第12話 小心者のオニと追われるタヌキ

 深緑色の表紙には『多摩狸異聞録』と銘打ってあった。


 その表紙をめくり白紙の頁をとばすと、崩れていながらも読める文字が綴られていた。思っていたよりも最近に書かれたものらしい。


「だめだ。細波、かいつまんで説明してくれ。私はどうも長いこと文を書いたり読んだりすることが苦手だ」

「そうだな。そう言うと思ったよ」細波は含み笑いを浮かべながら語り始めた。


「短気な近江君のことだ。いくら要点だけかいつまんだところで興味をそそられなければ話を聞いている今にも退屈で上の空になってしまうだろう。だから一番初めに、一番お前が惹きつけられる内容を示さないといけない。


 お前にとって興味を引くこと——それはお前自身に関わることに他ならない。


 だからこの『多摩狸異聞録』の内容を説明する前に、これを書いたのはお前と同じ、オニの血を宿す者であると明かしておこう。


 うん。食いついてくれたみたいで結構。しかし生憎だがオニについての説明は後回しだ。心配するな。説明を聞いていればわかることだ。


 さて、では『多摩狸異聞録』についての説明を始めよう。その題するところの通り、舞台は多摩。そしてタヌキが登場する訳だが、これは多摩に伝わる伝説に深く関わっている。


 お前も知っての通り、この多摩にはある伝説がある。それは迷信や都市伝説の類の姿で広まっていて、春に初めてこの地を訪れた新参者でさえ少し時間が経てば一度は耳にするほど有名だ。


 その内容は——そう、『特別なタヌキと特別なニンゲンが恋の契りを結ぶとき、多摩はそのニンゲンの思う通りの姿に変わる』というものだ。


 これは決して迷信などではない。現におよそ半世紀ほど前、この特別なタヌキ——「多摩タヌキ」を巡って熾烈な争いが繰り広げられた。


 この多摩に三つの勢力が集い、血で血を洗うような多摩タヌキへのアプローチ合戦の末に、この『多摩狸異聞録』を書いた男は多摩タヌキの恋情を我が物にすることに成功した。


 しかし問題はそこからだった。いざ男が多摩タヌキと婚儀を交わそうとしたときの記述をそっくり読み上げるとこうだ。


『天に雷鳴とどろき風は荒れ狂い、地は割れるほど激しく揺れた。およそ人智を超えたその様子はまさに自然の怒りと表現するのが最もふさわしいだろう』


 これですっかり怯えてしまった小心者の男は多摩タヌキなど放り出してさっさと逃げ出してしまった。


 多摩タヌキの伝説が真実でありかつ触れてはならないものだとした男は、伝説の対象となり得る者に警鐘を鳴らすため、この『多摩狸異聞録』を書いた。


 その対象となるのが、この男と同じく額にツノを生やした、所謂『鬼』というわけだ。


 さて、近江。ここまで話せばもうお前が非常にややこしい事柄の渦中にいることくらいは把握できただろう」


 細波の話を聞きながら私はおそらくだらしなく呆けた顔をしていたはずだ。


 何をやらせても鈍く、普段女の子のこと以外考えていないような馬鹿人間である細波が流暢に喋るのが不自然に感じるくらいには、私のへんてこメーターも機能しているらしい。


 次々繰り出される荒唐無稽な内容には、口をあんぐりと開けて呆然とする他なかった。


 ひときしり説明を終えた細波は「喉が渇いたな」と言って喉仏のあたりを指でつまむ仕草を見せた。茶でも振舞えということだろう。親友ながら図々しいやつだ。


 冷たい麦茶を一気に飲み干し一息つく。太郎坊が話を切り出す機会をうかがっているようであったが、それよりも先に私は細波に尋ねた。


「それで、私は結局その……」


「オニだよ。鬼。自覚は無いみたいだけどな」細波が間髪入れずに答える。


「人間に戻れるのか」


「戻るも戻らないも。元より人間じゃないお前はそのまま生きていく他ないんだよ。なんだ、そんな縋るような目をしなくてもいいじゃないか。鬼といっても人間とさして変わらないし、実は結構いたりするんだぜ、そういうの」


「いや、これは細波がやけに賢そうに話すものだから驚いているだけだ」


「ちぇっ、なんだいそりゃ」細波のケラケラと笑う声が響いた。


「お前、実のところは馬鹿じゃないのではないか」


「そんなことはどうでも良いだろ。それより旦那がさっきから固まっちまってるからさ、話を聞いてもらいたいんだが」


 見ると太郎坊は会話の主導権を握りたい気持ちのためか、右手を中途半端に浮かしていた。そして照れ臭そうにその手を戻すと小さく咳払いして、厳かに口を開けた。


「……頼みがある」

「……なんでしょう」


 空気が重く緊張するのを感じる。何も事情を知らなかった先ほどとは違い、太郎坊の要求がなまじ予想出来てしまい、さらには太郎坊の尋常ではない腕力によってそれに巻き込まれることが容易に想像できてしまうからだろう。


 おそらく、逆らえばまた投げ飛ばされる。


「鬼のお主には、多摩タヌキを殺す協力をしてほしいのだ」

「良いでしょう!」


 小心者の私は反射的に了承してしまったので、太郎坊の要求が想像していたよりも少し物騒な内容であることにはその返事の直後に気がついた。


「え、コロス?」使い慣れないその単語をぎこちなく反芻する。太郎坊はゆっくりと頷いた。


「ああ、殺す。やはりタヌキだから、鍋にして腹の中に収めてしまうのが良いだろう」


 やはり物騒なことを言ってのけながら、太郎坊はその言葉の残虐性にはとても似つかわしくないようなうっとりとした表情を浮かべ、じゅるりと下品によだれを垂らした。


「タヌキ鍋は美味いぞお」

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