第10話 押せば引かれる。追えば逃げられる。

  ◆


 夢の中でさらに夢をみていたせいで夢から覚めたつもりでもまだ夢の中にいた、というような経験をしたことがある。しかし、どうやら今度のはその類ではないらしい。


 私は玄関扉にもたれかかったままの状態で目を覚ました。どうやら気を失っていたらしい。


 リビングには大男と細波がいて、なにやら両者神妙な顔つきで話をしているようだ。


「あ、起きた」もぞもぞと身体を動かす私をみて目ざとくも細波は気がついた。


「……すまなかった。身体は、平気か」大男がずんと頭を下げる。


 相変わらずふくらはぎが筋肉痛に苛まれているだけで、他にダメージは無いようだった。


 あれだけ激しく打ち付けられてどこも痛んでいないというのも信じがたいが、それよりもあの衝撃が虚構のものとはとても思えず、ならば、と私は夢を見ているわけではないのかもしれないと認めつつあった。


「ええ、痛みは無いです。驚いて白目をむいてしまいましたが」

「まったく情けない奴だなあ!」


 大男に対する言葉を細波はケラケラと面白がっていた。「少し黙っててくれ!」と怒ると、「へいへい。おお怖い」と言って大げさに口に手を当てて黙る。


「それで、何か」私は溜息をついてから改めて大男に尋ねた。

「用があるから……来た」

「それはそうでしょう……。でなければ私があんまり可哀そうじゃないですか。で、一体どんな用ですか。私は特にこれといって法も犯してないし、あなたに迷惑をかけた覚えもないし、自慢ではないけれど何か頼みごとをされるような人徳も持ち合わせていないのですけどね」


 自分が若干苛立っているのがわかった。腹の虫が暴れ回る感覚は昔抱いていたものに近い。


 私の倍はある巨漢に対してこうも強気なのは信じられないことであったが、もしかすると大男の態度が思っていたより粗暴でなかったことが一因かもしれない。


「それは……、オニのお主に多摩タヌキの——」

「旦那! いた、あそこだ!」


 昨日に引き続いて大事な話を遮ったのはまたしても細波であった。まったくタイミングの悪いやつだ。


 細波の指差す方に顔を向けると、窓ガラスの向こうにはあの獣少女が遠くをとてとてと歩いているのが見えた。


 丸い耳とふわふわの尻尾を持っているのは昨日出会ったときのままである。


「来てくれ、近江!」細波が窓を開けながら声を張り上げる。その声に咄嗟に反応して、理由を求めることなく共に裸足でベランダから飛び出せたのは、青春時代に苦楽を共にした親友同士の友情があるからこそである。


「なんだ! 細波!」走りながら私は尋ねる。

「細かいことはどうでもいい!」細波が叫んだ。「とにかくあのタヌキを捕まえろ!」


 しかし私たちが近づいていくと獣少女の方も当然そのことに気がつく。すると獣少女はその比類なき健脚をみせ、木々の間へと瞬く間に消えてしまった。


 あまりにも速いので私は追うのを早々に諦めてしまった。細波は舌打ちをして、「まあ仕方がない」と溜息をもらした。


 顔のどこにも笑みを浮かべていない細波を見たのはこの時が初めてだった。

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