第6話 由来は不明。しかしとにかく美味い
怪しげな建物から飛び出した私は大学沿いの大通りにちょうど出たところで体力の限界を迎えた。韋駄天のごとき俊足なればこそ、そう長くは保てないものである。サバンナに生きるチーターが良い例だ。
それはさておき、どうやらサクラノコウジもとい自称ボスの男やその手下どもは無事に振り切ることができたようで、少し安心した。
大学で楽しく暮らしたいのは山々だが、面倒くさいことはまっぴらごめんだ。それどころか危険なことなんて議論の余地もない。
ゆっくりと歩きながら息を整えた。親元を離れてから数か月、桜が散って梅雨も過ぎ、そろそろ緑が深まる頃だろうか。
私は結局何がしたいのだろう。
そんなことを考えてぼんやり空を見上げた。「とりあえず、疲れたな」独り言をこぼし、我がねぐらへと向かう。
部屋の中には雑然と物が散らばっていて私をうんざりさせた。自分でやった結果なのだからこれ以上見事な自業自得もあるまい。片付けても良いのだが如何せん面倒くさいことこの上ない。幸いベッドの上には枕と掛け布団の他に何もなく、身体を横にすることができるならば、と片づけを後回しにしてベッドの上に倒れこんだ。
久しぶりに全力で身体を動かすのは、どうやら思っているよりも体力を使うらしい。横になってからちょうど日が落ちるくらいに目を覚ますまで私は意識をすっかり放り出してしまった。
◆
昼寝から覚めたとき、たいていの人は頭がぼけているだろう。それは私とて例外ではなく、頭の中にはしっかりともやがかかっていたので、「ラーメンが食べたい」という欲求を満たすことしか考えることができなかった。
私にとって「ラーメン」とは歩いて数分のところにある「チュウ」というラーメン屋のそれを置いて他にない。三か月で私のラーメン観をすっかり変えてしまった恐るべきその味をすぐにでも味わいたい。
私はふらふらとベッドから立ち上がり、小銭と鍵だけ持って家を出た。換気のために開けていた窓は開けっ放しであったが、どうせがらくたばかりの部屋に盗人も入らないだろう。
私は「チュウ」に急いだ。
大学の近くにあるというのに「チュウ」というラーメン屋の存在を知るものは意外に少ない。かくいう私も「チュウ」については大学で噂を耳にしたのではなく、ぶらぶらと散歩していたときに、路地裏で細々と営業しているのを偶然見つけた。
初めて食べたときの衝撃は今でも鮮明に覚えている。その圧倒的美味に、これまで食べていたラーメンがすべて「チュウ」のまがい物であるようにも思えたものだ。
あんまり美味いので「これは大衆に広めてはいけない」と思うようになった。仮に「チュウ」の噂が広まれば行列は必死、溢れかえる客を捌ききれずに味は落ち、最悪店長が過労死してしまうことになってしまうだろう。そうなってしまって困るのは私だ。
「チュウ」の暖簾をくぐると、その日は珍しく先客がいた。座っていてもわかるくらいの長身に、服の上からでも容易に見てとれる筋肉を纏った大男で、ちょうど出来上がったラーメンを見て至福の表情を浮かべている。
細々と営業しているだけあって「チュウ」の店内はほどよく狭い。カウンターに席が五つあるばかりで、その上大男がその真ん中に座っていたので必然的に私は大男の近くに座ることになった。
特製らあめんを注文し出来上がるのを待っていると、その縦尺二メートルはありそうな大男がラーメンをすすりながらじろじろとこちらを睨みつけていることに気がついた。
ひょっとして何か気に障ることでもしてしまったのだろうか。私の太ももよりも太い大男の上腕に思わず息をのんでしまう。
ところがそんな心配もする必要は無かったらしく、特製らあめんが私の元に届けられるまで少しばかり空気が張り詰めるだけで他には何も起こらなかった。大男はラーメンを食べ終えると残っているスープを豪快に飲み干して「ごちそうさまでした」となんとも重々しく店長に感謝を述べた。ゴリラのような体躯に般若のような顔面が乗っている割に行儀の良い奴である。
その大男は店を後にする前になにやら思うところがあったようで、一度は外に向いた身体を店内の方に戻し、そして私の肩を二、三ぽんぽんと叩いた。あんまり突然のことだったので私は大層びっくりしてしまい、またラーメンをすすっているところだったので、危うくむせ返ってしまうところだった。
鼻水を垂らしながら恐る恐る振り返ると、大男は困った般若の顔をしてぽりぽりとバツが悪そうに頬を掻きながらこう言った。
「あんた。ツノ、出てるぜ。……気をつけなよ」
なんのことやらさっぱりわからないので、「なんのことやらさっぱりわからないぞ」という顔をしていると、大男は困ったように自らの額をとんとんと叩いた。それでもさっぱり伝わっていないことがわかったらしく、諦めたようにのそのそと引き返して店を出て行ってしまった。
ツノが出ているだなんて、随分おかしなことを言うやつだ。
しかし私はその夜、もっとおかしな場面に遭遇することになる。
花江先輩に誘われて、謎の大男に絡まれた上での出来事であったので恐らく私の持っているへんてこな事柄を感知するメーターがバカになってしまっていたのだろう。
なにせその場面において私は目の前で起こっていることを至極あっさりと受け入れていたのだから。
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