第45話 悩みを消すのはだいたい出会い

 湯上りに牛乳を飲んでみても、気分爽快! とはとてもならない。いくら頭をぶるぶると振り回しても気分が晴れることはなかった。「これからどうする?」この言葉がいつまでも脳裏にこびりついてとれそうもない。これからどうする? これから——。


 牛乳の空き瓶を回収箱の中に入れる。小さく仕切られた部屋の一つに収まった牛乳瓶にさえ嫉妬してしまいそうだった。収まるべき場所がある。これからどうなるかも決まっている。さぞかし楽なことだろうな、と。こんなこと考えても何も意味は無いのについ考えてしまう。牛乳瓶の将来なんて考えてしまうのは、私がオニだったり、リコという多摩タヌキと関わったりしているからなのだろうか。


 ふいに足元に影がかかった。誰かが私の前に立っていた。もしかしたら細波かもしれない——私の頭が意図せず勢いよく上がった。


「…………」


 しかしそこに立っていたのは細波ではなく、丸みを帯びた半月状の耳とふわふわの尻尾を携え土気つちけを帯びた無垢の少女だった。少女はじいっと品定めするように私を見つめていた。そして私はその姿をよく知っていた。それなのにどうしてもその名前を呼ぶのがためらわれた。それほどまでに、纏っている空気感が普段のそれと違っていたのだ。有無をも言わさぬ威圧感。ある種の神々しさと言った方がいいかもしれない。絢爛けんらんな彫刻やおごそかな大木の前で言葉を失ってしまうのと似ている。圧倒されて私はおしのように黙りこくっていた。呼吸ができているのかどうかもわからないままで、少女を視界から外すことも出来ず、ただただじっと動かないでいた。


 目の前のソレを仮に「彼女」とするならば、「彼女」の姿かたちはまさにリコそのものであった。


「…………」


 「彼女」は透き通るような両の目で私を見続けた。何もかも見透かされるような気がしたけれど、不思議と不快感はなかった。何もかも知られてしまってもかまわないと思った。それは本能に近いものであり、美味しいものを見たときに食べたいと思うとか、疲れたときに眠りたいと思うのと同じ類の感覚であるように思う。とても抗う気にならないのだ。


「……お前がオウミか」


 ゆったりとした話し方とは裏腹に、「彼女」の尻尾はもふんもふんと音を立てて揺れていた。そんなに揺らしては周りの人々に目立ってしまいはしないかと心配になったが、存外誰も気にとめていないようである。戸惑いながらも私がなんとか頷くと、彼女の方も「そうかそうか」と嬉しそうに何度も頷き、そのままきびすを返して去ってしまった。


 多分それほど長い時間ではなかったのだろう。まだ火照ほてり切っているほほに掌をあてて、なんとか平静を取り戻す。

 とんでもないことが起こったと、ぼうっとのぼせ上った私の頭でもはっきりとわかった。リコの姿をした「彼女」は今、確かに、言葉を使ったのである。

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