第9話 宝にならない経験もある

 膀胱の危機的状況をなんとか乗り越え、冷静さを取り戻したところで改めて状況を整理してみようと思う。


 まず、朝起きたら私はベッドではなく床に寝ていたのでベッドに戻ってもう一度眠りについた。次に起こされたときには目の前に細波がいて、これだけでも大層不思議なことだがさらに、ラーメン屋「チュウ」で出会った大男も一緒に座っていた。


 その大男の体躯はとにかく大きい。だからこそ大男であるわけだが。部屋の中にあるどの家具よりも大きいので、寝ぼけた頭では上手く形用することさえできなかったものの、息をのむほど巨大であることだけは間違いない。


 昨日の出来事は夢ではないのか。それともひょっとしてまだ夢を見ているのではないか。


 そんなことを考えながら手を洗っていると、鏡に映った自分の顔のその額にちょこんと白いものが尖っているのを見つけた。手で触ってみると硬いような柔らかいような、歯をぐりぐりと動かしているのに近い感触が得られた。


 このとき私はやっと、大男の言う「ツノ」がサイやウシの持つような「角」であると理解したのである。


 とはいえ、人間に角が生えるだなんて聞いたこともない。あるとすれば小説やら都市伝説の類、でなければやはり文字通り夢のような出来事なのだ。


 考えてみれば花江先輩の挙動も少しおかしなところがあった。それに加えてタヌキのような耳と尻尾を持つ少女など存在しないことは火を見るよりも明らかだろう。


 するとやはり、ここまでの一連の出来事は全て私の見ている夢であるのだろう。「ボス」とかいう厄介な男も危険な大男も夢の世界の住人であるとするならばそれほど怖がる必要もない。


「……夢じゃないぞ」


 便所から帰還してすぐ、大男はそう口にした。まさかこのゴリラのような男は心を読むことができるのか! と、いつもなら腰を抜かすところであるが、夢の中で何が起こっても不思議ではないという余裕があったので、悠々とベッドに向かい厚かましくも横になっている細波を突き飛ばした。


 私の夢の住人が私の心を読んだところで何ら不思議なことは無い。


「……夢じゃないぞ」


 大男はしつこく二度もそう言った。さすがにうんざりしてきたので大男の言葉は無視し、布団を頭まで被ってさっさと寝てしまうことにした。


 疲れて怠くて眠気まで感じるだなんて、夢というものは意外とリアリティのあるものだ。


「あーあ。ダメですねこりゃ」呆れ果てたように細波がボヤく。「説明するのもめんどくさいなあ」


「かまわん。……説明する必要は、無い」

「どうするんです」細波のにたにたという笑みが声だけで容易に想像できた。どうやら大男は私の寝ている横に立っているらしい。


「こう——するッ!」


 次の瞬間、私はふわりと宙に浮かんでいた。襟首を掴まれた状態で浮かされているのだとすぐに気がついた。大男はそのまま部屋と廊下を仕切っている扉を開け、強固な玄関扉に向かって私を投げ飛ばした。


 どむんという鈍い音と同時に凄まじい衝撃が私を襲った。「激しく打ち付けられる」経験は初めてのことだったが、まさにこれがそれかと直感した。


 大きな大きな破裂音が全身に一瞬で響くのだ。こんなことは私のように穏やかで平和な人生を願う者にとっては二度と無いくらいの貴重な経験だろう。


 できることならそんな経験などしたくなかったものだが。


「オニの彼にダメージは無いだろうが……少なくとも衝撃は受ける。……その衝撃は、夢や幻の類ではないことを彼に実感させる……はずだ」


「あらら、そういうこと。でも旦那、やりすぎちゃったみたいですよ。その衝撃だけで十分、あっしの親友は目回しちゃってるみたいですわ」


 細波はまたケラケラと笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る