き。鹿皮の胸あてと揃いの手甲。背中に負ったのは大弓、矢筒には精緻な刺繍が施されている。相翰は、その姿をまじまじと目にするのは初めてであった。

 蛮族だ。黒い馬に茶色い犬。精悍な顔立ちをした三十手前くらいの男だった。男として練れた表情は、敵意で取り囲んだ村人達を怯まず睥睨する図太さの証だろうか。

 相翰は人垣から離れた場所で橇を止めた。噂で聞いた蛮族だろう。捜し物が何か、ここから聞けるかもしれない。

「そんな女は来とりゃあせん」

 どこかから老人が答えた。女と聞いた瞬間、相翰の頬に血が上った。動悸の度に頭がずきずきする。男はそうか、と軽く頷いた。

「来ていないのならいい。邪魔をしたな」

 男の口から流暢な言葉が流れてきたことに、相翰は驚いた。蛮族と言うからにはこちらの言葉など解さないのだと半ば当然のように相翰は思ってきたのだ。

 皆、多かれ少なかれ蛮族の驚異に怯えている。彼らは奪うとき容赦なく、奪わぬ時も苛烈であった。

 男は馬をゆるく進めた。次の里へ行くのだろう。相翰は彼が深く追求もせずにこの里を去ろうとしていることに、深い安堵を覚えた。彼の探している「女」が姉のことであるという確証はないが、時期と状況が似ている以上は楽観して良いものではなかった。

 船が波を割るように、人垣がさっと引いた。男はきつく唇を引き結び、自然に背を伸ばしてその中を歩いていく。その目が不意に自分に向けられて、相翰はたじろいだ。

「……何、だよ」

 意地でそれを睨み返しながら相翰は辛うじてそれだけを言った。男は少年の意気地を見たのか、薄く微笑んだ。

「女を捜している。名は祥苓、子を連れている」

 ずきんと胸が刺された。男は姉を捜しに来たのだ──相翰は黙り込んだ。震えても、青ざめてはいけない。違うと口にしたところで、庇っていますと言うようなものだ。

 干上がったように言葉の出ない口を諦め、相翰は黙ったままで首を振りかけ、付け足された言葉にふと瞬きした。

 驚愕はゆるやかにやってきた。子供、と聞き返す。すぐに相翰はしまったと舌打ちをしたくなった。

 慌てて目を伏せたが遅い。男は相翰の仕草に今までと違うものを感じたのだろう。騎馬を相翰の橇の近くへ寄せた。

 見上げる男は大きかった。激情を含まない、淡々とした色合いの目が逆に怖い。脅されているわけでもなかったのに、視線が圧力のように感じた。負けまいと相翰は視線に必死で力を入れる。

 男はふっと笑った。先と同じように、相翰の意地を察しているのだろう。騎乗から身軽に飛び降りたのは、それに対する彼なりの返答だったのかもしれない。

「見たことがあるなら教えて欲しい。河が凍る前に、俺は二人を連れて戻らなくてはならないのだ」

 信じられない悪夢の中を逃げるときのように、頭の中を何かがぐるぐる走り回っている。姉、子供、追ってきた男。一つの線で簡単に結ぶことが出来る。

 相翰は視線を男の靴へやった。革で作られたそれは、よく水を弾くようにと油が塗られている。が、その鈍い光は薄かった。長い間、男は二人を捜しているのだろう。

 相翰が黙っているのを何と思ったのか、男は妻と息子だ、と付け加えた。一瞬相翰は貫かれるものに命じられるように、きつく目を閉じる。

 耳の奥から木霊のように繁鳴していた蝉の声が沸き上がってくる。たった一人の庇護者を呼ぶ、子供の声と。

「……その人かどうか、分からないけど」

 呻いた声は、自分でも驚くほど平静だった。

「もう十日くらい前だけど、夜中に、西から来て、北の方へ行く女の人は見たよ……子供の手を引いてた……」

 方角を示すように、相翰は指で流れを沿ってやる。蛮族の男の目がきらりと光ったようだった。

「十日くらい前、か」

 男は呟いた。簡単な礼を示しているのか、相翰の前で不思議な仕草をする。相翰は俯き加減に頷いた。

 男は再び騎乗した。自分と相翰を遠巻きにしていた人々をちらとも見ようとせず、相翰の指した方角へ進んでいく。僅かに振り返ってペクーと呼んだ。犬が尻尾を振りながら主人の後に続く。

 やがてその姿が隔壁の向こうに消えると、その場にいた人々が一斉に安堵の吐息を漏らした。里全体が溜息をついたようだった。

「おう、相翰。その見たって話は本当か」

 里人に言われて相翰は首を振る。

「杷遼から出ていって欲しかっただけだよ」

 そうかと男は安心したように笑った。

「彼奴らァ、こっちのことを麦か米かと思ってるのさ。収穫が終わったばかり、襲われちゃあたまらねえ」

 そうだと賛同の声が上がる。

「ここから北だったら実りは少ないだろうさ。だが、玉やら金やらが大量に採れるって話じゃないか。それを持って米を買いにくるならわけてやるのに」

「俺達は放牧してる羊みたいなもんなんだろうよ。家畜と取引なんぞするものか」

 ああ、と漏れた悲痛の溜息を聞かせてやりたいと相翰は思う。誰かが言ったとおり、彼らの土地には土地なりの豊かさがあり、決して生活が出来ない訳ではないのだ。

 杷遼郷は国境の河に近い土地柄、今までも何度か襲撃にあっている。相翰がこの土地に来てからも一度、あった。彼らは奨善院には目も呉れず、携帯のし易い宝物だけを狙ったから相翰達は無事を得たが、里の中は酷いものだった。思い出すだけで、吐き気がこみ上げてくるほど。

 相翰が顔をしかめたのを、側にいた男が気付いた。相翰が蛮族の略奪にあって身寄りを失った子供であることを知っていたのだろう、大丈夫だと太く笑う。

 笑い返し、相翰は馬を出した。あまり遅くなると梁敲が苛立つし、姉の事も心配だ……それに、子供。

 相翰とて既に男女のことは知る年齢であった。拉致した挙句に子を産ませることが、どれだけ姉の負担だったろうか。……その子供はどうしたのだろう。

 厭な空気だった。それを押し出す為だけに相翰は曇天を見上げる。吐息はすぐに拡散し、後には降り来る雪だけが残った。

    

* * *  


 祥苓はいつものようにうずくまっていた。黄鈴から与えられた「考えるな」という呪縛はひどく居心地が良かった。

 考えなくてすむというのなら、全ての記憶を捨てて弟の手を引きながら山道を歩いた夏まで戻りたかった。

 沢山のことがあった。厭なことの方が多かった。けれど、それ以外を知ることもあったのだ。

 ──素蘊。ああ、いけない。考えるなと言われたのに。祥苓は必死で潜り込めそうな幸福な記憶を探す。子供時代のことはぼんやりした幕の向こう側の、明るくふわふわした雲だ。実体があるようで、近寄ればつかめない。

 両親が死に、弟が残され、緩り付いてきた弟の手を必死で握ってやった頃のことは地味で暗い色合いをしている。他に寄る辺がなくて全身で頼ってきた弟の、切羽詰まったような目。あの目が祥苓を奮い立たせ、鞭打ち、苛立たせては哀しくさせていたが、弟の存在がまた、自分を保たせていたのも事実だった。

 北へ拉致されてからのことは、思い出したくない。辛いことばかり、あったから。でも……

 考えるな、という声がする。ここから先は禁忌らしい。祥苓は指をくわえて引き返す。黄鈴の言った「二度と素蘊に会えなくなる」は彼女にとって決定的な脅迫だった。

 寒さも痛みも、時間も感じない。永劫とじた輪の中を巡っている苦痛だけがする。見えるものは雪ばかりで、聞こえるものはその荒れる音ばかり、他には何もない世界。

 手を伸ばしても何もなく、声を上げても何も返らない。閉じこめられたような空間の中で、ある時不意に自分を呼ぶ声がした。誰かが呼んでいる、というだけで十分だった。そちらの方へふらふら歩いていくと、急に視界が晴れ、雪怨の闇から月夜の闇へ、さまよいでていたのだ。

 だが、それが弟だと知ったときに胸に走ったのは身をこじり寄るような怒りと落胆だった。相翰は大切にしてくれる。悪いとは感じている。自分に関わって良いことなど、何一つないのだ。

 どうしてこんなことになっているのだろう。祥苓は閉じた目から涙が零れ出すのを感じた。

 ごめんね。

 祥苓は心で呟く。弟は必死だ。あのころと何も変わっていない。祥苓の手を離すと死んでしまうと思いこんでいる頑なさは、今、祥苓を見捨てれば自分も死んでしまうという考えにすり替わっているだけに過ぎない。

 微かな苛立ち。あの子はいつもそうだ。こうと決めたら現実がどうであれ、絶対にそれ以外を認めない……

 祥苓は藁に身を埋め、そんなことを思う。相翰の強い思いがこの場所に自分をしばりつけているのに彼を責める気持ちが沸かないのは、相翰がそれでも自分にとって赦すべきものであるからだろう。弟は弟だ、何歳いくつになっても。

「仕方のない子……」

 何かにつけては姉ちゃんと泣きながら呼ぶしか出来なかった、小さな唇。自分のうわぎすそを堅く握りしめすぎて、開かせると真っ赤になっていた小さな手。そんなものを思い出せば、いとおしい。たまらなく。

 祥苓は微かに唇をほころばせた。

 黄鈴は時折現れて祥苓にとって唯一の回復となるを注いでくれた。少女は相翰を哀れんでいるようだった。そんな気配がする。自分一人だったらとうに消滅させられているかもしれないと祥苓は思い、複雑な感想を抱いた。

 正直、祥苓はどちらでも良いのだ。魔となって弱肉強食の輪にはいるのも化物となって灸られるのも、どちらでもいい。行く末に興味はない。

 ただ、心残りが自分を責め苛むだけで。

 素蘊。いけないと知りつつ祥苓はぼんやりその名を反芻する。考えるなと言う制約のせいか、名を呟こうとするだけで身体が芯から冷えた。彼女の呪縛は完璧だ。文字通り、禁じられている。

 だから別のことを思い出す。だが祥苓の世界はそれほど広くない。人生とて長いとは言えなかったが、後半は墨をぶちまけたような真闇、何も見えないし、見たくなかった。

 疾風、悲鳴。人形が倒れるようにころりと転がって動かなくなった弟──もう死んだのだと思っていた……彼らの行く先に上がる煙、絶叫と喧噪、自分の上げる悲鳴。何度隙を見て逃げ出そうとしただろう。

 捕まる度に酷くなる折檻に耐えかねたのか、渡河した時に抱いた隔絶された世界へ行くのだという絶望が自分の中の支えを砕いてしまったのか、彼らの領域に入ってからは祥苓はめっきり大人しくなった。言葉が分からないのも怖かった。が、内側に蓄積されていくものはあった。

 祥苓の強情さに手を焼いたのか、彼女をさらった男は祥苓を身売りの市場に立たせた。硬い表情で俯いた女は目立たなかった。売り主は彼女を殴り、つねってどうにか視線を上げさせ笑わせようとしたが、祥苓は従わなかった。何処に行っても同じだとしか思えなかったからだ。地理も言葉も全くわからない。

 豪族の奴隷か、それとも妾か。だが女中頭や富豪より先に自分の前に現れたのはあの男だった。

 前に誰か立ったのは分かったが、祥苓は顔を上げようとはしなかった。売り主は小突いたり揺さぶったりして顔を上げさせようとしたが、祥苓は殊更頑なであった。

 それでも売り主と客は暫く話をしていた。不意に声が聞こえたのは、かじかむ指先を必死で揉んでいた時だった。

(女、お前は、南の女だな)

 祥苓は驚いて顔を上げた。それはややぎこちないが問題なく通じる種類の漢語であったからだ。

 そこにいたのは期待したような母国の男ではなく、やはり蛮族と呼んでいる彼らの同類だった。苦い失望が沸いた。

(字は読めるか)

 言われて祥苓は頷いた。詩を吟じるなどということは出来ないが、親が蔵書家だったこともあって、簡単な小説くらいなら読むことが出来た。

 男は頷き返し、祥苓の後ろに立つ売り主に向かって何か言った。二人のやり取りはそれほど長くなかった。後で男が掘り出し物だと喜んでいたところを見ると、売り主は早く祥苓を処分してしまいたかったようだ。

 男の家は市場から離れた草原の、部族の里にあった。異国の女は祥苓一人だった。男は祥苓の国の文化に関心があるようだった。略奪の過程で手に入る本を彼らは殆ど焼き捨ててしまうが、この男はそれを何冊か所蔵しており、そして自嘲気味に字は読めないのだと笑った。それで祥苓は自分がこの男の漢語の教師に買われたのだと理解した。

 本を読み、字を教えた。男が自分の言うことを飲み込もうとしているのは滑稽であったが真摯でもあった。

 一年ほど経って男が祥苓を無理矢理自分のものにした時祥苓は泣いたが、男の言う宿定とやらを諦めと共に受け入れ、夫婦となった。そのままこの北の果てで生涯を終えるのかという思いは寂しかったが、子供が産まれてみれば日常は悪くなかった。不満はあったが不足はなかった。

 かの国には、もう自分の帰る場所がない。弟が生存しているのを祥苓は知らなかったし、両親はいなかった。頼って行くはずだった祖父も、年齢が年齢だけにつてとするにはあやしいし、他の身よりもいない。

 もう帰る場所がないのだと思えば、再び諦めに似たものが自分を支配するのが分かった。男は彼らの流儀の通りに祥苓から見ればずいぶん粗野であったが、努めて祥苓の語る「文化」に耳を傾けようとした。それでとりあえずは満足するべきであった。

 男は部族の習俗に従って時折長く家を空けた。帰ってくるとき、大抵上等の絹や美しい宝玉のついた装身具を祥苓に注いだ。それがどうやって男の手に入ったのか、聞かなくて良かった。

 行かないで欲しいと何度頼んでも、彼はその意図が分からないようだった。そのことを言い募り、理解されずに泣く夜は長く、北に連れてこられたときから胸の底に堆積し続けているものがまた少し重くなった。

 男は生まれた息子をよく愛した。祥苓もそれまで以上に大切に扱おうとした。不満も不服も全くないというわけではなかったが、不足はなかった。けれど。

 祥苓は閉じた瞼の裏で泣く。

 時折それは不意打ちにやってきた。息子に寝かしつける歌を口づさんでいるとき、本の整理をしているとき、縫い物をしているとき、そして炊事をしているとき。心の中に高く降り積もったものが前触れもなしに崩れて、山積していた埃が舞い上がるように欠片が喉に張り付く。

 それを口にしてはならないことは分かっていた。ずっと、ずっとずっと我慢してきたのに。でも。

 祥苓はうずくまったままで喘いだ。それは夢だったのに叶うと信じてしまった、自分が愚かでした。もう分かった、よく分かりましたから……西王母さま。

 祥苓は彼女の神に祈る。

 神様──どうか、あの子をお助け下さい……


* * * 


 梁敲に戻ったことを告げて釣り銭ごと財布を返し、相翰は炭小屋へ向かった。雪はやみ加減だったが、明日からでも早速中へ積み込めるように側に牽引しておくのは悪くなかったし、姉の様子も気になる。

 いや、一番気がかりなのはあの蛮族の男のことか。祥苓は長く北へ連れ去られていた。その間の事は、何も語ろうとしない。忌まわしい記憶だろうからと相翰は単純に納得してきたが、本当にそうなのだろうか。

 子供のことも。祥苓は現れたときから誰かを捜していた。それが子供だとするなら話は合う。隙を見て、子を連れて逃げ出してきたのか。蛮族との間に出来た子でも、自分の子であるなら可愛かろうということだろう……か。相翰には分からない。

 多少気は重かった。男がこの辺りへ来ていることを告げるべきか否かも判断しかねた。今夜辺り、黄鈴に相談してみるのがいいかもしれない。

 そんなことを考えて、相翰は苦笑になった。年下の少女を頼る自分も相当おかしな事をしていると思うし、黄鈴は黄鈴で、それを受け止めるほど大人びた表情をする。彼女と話していると時折、姉がずっといてくれたらこんなだったろうかと思うことがあった。本当に、こればかりは自分でもおかしなものだと思うのだが。

 炭小屋の辺りまで来て、相翰はすぐにそれに気付いた。赤子がどこかで泣いている。

 おかしいな、と相翰は首を傾げた。今この院に乳児はいない。一番小さい子供でさえ四歳、こんな風に庇護を求める泣き方はしない。捨て子だろうかと相翰は思った。奨善院に子を捨てていく親がいないわけではない。どこだろうと相翰は周囲を見回し、炭小屋の奥辺りの藪に目を留めた。音の方向はその辺りからだ。ひいてきた橇と馬を取りあえず炭小屋の前へ放置し、相翰は声の元へ向かった。

 藪をかき分けようとすると、不意に声がやんだ。相翰は怪訝にその奥を見据える。確かに声がした気が、と首を傾げながら戻ろうとする。

 その目に一瞬白いものが映った。相翰はそちらを振り向く。藪がゆれて、出てきたのは一匹の山羊だった。どう見ても山羊……と思ったのは僅かの間で、どこか違和感を覚えてよく観察すれば、角が四本ある。通常は二本だから、不思議なものだった。

 相翰は何だよ、と気抜けして笑った。野良だろうか。奨善院で飼ってもいい。乳が採れるし、子供は喜ぶだろう。

 相翰はその辺りの草を適当にむしって山羊へ投げるが、山羊はつまらなそうに匂いをかいだだけで、鼻面でそれを押しやった。相翰は苦笑する。やれやれと肩をすくめて相翰はもう一束投げてみるが、やはり同じ結果だった。

 不思議に目をしばたき、相翰は山羊に向かって怖がらせないようにゆっくり進んだ。連れて帰りたいと思ったのだ。

 不意に山羊は顎を落とした。笑うような表情だった。

 相翰は気味の悪い感触に押されて立ち止まった。山羊はじっとその場で彼を待ち受けているようだった。

 見えない風が吹いたように、相翰の足が鈍った。山羊の目がじっとこちらを見据えている。目が赤い。……血のように、どす赤かった。

 山羊が笑うような表情のまま声を上げた。それが先ほど聞きとがめた赤子の声とそっくりだということに、一瞬遅れて相翰は気付いた。

 足が止まり、押し返されるように後ろへじりっと下がった。山羊はその分だけ間を詰めた。相翰は駆け上がってくる恐怖を押し殺しながらじりじり下がる。山羊は再び笑うような表情になった。

 ああああ、とその口から赤子の声が聞こえた。相翰は背を翻した。一瞬遠ざかった泣き声が、突然目の前に現れて息をのむ。悲鳴はあげなかった。出来なかったのだ。

 山羊がにたり笑いのまま相翰にすり寄ってくる。得体の知れない恐怖に突き動かされて、相翰は咳き込んだ。足というより身体全体に力が入らない。この山羊が何であるのか分からないが、とにかく逃げなくてはと本能の部分がけたたましく叫んでいる。

「伏せて!」

 突然の声に相翰は反射的に従った。山羊が相翰に突っ込んでくるのと同時だった。山羊は彼に飛びかかったつもりで相翰の背後の木立に身を打ち、声を上げた。

 赤子の声に龍もる怨嵯に相翰は震える。怖かった。

「こっちよ、はやく!」

 声のする方向へ藪をかき分け、転がるように走った。炭小屋へ抜けたところで黄鈴が相翰の腕を掴み、小屋に入りなさい、と強い声を出した。

「君は」

「あたしはいい、早く!」

 叱られて相翰は咄嵯に首を振る。少女に押しつけて逃げる真似は出来ない。そんな思考をすぐに見抜いたのか、黄鈴は笑った。胸を衝かれるほど寂しい笑みに見えた。

「大丈夫、あたしは慣れているの。妖魔にね」

 でも、と言いかけたとき、山羊の唸りが聞こえた。赤子の声が何かを呪うのが酷い恐慌を巻き起こした。山羊がようやく体勢を立て直す。

 相翰は慌てて黄鈴の袖を引いた。黄鈴はそれを煩わしそうに払いのけ、カオウ、と叫んだ。

 山羊が怒りを目に燃やしながらこちらへ突進してくる。爛々と光る目つきに宿る凶暴な意志に相翰は喘いだ。恐怖というには遙かに強いものであった。

 黄鈴が何か叫んだ。その瞬間、黄金の炎が周囲で爆裂したようだった。ものすごい光と熱に相翰は思わず目を庇う。蒸されているように暑い。

 黄鈴、と呻くと我慢なさいという声が叱りつけてきた。相翰は呼吸を荒くつきながら目を押さえ、膝をつく。瞼の裏を光線が焼く。時折火が爆ぜるように強くなり、弱くなり、やがて流れが緩やかになって相翰は目を開けた。

 山羊の姿はなかった。影だけが残っている。

 黄鈴は軽く息をついて、間が悪いわね、と呟いた。それが何を意味するのか分からずに、座り込んだまま相翰は黄鈴を見上げる。相翰の真横にだらりと垂れてきた右手の甲に、赤く斑紋があった。

 相翰は僅かに目を見開く。赤い発疹のようなものは明らかに文字を形作っていたのだ。鬼、と読めた。

「黄鈴、その手……」

 呟くと、黄鈴はそれをああ、と軽く流した。

「すぐに消えるわ、放って置いて」

 聞きたかったことと微妙にずれた返答に、相翰は彼女が返答を柔らかく拒否したのだと知った。聞くまいと相翰は決めた。何にせよ、彼女に助けられたのは確かだ。

「それより大丈夫? 怪我は……なさそうね」

 相翰は頷いてみせる。黄鈴は唇だけで笑ったが、目線にはまだ緊張が残っている。油断無く周囲を見回した。

「さっきのは……」

 相翰が言いかけたとき、しっ、と吐息で叱りつけられて黙り込んだ。異変はすぐに分かった。再び遠い場所から赤子の声が激しく泣き立てているのが聞こえてきたのだ。

 相翰はごくりと唾を飲んだ。これは異常な事だとしか分からなかったが、それで十分だった。蛮族に襲われたときのような理不尽の風の生温い気配がする。

 声は幾重にも聞こえた。遠くのようであり、すぐ近くのようでも、右からのようで左からのような気もした。位置が掴めない。相翰は怯えて後ずさる。得体の知れない、正体の見えないものはすなわち未知であり、未知はすなわち恐れであった。

「小屋へ入りなさい、早く」

 黄鈴が素早く言い、再びカオウと叫んだ。相翰は素直に従うことに決めた。黄鈴はこの事態のあしらいを十分心得ている。自分はきっと足手まといなのだ。

 相翰は身を返す。小屋へ走り込もうとしたとき、自分に向かって黒い風が飛びかかってくるのを目にした。

 反射的に飛びすさった相翰の眼前を、炎の柱が焼き払う。過剰な眩しさに目を細めるが、歪む視界の中で黒い犬が絶叫に口を開いてゆら消えたのが見て取れた。消し炭のようなものがぽとんと軽く落ちる。

 相翰は黄鈴を見る。彼女は既に相翰を見ていない。まっすぐに走っていく方向に奇妙な生き物がいた。猛禽類のような頭部に獣のような身体、太い翼──妖魔。やっとそれだけが浮かんだ。

 華奢な身体が妖魔の鋭い爪をくぐり、黄金色の光線と共に全てを焼き払っていく。妖魔を専門に狩る人々、封魔士というのがいると聞いたことはあるが、黄鈴はその筋であるようだった。それにしては年齢は若いが、そんなことは現実の前では些細なことでしかない。

 黄鈴の背後から妖魔が爪を振り上げる。黄鈴、と相翰は叫ぶ。少女はくるりと反転し、紙一重でそれをかわした。

 黄鈴が妖魔の懐へ身体を滑り込ませ、手を押し当てる。触れた箇所から溢れる光の輝かしさに、相翰は一瞬我を忘れそうになる。黄昏時の黄金に似た、美しい色合いだった。

 妖魔が絶叫した。それさえ子供の声であった。そのおぞましさに相翰は顔を歪めた。

 黄鈴の背後から妖魔が蹴爪を振り上げる。黄鈴と叫ぼうとしたとき、不意に妖魔が振り返った。風を裂く音がした。

 相翰ははっとする。先ほど里で見かけた蛮族の男であった。彼の連れた犬がしきりと吠え立てている。男は背の矢筒から新しい矢を取り出してつがえ、妖魔に向けて放った。矢は過たず妖魔のがっしりした肩に当たり、跳ね返されるように落ちた。男が瞠目するのが見えた。

 が、妖魔の気が逸れたことで黄鈴には十分だった。目の前の妖魔がまず消し飛び、ついで最後の妖魔もそれに続く。血の臭いさえ残らない、完璧な消滅であった。

 相翰は脱力し、ずるりと座り込んだ。妖魔というものを初めて見たし、今自分が生きていることが信じられないほどの数であったことも確かだ。危険が去ったのだと認識した途端、震えが来た。呼吸が荒く、険しくなってくる。相翰は震える手で自分の胸倉を掴んだ。そうでもしないと、子供のように泣き出してしまうような気がしたのだ。

「ありがとう、助かったわ」

 黄鈴の声がした。相翰は顔を上げる。黄鈴はまっすぐに立っていて、もちろん相翰に言ったのではなかった。いや、と蛮族の男が首を振るのが目に入った。

「あれがお前達の言う妖魔というやつか」

 そうね、と答える黄鈴の顔は背を向けているために見えない。だが苦笑しているのは声音で分かった。

「普通の武器は効かないのよ。射てくれたからわりと簡単に片が付いたのだけど、次に遭遇したら逃げる事ね。悪いけど、普通の方法で普通の人に倒せる相手ではないの」

 忠告なのだろう。男は曖昧に頷いた。

 それから彼の目線が自分に動いてきたのを知って、相翰はやっと己を取り戻した。里を出ていったはずだ、という記憶が怒りに変わり、彼を睨ませる。男は相翰を見、そしてその後ろの炭小屋に視線を移した。相関は心臓が大きく音を立てたのをきいた。

「少年、祥苓を知っているな」

 息苦しいほど心が張りつめるのが分かった。相翰はやっと首を振るが、男はそれを一笑に付した。

「嘘をつくな。お前は祥苓に似ているし、第一、俺の子はまだ一歳になったばかりで歩けないのだ」

 相翰は返答に詰まる。そこだな、と男が足早に炭小屋へ歩き寄ってくる。力の戻りきらない下半身を叱るようにして、相翰は立ち上がった。

「駄目だ、姉さんはもう北になんか戻らない! 嫌だから逃げ出してきたんだ、違うのか!」

 男はむっと機嫌を損ねたようだった。そんなはずはないと吐き捨てる。

「祥苓は俺の妻だ、俺に不服があるなら言ったはずだ。それにあれはスウンの母で、スウンを十分に愛していたし可愛がっていた。お前は何も知らぬ、とやかく言われる筋合いなど無い!」

 相翰は男を睨むが、男はそれに構わず相翰の肩を押しのけて炭小屋の扉を開いた。やめろ、と飛びついた身体から投げられて、軽く相翰は地に転がる。男は弓を背負い直しながら奥へ入っていった。相翰は後を追う。

 姉は不意の闖入者に気怠く目を開け、微かに震えて凍り付いた。元より血の気の薄かった顔から、見る間に表情が消えていく。相翰は身を起こし、男と姉の間に入ろうとした。姉の怯え方が痛々しく、見ていられなかった。

 そちらへ行こうとした腕が掴まれて、相翰は振り返る。黄鈴は首を振り、駄目よ、と付け加えた。

「夫婦には夫婦の話があるの。他人が入る事じゃないわ。話をさせてあげましょう、ね」

「だってこいつは姉さんを……!」

 黄鈴は首を振る。相翰は焦れて奥歯を噛みしめた。

「来ないで……」

 姉が振り絞るような声を出した。声の低い切迫に、相翰は微かに眉を寄せる。こんな声を出すのを知らなかった。

 男も同じものを感じ取ったのだろう、歩みを止めた。祥苓が来ないでと繰り返した。

 祥苓、と宥めるような声で男が言った。

「何が気にくわなかったのか知らないが、お前の話を聞くと約束する、祥苓。だから河が凍る前に帰ろう、スウンも一緒に。あれは何処だ、お前が抱けないなら俺が背負う」

「いやよ」

 全てを拒否する、冷たい声であった。外の空気よりも風よりも、雪よりも温度がなかった。

「私、絶対に、帰らない。絶対にいや。いやよ。いや」

「我が侭を言うな、大体お前も動ける身体ではないはずだ」

 祥苓は激しく頭を振った。男は姉を優しく呼んだ。彼が妻の気分を落ち着かせようとしているのは確かだった。

「お前が俺を野蛮人だと蔑んでいたのは知っている。お前達の文化とやらからすれば俺は確かに外れているだろう。だが、スウンのことをお前が愛おしんでいたのも知っている。そしてあれは俺の息子で俺達の部族の子供だ。こちらでは生きてゆけぬ。父親がお前達が蛮族と呼んでいる俺であれば、お前もスウンも生きにくかろう。帰るのだ、祥苓、我が妻よ。スウンを連れて逃げたのもお前がスウンを愛しているからだ、そうだろう」

 祥苓の返答はない。肩を震わせて俯いている。泣いているようであった。相翰は姉の側に駆け寄ろうとした。それを黄鈴が止めた。やめなさい、と強く言われて唇を結ぶ。

 相翰の苛立ちを敏に感じたのか、男は振り返ってゆるく首を振った。やはり部外者と言われているのであった。

「姉さんはお前達に連れ去られたんだ、お前達のしていることが立派だと思っているんだったら大間違いだ! 蛮族、姉さんは帰りたくないんだ、お前が一人で帰ればいい!」

 男は薄笑いを浮かべた。それは彼が先ほど里人達を馬上から眺めおろしていた目つきとよく似ていた。

「勇ましいことだ、少年。誇り高きオウルーの戦士によくも言ったな。だがお前の姉は俺の妻で、何より俺の息子の母だ。スウンがいる限り俺と祥苓は夫婦だ。それが掟でもあるし、自然なことでもある。違うか」

 違う、と相翰は言いかけた。やめたのは、相翰の声を遮るものがあったからだ。それは、甲高く笑う女の声だった。相翰も、そして男も飲まれたように呆然と声の主を見やった。黄鈴だけが苦い顔をしていた。

「スウンがいる限り夫婦ですって? だったら私とお前はもう夫婦ではないわ! スウンはもういない、この世の何処を探してもいないのよ! 越境の河を渡る時に捨ててやったもの!」

「……祥苓」

 男が呻いた。相翰も言葉を失った。何を言っていいのか分からない。男は僅かに唇を震わせながらそれでも言った。

「しかし、お前は、スウンを可愛がっていた……」

「馬鹿ね! 憎い男の子など愛せるはずないでしょう!」

 姉が白く細い首をのけぞらせて笑うのを、相翰は呆然と見やった。生き別れた後の姉の人生を垣間見た気がした。

 血を吐くようなつらさを。

「スウンを連れていったのはお前に絶望を味あわせてやるつもりだったからよ! 私がどれだけお前を憎んでいたか分かる? 分からないくせに! 私はお前が持ってくる絹も首飾りも何もかも、大嫌いだった!」

 男は黙っていた。祥苓は荒く息をつくと、両手で顔を覆った。静まり返った小屋の中で、すすり泣きだけが響いた。

「お前が私を無理矢理抱いたとき、私は死んでしまいたいと思ったわ……でも生きていたのは憎いからよ……憎い、憎い、復讐してやる、酷い目に遭わせてやる、呪ってやる、恨んでやる……お前だけじゃなくて、お前達蛮族全てを呪ってやることが私の支えだった……」

 姉の肌がついに紫色に薄く染まり始めた。血の気が引きすぎて、もう白いとさえ言えないのだ。

「だから、スウンを連れ出したのよ……お前がスウンを可愛がっていたから……あんな子、ちっとも可愛くないわ。お前の子ですもの、大きくなったらきっと馬に乗って弓を引いてこの国を略奪してまわったわ……だから、死んで良かったのよ、死んだ方が良かったのよ……」

 祥苓と男が低い声を出した。震えているのは恐らく怒りのためだった。

「俺が憎ければ憎めばいい、俺達を呪いたければそうすればいい。だが、スウンは赤子だ。あれはまだ一人で歩くこともできないのだぞ。お前のいう蛮行に加わったこともない子供に何の罪があるというのだ!」

「あるわ! お前の子であるという罪が!」

「やめなさい!」

 りんとした声が響いた。相翰は横を見る。黄鈴が苦い顔のまま、佇んでいた。

「二人ともやめなさい。こんなことを言い争ったってスウンは帰ってこないわ……分かっていたのね、あの子がもう死んでいると」

 話しかけられた姉はがくりと項垂れた。細い首が支える頭が重そうに揺れる。ごめんなさい、と呟いた声が何を謝っているのかは分からなかったが、黄鈴は軽く頷いた。

「いいのよ、それは分かっていたから……あの、夢を見せてもらったときに。だから、つまらない意地を張らないで。あなたの言いたいことはもっと他にあるのじゃない? どうして戻ってきたの? 無茶だって分からなかった訳じゃないでしょう?」

「……私」

 姉が喘いだ。一瞬その姿がぶれたように見え、相翰は目を疑う。黄鈴は立ちつくしている相翰と男の間をすり抜けて、姉の側に膝をついた。姉が赦しを求めるように黄鈴を見上げた。縋り付くような目だった。

「帰りたかったんじやないの?」

「ええ──そう、そうね……」

 瞬く間に姉の相眸にせり上がってきた涙に、相翰も言葉を失って男同様に棒立ちになる。姉は再び手で顔を隠した。そうすると、それが姉ではなく知らない女のように見えた。

「帰りたかった……一目でいいから故郷を……」

 熱のうわ言のようだった。

「帰りたかった、帰りたかった、帰ってきたかった……」

 それしか言葉を知らないように繰り返す祥苓の細い声。可哀相だ、と相翰は口の中で呟いた。あの夏の山道で、姉は何と多くのものを失ったのだろう。喪失を取り戻したいと願った結果がこれ。再び戻ってきたとき、姉は今までよりも更に大きなものを失ってしまったのだ。

 帰りたかったんだね、と相翰は呟いた。姉の嗚咽がそれを言葉もなく肯定した。

 相翰は微かに青ざめて佇んでいる蛮族の男に目をやった。怒りと悲痛がせめぎ合っている表情に、嘘はなかった。怒りは自分の子を失ったことの憎悪であり、悲痛は妻の手酷い裏切りによるものだろう。その両方に揺すぶられているのだ。

 相翰はそれを冷ややかに眺めた。この男が姉をさらった蛮族かどうかは知らないが、力尽くで奪った女が心を開くことなど、信じるものか。万事はの属する族人たちの暴挙のつけなのだ。

 相翰の視線に男は気付いたようだった。彼の顔に僅かに赤みが戻る。侮られることに激しく怒っているのだ。

 二人は烈しく視線を闘わせた。射るようにまっすぐな目線は同等の強さでぶつかりあった。姉の憎しみを吸い出してその油で煽り立てられる炎に相翰は身を委ねる。視線だけで殺してやりたい。憎しみの一念だけで傷を負わせてやりたい。憎い、憎い。姉の唸りが胸によせる。

 生き続けたいと言わせる憎しみはどれほどの深さなのだろう。──復讐してやる、酷い目に遭わせてやる、呪ってやる、恨んでやる。姉の柔らかな唇から紡がれる、耳を塞ぎたくなるような禍言まがごとがよみがえってくる。何度も。

 そんな言葉を口にする姉にしたこの男と北の彼らの仕業を赦す気には到底なれなかった。

 やめなさい、と言う声は先ほどより静かだった。二人は黄鈴を同時に見て、同時に首を振った。黄鈴は二人を交互に見やると祥苓に視線を転じた。何気なくそれを追って、相翰は異変に目を見開いた。男も同じ顔をした。

 祥苓の姿が、消えかかっている。肌は薄く色を塗ったようになり、決して見えるはずのない、身体の向こう側の藁葉までが透けているようだ。

 黄鈴が姉の細い手首を強く掴んだ。

「スウンは既にたどり着いている。行ってあげなさい。もう全部話したでしょ? 最期に言いたいことはある?」

 姉は薄く微笑んだ。目を閉じて至楽に委ねる姿が、天命を知った人間のものであることに気付き、相翰は凍り付いた悲鳴を喉で鳴らした。

「ごめんなさいって……」

 そう呟く声に黄鈴は何度も分かったわと囁いた。黄鈴が祥苓の肩を押す。刻々と色を失って空気に還元されていくような姿に、相翰は脳天を殴られたような感慨に打たれ、立ちつくした。

 ごめんなさいね。

 女はその言葉を最期に、塵が風に散るように消えた。


* * * 


 里長の家には牢がある。罪人を裁くのは地方の行政官である知事の役目、そこへ連れていくのは軍令の役目だ。都や大きな町では警備や公安は専門の衛士の仕事だが、こんな小さな里にはそんな役割を持つ者を置けない。そこで里長の家に監禁して、軍門大人が衛士を派遣してくるのを待つというのが一般的である。

 土牢になった倉に彼は繋がれていた。会いたいというと里長はじろじろと相翰を眺め、それから事情を吟味する顔つきになった。

 俯き加減に相翰はその視線を頬に受け流しながら、お願いしますと言った。感傷などではなかった。姉は既に死んでいたのだという事実も聞けば否定もしただろうが、目の前で消えてしまったのを見ては納得するしなかった。

 ようやく赦しをもらって相翰は土牢の前に立つ。土牢の中は奥と手前で半分に格子仕切されており、奥側が牢として使われていた。上方には明かり取りと空気の循環のための窓があるがそこは切り立った壁、上れるものではない。

 男は寝そべったまま相翰を見た。土牢の暗い闇の中でも彼の視線の強さははっきり分かった。相翰は格子から少し離れた場所に立つ。彼から吹き付けてくる気配は北辺の疾風のように厳しく、寒々しいものだった。

「ふん、俺の顔を見に来たのか」

 男の声はやや、くぐもっている。散々里人に打ち据えられたからだ。里長が私刑はならぬと宣らなければ、あのまま撲ち殺されていただろう。

 妖魔の騒ぎは奨善院の寮堂に良く聞こえていたようだった。何が起こっているのか不明ではあったが異常であることは良く伝わったらしく、それで誰も出てこなかったのだ。騒ぎが収まり、暫く物音がしなくなったのを確かめてから様子を見に来た子供は、炭小屋にいる蛮族に仰天した。相翰と黄鈴の二人を救わなければというまっとうな正義感で、必死な速さで注進したのだ。

 男は里人たちによって捕らえられた。彼は放心していたと言って良かったし、蛮族にとっての足である馬はどこかへ繋いできたのか見当たらず、馬に飛び乗って逃げることは出来なかった。

「あんたの顔も見納めだろうからね」

 答える自分の声も、また冷え冷えとしていた。憎しみは人を変えて凍らせる。心が何かに溶けてしまわぬように。姉もまた、そうだったのだろうか。

「俺は、姉さんのことを一生赦さない。お前達がどう綺麗ごとを言ったって、お前と、お前達が姉さんを殺したんだ」

「そんな下らぬことを言いに来たのか、少年」

 男の声が微かに失笑を含んだ。相翰は違うよ、と素早く答えた。この牢に来たのはこの男の口から真摯な懺悔が聞きたかったからだ。姉の人生をかき乱して滅茶苦茶にした罪はきっと知事が適正に裁いてくれるだろうが、県城へ送ってしまったらこの男の顔を見られなくなる。その前に、彼が姉に対して真剣な贖罪をするのを聞きたい。だから必死で里長にも食い下がったのだ。

「俺は、お前が姉さんにしたことを懺悔するつもりがあるなら聞いてやろうと思ってさ」

 男の吐息がした。笑っているようだった。

「口のきき方がそっくりだな、少年。祥苓も俺をそんな風に教育したつもりでいた」

 揶揄されて、相翰は気色ばむ。咄嵯の怒りで口を開くのも億劫だ。相翰が黙っていると、男はそれを何と思ったのか、微かに溜息になった。 

「お前達はいつもそうだ。俺達を豺豹けだもののように蔑み、人道を理解せぬといい、野蛮だ低俗だと忌み嫌う。俺がお前達の言葉を話すと皆、喋る獣を見るような奇妙な目になる」

「……自分たちのしていることを棚に上げてよく……お前達が無体なことをしなければいいんだ」

 里人も言った。正当で穏当な取引なら応じるのに、何故彼らは奪い尽くすのだろうかと。こちらが彼らを嫌うのは道理だ。彼らによって失ったものが大きいから。

 相翰の言葉に男はゆっくり身を起こした。相翰は更に強くなった射すくめるような風に、僅かに身じろぐ。後ろへ下がるのを踏みとどまったのは、やはり意地のせいだ。

「なるほど、あの女のしたことは棚に上げても良いのだな」

 静かな怒りであった。相翰は違うと強い声を出した。何としても相手を言い負かし、謝罪を言わせたかった。

「帰りたかったと言ったの、聞いてたろ? 力で奪った女が自分を愛するなんてこと、あるはず無いじゃないか」

 自分の声もまた、彼の声と相似していた。怒りに震えているのだ。何処にもやれない怒りを、目の前の相手に見えるお互いの背負う習俗を狙ってぶつけ合っている。

「お前は何も分かっていない。あの女は俺を裏切ったのだ」

 男はそう言い、吐き捨てるように嘆息した。この男は姉が好きだったのだろうかと相翰はふと思い、その考えを捨てた。愛していたなら相手の意に添うようにしてやるのが証だという考えは、相翰には必然のことであった。

「そんなの、最初から成立していない。姉さんはお前達が奪ったんだ、お前達がこんな日に遭わせたんだろう!」

「違う! 俺は祥苓に出来ることはしてやった!」

「あんた達の話をしているんだよ、俺は! お前らみんな同じだ、盗人のくせに!」

 男は眉を眺ね上げた。彼の顔に煮えるような怒りが沸き上がるのが見えた。相翰はそれを渾身睨み据える。

「なるほど、お前もまた、この国の説く文化とやらに従って俺たちを蔑むというわけか。よく分かった」

 男は頬で笑った。凄絶な笑みであった。相翰は負けじと視線に更に力を込める。姉を傷つけ、汚した罪の重さに比べるべくもなかったが、少しでも報いてやりたかったのだ。

「その女のしたことはどう説くのだ、少年。俺の元から逃げたことなどどうでも良いわ。その無謀は彼女が自分の命で購ったのだから……が、スウンのことは許し難い」

 どきりと胸が鳴ったのが聞こえた。やや分が悪いのを相翰は承知している。姉のしたことは暴挙だ。どんなに憎しみを以てしても、罪のない者もいるだろうに。それを分かっているだろうに。けれど。

「お前達がそこへ追いやったんだろう? 姉さんは赦してって言ったじゃないか!」

「ほう! お前達は罪もない子供を殺して赦しての一言ですむのだな! 流石に文明の先端は違うものだ!」

 強烈な報復に、相翰は一瞬喉を塞がれるように絶句し、沈黙を自分で許せなく思った。彼を弾劾するためにここにいるのが自分で、その逆ではないのだ。

「う……るさい、お前が赦しを乞うても絶対に知事様は認めないからな! 姉さんがそうだったというなら、お前だって姉さんの罪を命で支払ったらいい!」

「祥苓が俺の子を殺したようにな! スウンはまだ一歳になったばかり、自分では何一つ出来ない幼子を犬か猫の子のように川に捨てることが罪で無いというのなら、何が罪だというのだ! それとも、俺の子だから豺豹の子だとでも言うか? ならば殺しても構わないと?」

 相翰は震える。反論を探して口を動かし、違うと力無く呟くが、意味のない言葉であることを知ってもいた。

「違う? 何が違うものか、それとも──」

 男は拳で牢の格子を思いきり殴りつけた。その音に撲たれて相翰は竦んだ。音にではなく、彼の声音に。

「それともそれがお前達の言う、文化、か!」

 相翰は立ちつくした。言葉はなかった。何も。

 それでも、と相翰は思う。姉は、帰りたかった。帰ってきたかったのだ。子供のことは分からないが、故郷乖離者としての哀しみはきっと彼女の全てだったのだ。

「だけど、最初に姉をさらったのはお前達だ」

 呟いた言葉は、自分への言い訳なのか苦し紛れだったのか、どちらにしろそれは男に知れていて、彼はふん、と鼻で笑っただけだった。

 相翰は拳を握りしめる。出口を塞がれてしまった怒りが狂った蛇のようにのたうっている。それが胸の中をはい回って非道く気分が悪かった。

 沈黙が降りた。相翰は罵る言葉を探し、男は黙りこくったまま、身動きしない。と、静寂の中で相翰の視界を白く区分するものがあった。怪訝に視線を上げる。明かり取りの窓から一本、白い紐のようなものが垂れていた。

 相翰の気配に気付いたのか、男も目を開けて振り返った。二人は口をきかぬまま、それに見入った。紐よりはやや太い。所々を月に照らされて、白く光っている。

 するするとそれは窓から入り、やがて地に着いた。と、同時に明かり取りから人の顔が覗く。

「生きている? もし力があるならそれに掴まって……」

 言いかけた声の主が、あら、とばつの悪そうな声を出した。黄鈴であった。相翰は暫く目をしばたいてから、やっとその妖異に気付いた。ここは地下牢ではなく、元は穀物倉だったのだ。窓は大人二人分ほどの高さがある。相翰でもよじ登るには難儀だったし、黄鈴の体は小さくて、とてもでないが出来そうにない。男も同じ事を思ったのだろう、お前、と怪訝な声で問いただしている。

 黄鈴は肩をすくめ、紐を軽く何度か叩いた。紐がするりと上にあがる。白い先がくるくると意志を持つように巻き始めて、相翰はそれが紐でないことを理解した。月光に照るそれをよく見れば、鱗がある。蛇だ。

「嫌わないで。大人しい子なのよ」

 見透かしたように黄鈴が言った。相翰は意味もなく首を振りながら、僅かに後じさった。恐怖というには足らなかったが、異なるものへの畏れはあった。

 黄鈴はどうしたのか体の向きを変え、蛇の尾が捲いて瘤のようになっている箇所へ片足を出した。ついで、もう片方。ここへ降りてくるつもりなのだ、と相翰は気付いた。

 蛇が少女を気遣うように、ゆっくりと身体を下ろした。牢に着地すると、黄鈴は呆然としている相翰に軽く笑って見せ、男の前にちょん、と座った。

「生きてて重畳ねよかったわ。見た目ほど傷が酷いわけでもないようだし、馬には乗れるでしょ。今後はなるべくこの国には近寄らないで頂戴ね。奥さんと子供のことは残念だったけど」

 黄鈴はそんなことを口にして、男の足を柱に繋ぎ止めていた麻縄を切った。あ、と相翰は声を上げた。

 黄鈴はこの男を逃がしてしまうつもりだ。黄鈴、と上げた声は先ほどの怒りの片鱗をようやく取り戻していた。

「そいつを逃がしたらまた別の村が襲われるんだ。そんな狼みたいなのを野放しにするなんて……」

「あら、相輪は彼が狼に見えるの? へええ」

 黄鈴はとぼけて肩をすくめ、相翰を手招きした。近づくと弱い月光の下で彼女が悪戯っぽく笑うのが見えた。

「あたしのこと、黙ってくれて有り難う」

 妖魔の声は周囲に響いていた。男を捕らえた後、何があったのだと詰め寄る里人に、相翰は妖魔の群れが出たことは話したが、黄鈴のことは口をつぐんだ。誰であれ、吉事の異変は歓迎し、禍事の異変は嫌う。黄鈴が一体どういう技で妖魔を屠り消し去ったのかはともかく、彼女がしたことを素直に話せばどちらに判断されるか分からなかった。

 黄鈴は妖魔に詳しい。それは、彼らのことを周知しているというのに止まらず、知り尽くして性を利用しているような感じさえするのだ。

 あまり良い方には出ないだろう、というのが相翰の感想である。そんなことを言うと、黄鈴はそうね、と苦笑した。

「残念だけど、相翰の言うことは正しいわ。属するもので判断するのが一番分かりやすくて楽だからね。そうでない人というのもいるでしょうけど、期待して裏切られるのは怖いし、大勢に逆らうのはもっと怖いもの」

 そうだね、と相翰は頷いた。恐れのために、守りに入る。守る度に、恐れるようになる。

 黄鈴はそれにも頷いた。彼女は少し哀しげに笑っていた。

「それも分かるのに、相翰は彼のことになると目が曇るのね。目が見えていても、瞑ってしまうのは良くないわ」

「どういう意味だよ」

 癩に障って相翰は唇をとがらせる。黄鈴は溜息になった。

「彼は逃がすわ。彼は妻子を捜しに来ただけですもの」

 そんな、と声を上げた相翰よりも、男の声の方が力強く、迅速だった。

「俺は施しなど受けぬ! この国の連中が俺を裁きたい罰したいというのなら、勝手にすればいいのだ!」

「施しなんかしないわ。あなたはもう罰を受けている。あなたは彼女を手に入れたけど彼女が何を思っていたか、何を嘆いていたか、全然分かっていなかった。だから妻も子供もいっぺんに亡くしたの。もういいでしょう。報いにしては大きすぎるような気がするわ、私にはね」

 男は首を振り、項垂れた。本当に祥苓が何を思っていたのか彼は知らなかったのだ。彼女の口から浴びせられる烈しい言葉に度を失っていた蒼白の顔色。

「話せば良かったじゃないか、言葉が分かるんだから。お前が分かろうとしなかったんだ、そうに決まってる!」

「俺はどうしたいのか、何が嫌なのか、きいてやったがあの女は答えなかった。俺に理解できないとでも思っていたんだろう。腹の立つ女だ」

 相翰は頬の辺りがかあっと熱くなるのが分かった。この、と声を荒げると、黄鈴が駄目よと厳しく遮った。彼女の声は凛とした威圧があり、人を従える声音であった。

「悪く言うことでしか、自分を守れない時があるのだから、責めては駄目よ。彼の罰は彼の心の中で彼が自分で向き合っていくべきもので、相翰が口を出す事じゃないの」

「でも……!」                

「お姉さん、病気だったんじゃないの? 多分労咳だとは思うけど。いやに肌が透き通ってたから……」

 男が微かに呻いた。それは事実のようだった。

 明らかな死病の名を出されて相翰は怯んだ。労咳は胸の病だ。血を吐き、吐き続けて失った血液の分だけ白く美しくなる頃に死ぬ。

 姉は死期を知っていたのだろうかと相翰は思った。さけがたい期限が近いことを悟り、だから帰ってきたかったのだろうか。だとしたら姉の目に映った故郷は一体どうだっただろう。年月を戻すことは出来ないが、癒されるものもあったろうか。相翰は拳を握りしめた。

「病気だったら尚更、姉さんが可哀相だ。こいつらにさらわれて、病気にまでなって、」

「病は人の運命、俺がそうしたわけでもなければ何かがあったわけでもない! お前は俺に言い掛かりをつけなければ気が済まないようだな」

「だって……!」

 二人の視線が色濃い悪意で絡もうとしたとき、少女の溜息がした。見計らったような見事な呼吸だった。

「相翰、人を病にすることは出来ないわ。彼女は帰りたかった、と言った。死ぬ間際に自分の国を見たかったんでしょうね。子供にも、見せてやりたかった。手放せなかった。だから連れていったのよ……決して、彼を憎しんでいるからじゃない。怨みを抱いて死んだのなら、すぐにでも水鬼になっているはずだから」

 水鬼と相翰は聞き返した。それは溺死した人間の転じた姿だ。生きている人間を自分の死んだ淵へ引きずり込めば自分が生まれ変わることが出来ると信じている。だから水鬼は必死で誰かを引き込もうとする。どんな手を使っても。

 それから相翰は、姉の死の様子を黄鈴が語ったことに不思議を覚えた。黄鈴は軽く頷いた。

「私は……妖魔を使役することもできる。妖魔と幽冥界のことは良く知っているの。人の夢に潜る妖魔の目から、祥苓さんの最後の夢を覗いたわ。誰を捜しているのか、知りたかったから」

 黄鈴は僅かに身を震わせた。相翰は少女の顔に浮いている、いやに厭世的な色合いに気付く。黄鈴の言葉を荒唐無稽な作り話だと言うには、相翰は妖魔との遭遇と対処を焼き付けられていた。

 何が見えた、と相翰は呟いた。雪、と黄鈴は答えた。

「一面の雪が……点々と続く、血の足跡が。足下は氷、果てしなく氷、それと雪。彼女の声が、子供を呼んでいる声」

 相翰は眉を寄せ、そして俯いた。想像すれば恐ろしく、恐ろしいだけに哀しい光景であった。姉の足の怪我を思い出す。ひび割れ、あかぎれ、癒蓋。出血、剥がれた皮膚。紫色に変色した足。

 相翰は雪深く色暗い冬の里を思い、黄鈴と同じように身を震わせた。この辺りでも大陸としては北寄りだ。のし掛かるように降り積む雪は自分たちを押し込める。あるいは、雪嵐の烈しい怒りと吠える声を思う。荒れ狂うように逆巻く雪の乱舞は激しく、痛みさえ麻庫するような苛烈さが身体を真芯から凍り付かせる。

 その中をさまよい歩きながら子供の名を叫ぶ女の姿が急激に焦点を結んで目裏に浮かび、相翰は喘いだ。

 繰り返し繰り返し彷徨いながら、姉は遂に望むものを見つけられなかった。死してなお、探し続けた。もう痛みさえ感じていなかったような足で、ひたすら歩き続けた。子の姿を求めて。

「スウンは……どうしたのか、わかる、か……」

 男の呻くような声が言った。彼の額に汗が浮いているのを相翰は見た。男も自分と同じ感覚を共有していたのだと、相翰は悟った。彼を許せるかも知れないと思った。

「彼女は……馬で逃げた?」

「ああ。あれは馬が上手くはない。抱いてゆけるわけはないから、赤子は背負って河を渡ったはずだ。いなくなったのは今年の春の直前、おそらく河はまだ凍って……」

 言いかけた男が黙った。相翰は彼を見やる。長い沈黙と、それよりも更に長い嘆息の後、男は呟いた。

「……馬ごと、河に落ちたな……氷が薄くなっている箇所があるから、真冬でも危険だというのに……」

 相翰は頷いた。落ちたときにきっと背にくくりつけた子供はするりと紐を抜けてしまったのだろう。過失であるというには残酷な結末だった。

 何故、と相翰は低く口にした。せめて春になって氷が溶ければ、夫に願ってもよかっただろうに。間に合わないと焦ったのか。後一ヶ月が待てなかったのか。男はややあって首を振った。

「あれは俺がすること全てを恐怖していた。何をしてやっても怯えてばかり、何を言っても通じなかった……言葉は理解しているのに彼女は俺が何を言っているのか、分かっていなかったのだろう……そして逆もしかり、だな。あれ一人を責めるわけにもゆかない。俺も彼女が何を怯えているのか、何度説明されても理解できなかった……」

 通じ合う言葉があれば、通じ合わないとき、一層虚しい。自分の視野に相手を合わせようとお互いがし続けた結果、姉には男が何を思っているのか理解できず、男は姉の真意が分からなかった。そういうことなのだ。

 相翰は急に突き上げてきた涙を飲み込んだ。姉が消える間際に言った沈痛な謝罪の相手が分かったのだった。

 スウン。姉がその死にいたるまでと死してから消えるまでの長い間捜し続けた愛し子。

 相翰は目を閉じる。最期の瞬間に姉は何を考えていただろう。それは恐らく分かっている。連れ去られた怨みでも、恐怖でも、夫への苛立ちでもなく、狂おしく求め捜し続ける幻、その姿。

 可哀相に。相翰は呟いた。男が身をかきむしるように縮めた。二人の耳に哀しげな女の声が風に紛れて届いた。


* * *  


 男の乗ってきた馬は、里から少し離れた山林の中に繋がれていた。黄鈴がしたのだろう、彼の犬も同じ場所に繋がれている。犬は主人を認めると激しく尾を振り、うれしげに鳴き声を上げた。男は黙るように犬を手振りでしつけると、馬の首を軽く叩いた。彼らにとって馬は大切な従僕でもあり、相棒でもあるのだ。

 男は相翰達を振り返り、深く頭を下げた。相翰は曖昧に頷き、黄鈴はにこやかに手を振った。

(何故略奪が行われるか知ってる?)

 相翰に黄鈴が言ったのは二人がそれぞれに祥苓という女について、思いを巡らせ終えた頃だった。相翰はちらりと男を見た。彼らは自分たちの富としてかすめ取っているのだという認識は変わりなかったからだ。相翰がやや口ごもっていると、黄鈴はそうね、と苦笑になった。

(鉱山もあるっていう人、多いわよね。どうして彼らが殆ど宝玉や金を持っていないのか考える人はいないけど)

 彼らの国に鉱山はある。豊富にまろく照る瓊玉、輝く黄金、煌めく宝玉を産む。が、それは彼らの手には入らない。相翰達の国は彼らを蛮族と呼ぶだけでなく、時折正規軍が「討伐」として侵入する。それが嫌ならばと王族の娘を召し上げ、多額の貢ぎ物を要求するのが常套だった。

 討伐と呼ぶのは、彼らが荒らし回っている北辺領土の安定を図るためだという。どちらが一体先なのか、相翰には分からない。一度始まってしまった憎しみは連綿と続いて行くしかないのかも知れなかった。

 討伐を回避したいならと莫大な朝貢や王族の娘を要求する。産出される貴金属は殆ど彼らの手に残らない。

 彼らは総じて豊かではない。不足はないが富裕とは呼ばない。それでも大半は弓馬を操って犬を連れ、狩猟で生計をどうにか図っているが、楽な方へ飛び出していってしまうものがいないことはない。だからといって全員が凶族に化けるわけでもないが、極端な連中は多く、虐げられているのだという意識が、罪悪感を捨てさせるのだろう。

 相翰は知らなかった。単純に皆が口にするように、あちらが横着で横柄なのだと思ってきた。稼ぎだってあるくせに、人を傷つけても楽に稼ごうとしているのだと。そう思ってきたのだ。

 言葉と心が違う場所にある限り、埋めようとする努力なしには何も理解できないと思ったのと同じ事であった。憎しみの目で見れば、きっと白いものも黒く見える。

 姉と男が結局分かり合えなかったのは、お互いに相手が自分に会わせるべきだと考えていたからだろう。姉は自分が持つ文化の香りを男が酷く飢え欲しがっているのを知っていたから彼が自分を理解してくれるのだと思ったろうし、彼は暮らしの土台をおいている場所に従うのが当然だと思っていた。

 その齟齬が姉の悲劇を生み、そして報いとして姉は世を去り男は家族を失った。それが罰だと言った黄鈴の言葉がようやく理解できたのもその時だった。

 あれだけ罵倒してしまったことで、相翰は多少居心地が悪かった。後ろめたさのまま、相翰は黄鈴が彼を逃がすというのを邪魔しないということで協力している。

 相翰が土牢を出てから男を例の蛇で窓から出したが、蛇には小さな足があり、角が生えている。これも妖魔の種類であるようだった。黄鈴は私の子供達の一人よと笑ったが、彼女のことはもう講談の中の夢幻のようでさえあった。

 男は馬によじのぼり、馬上で軽く会釈した。

「お前達のことは忘れぬ。俺はこの国の奴等は好きではなかったが、お前達に救って貰ったことは忘れない」

 噛みしめるようにそんなことを呟き、男は手を挙げた。別れの挨拶であった。

 相翰は彼をちらりと見上げた。男は相翰の視線に気付いたようだった。どうした、と問われ、ようやく声が出る。彼も相翰と主観を激しく言い争った後の所在なさを感じているようだった。

「姉さんの……子供の名前……漢字はあるの?」

 男は微かに笑ったようだった。空中に指が字を綴る。

 素蘊と読めた。相翰は頷く。意図が分からないのか、馬上で男がこちらをじっと見つめている。相翰は唇を開いた。

「身よりのない人の墓地を、村の隅に作ってくれるんだ。姉さんの首飾りを埋めようと思ってる……」

 男が軽く頷いた。彼が手がかりとして自宅から持ち出してきた品なのだった。蛮族だというだけで拿捕されるとは意外だったが、逃走できたのは運が良かったらしい。双方が疑心暗鬼と憎悪に固まっている。

「子供の名前も書いて貰うから、また、いつか」

 男は密やかに笑った。確かにそれは途方もない話であった。相翰は首を振った。今日よりも明日、明日よりも更に遠い明日、きっと今の自分よりも自分たちよりも前に進んでみせる。果てのない過去を振り向き眺めるより、一歩でも先へ歩いてみせる。現実に足らないものがあるならば、遠い未来にきっと埋めてみせる。

「でも、きっとそうするから。姉さんの横に、名前を刻んでおくから、約束するから」

「……ある、阿呆な男の話をしよう。そいつはお前と同じ事を言っていた。理解し合うことが大事なのだと。猟で獲った毛皮や獣の肝を持って河を渡り、こちらと取引をしようとした……」

 最初里人は警戒した。それは何処でも同じだった。

 彼は諦めなかった。何度も自分が略奪の下見でないことを説明し、決して村の中では武器を持たなかった。里人はやがて警戒を解き、対等な取引が出来るようになった。

 だが、ある日里を凶賊が襲った。襲撃者達と彼は何の関連もなかったが、生き残った里人の復讐心は彼に向かった。

 ……車裂という刑罰がある。手と足を別の牛に繋ぎ裂き殺すものだ。彼を案じて様子を見に行った同族がどうにか持ち帰ってこれたのは、彼の左腕一本であった。

 彼には息子がいた。彼が覚える漢語を横で聞きかじって覚えたが、字は読めなかった。読む術が欲しかった。だから字の読める女を見つけたとき、とても嬉しかった……

 男はそれを静かに語り、溜息になった。

「俺は相互理解など、出来ぬと思っている。今でもそうだ。だが、お前達のことを理解できぬのは俺がオウルーの男でお前が漢民族である故、当然だ。我々は、あまりに隔たっている。だが……」

 男は深く、ゆっくり頷いた。

「お前達を尊重することは出来る。俺の代では出来ぬ事も、次世代に伝えていくことを約束しよう」

 相翰は男を見上げる。今始めて視線があった気がした。

 一瞬の交感に似たものが、瞳から流れ込んできたようだった。相翰は目を細くして、遠くなる男の背中を見送る。隣で同じ事をしていた少女が帰りましょ、と背中を叩いた。

「俺、何が正しくて間違ってるのか分からないよ……」

 ぽろりと唇から零れた言葉に黄鈴がひっそり笑った。

「目を開いていても、見えないものの方が多いのよ。でも知りたいと思うなら目を開けて、ちゃんと物事を見定めること。裏切られても騙されても、きっと違う明日もあるんだと信じてね。相翰、いい大人になってね。まっすぐに前を見る、まっとうな大人に。お願いね。約束してね……」

 黄鈴が相翰の手を握った。彼女の手は温かかった。唐突に、最初に姉を発見したときの身体の冷たさが蘇ってきた。既にこの世に亡い身で戻り彷徨い続けていた、あの姿も。

 相翰は黄鈴の手を握り返した。身体の温度が、今は何より嬉しかった。


* * * 

  

 黄鈴はじゃあね、と軽く言って片手を上げた。迎えに来た親代わりという男は身体の大きさの割には柔和な表情をしている。細い目がまるでいつでも笑っているようだ。

 親子のようでもあったが、血のつながりは無いと聞いている。梁敲は相変わらず面白くなさそうな顔つきで労働賃を黄鈴に渡した。ありがとうございます、と丁寧に黄鈴は頭を下げてから、急に眉をひそめて小声になった。

「……院長、あたし、ちょっとだけ鬼幽が見えるのだけどね、あなたの後ろに童子の姿をした鬼が見えるわ」

 快癒しない死病を連れてくるのは童子の姿をした鬼神と言われている。梁敲はふん、と鼻で笑った。黄鈴はますます重大そうな表情になった。

「でもあなたを恨んでいるわ。誰かしら……子供……冬に死んだ子供に心当たりは? 小さな男の子かしら……」

 梁敲が顔色を失った。相翰は笑い出しそうになるのをこらえる。数年前の冬に梁敲に使われるのを嫌って奨善院を出ていこうとした子供が峠で凍死したのは有名な事件だ。

「およし、そんなこと言って、どうしようって……」

 震えながら強がる声が、急速にかすれて消えた。梁敲は突然喉を塞がれたように手をやり、驚愕の表情を浮かべた。

「怒っているわ。余計なこと言うな、ですって……」

 黄鈴がまっすぐに梁敲の背後の藪を指さす。返答するように、立ち枯れた草ががさがさ揺れた。梁敲は吐息で悲鳴を表現した。黄鈴が宥めるように彼女の肩を叩く。

「子供の怨みは純粋で深いのよ。募らせたくないなら、今の子供達をもうちょっと丁寧に扱うといいと思うわ。子供は子供と仲がいいから、仲間が虐められていると怒るのよ」

 梁敲はもう一度藪を振り返った。激しく草が揺れた。彼女は呻いた。助けて欲しいと動く唇を叱咤するように、藪が更に動く。

「もう仲間を虐めないって言っているわよ」

 黄鈴が藪に視線をやりながら言った。草の揺れがぴたりと収まる。梁敲は蒼白で頷いた。警告なのか一度大きく揺れた後、しんと静まった。

 梁敲がよろめきながら寮堂へ戻っていくのをみて、相翰はその藪を振り返った。黄鈴を迎えに来た男が、複雑そうな顔つきをしている。その彼に向かって

「嘘も方便」

などといい、黄鈴の方はけろりと笑う。

「さよなら、相翰。短い間だったけど、ありがとう」

 差し出された手を相翰は握り、万感をこめて笑いかけた。黄鈴もまた、笑った。

 そうして去った彼女の背中が街道筋に消える頃、先ほど騒がしかった藪から見慣れぬ小さな獣が走り出てきてのたのたと、しかし必死に黄鈴の後を追っていった。

 国境の大河が凍り付いたという知らせを聞いたのは、それから十日後の事である。



《終》
























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妖鬼士伝 石井鶫子 @toriko_syobonnovels

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