六月十六日
第8話 寝起きにもよおすことはやむなし
◆
獣少女の姿が見当たらないことに落胆しなかったと言えば嘘になる。事実、ベッドがもぬけの殻になっているのに気がついてまず溜息をついた。
外から聞こえてくる音から察すると、今日は天気が崩れているみたいだ。あと半刻もすれば講義が始まるくらいであったが、どうにも気乗りしない。
硬い床で寝ていたので節々が痛んでいる身体をベッドに投げ出し、まどろみの世界へと足を踏み入れる。ひやりとした感触が、獣少女などは夢うつつの出来事であったことを思い知らせた。
やっぱりな。沈みゆく意識の中でそう思った。やっぱり、私が花江先輩に話しかけられることなんてあり得ないことだったんだ。
少しの間一緒に歩いて、話して、そのときの幸福感だけはおぼろげながら覚えていた。我ながら大層哀れなものである。
我が幸福が女人に左右されるとは何事だ! 学生の本分は断じて恋愛などではなく、学業である! そもそも真の幸福とは——。
そこまで考えてまた眠ってしまった。次に目を覚ますときには既に講義は終わっていることだろう。
しばらく経ってちょうど講義が一つ終わる頃、私は再び目を覚ました。
というより、目を覚まさせられた。
乱暴に身体をゆすられて寝ぼけながら起き上がると、すぐ目の前に細波がいて「わあっ!」と実際飛び上がって驚いた。飛び上がった拍子にふくらはぎに痛みが走る。
私がそんなにも跳ね上がって、驚いたというよりはむしろ恐怖で顔を青くしたのには二つの理由があった。
当然のように部屋に入ってきている細波にそもそも私は鍵を渡していないということが一つ。これだけでも十分なのだが、さらにもう一つ。「チュウ」でツノがどうこうと言っていたあの大男があぐらをかいて座っていた。
その顔は相変わらず般若のように鬼気としており、巨大な図体はあぐらをかいていても我が家のほとんど全ての空間を占拠してしまっている。
「カギ開いてたぞ。不用心だな」ケラケラと細波が笑う。
「そんなはずは……」
細波に言葉を返しながらも私の目が大男から離れることはなかった。それほどの異様な存在感を持っている。
「ええと。はじめまして……?」
大男の顔色をうかがいながらおそるおそる話しかける。大男はそれまで閉じていた両目を開き、じろりとこちらを睨みつけた。
途端に尿意をもよおしたが、とてもそんなことを言い出せるような空気感ではない。
「……一度。会ったろう」なんともゆっくりと重々しげな口調で言う大男。
その声をきいてますます尿意が押し寄せてくるのを実感し、この尿意が恐怖から来るものであると知った。
そもそも一度もよおした尿意はそう長い間我慢できるものではない。大男の隣で細波が「アレ、知り合いなんですか?」と素っ頓狂なことを言っているのが恨めしく感じられた。
こっちは次にどう返すかもわからぬ上に理不尽な尿意に追い詰められているというのに、のんきなやつ!
「……覚えてないか」
身悶えるばかりで何も返答しないでいると、大男はわかりやすくしょげ返ってしまった。
しかしそんなことは関係なく、もう我慢の限界が近い。しかしやはりこの謎めいた状況を放っておいて便所へ行き、二人から目を離すのもいかがなものか。
ああ、でももう、ダメ。
「……トイレ、行かないのか」
「——行きます! おい細波、変なことしないで待ってろよ!」
大男はありがたくも悶える私の様子を察してくれた。
食い気味に厚意に甘えることにして便所へと向かう。威勢の良さとは裏腹に、ちょこちょこと漏らさないように進む姿はなんとも情けない。
細波はただケラケラと笑っていた
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