第5話 親友と謎の男とミルクの香り

 大学東門から出て表の通りを進み、三つ目に見える横道の方へ曲がって五分ほど歩いたところにそれは建っていた。


 いかにも古そうなアパートだ。赤黒く錆びた鉄筋や階段がその歴史を物語っている。


 貧乏大学生の苦汁がこれでもかと染み込んでいそうなそのアパートの様相は、花江先輩のような汚れのない清廉可憐な乙女にはとても似つかわしいとは言えなかった。


 私の脳裏にはある恐ろしい単語が浮かんでいた。


 花江先輩を餌にして私のような冴えない大学生をターゲットに、搾れるだけ金を搾ろうとする筋骨隆々の悪党——いわゆる美人局を生業としている輩の元に辿り着いてしまったのではなかろうか。


「花江先輩親衛隊」などという私の妄想よりもはるかに現実的で恐ろしい場面に直面し、思わず踵を返そうとした私の細腕は花江先輩の手によってがっちりと掴まれた。


「どこ行くのぉ? ここだよぉ。着いたってぇ」


 ぐいと引っ張られた私の身体はあっけなく花江先輩の前に置かれ、そのまま背を押されるがままにボロ階段を上っていった。私の必死の抵抗も空しく、力づくで階段を上り切らされ、そのまま扉の前まで来てしまった。


 その間、花江先輩に触れられているという幸福感が恐怖より勝っていたのだから、私の理性のなんと脆弱なことか。


 扉に二○二と彫られているのがかろうじで読み取れた。


 花江先輩が鍵を取り出し、扉を開けた。そのとき私の頭にあったのは、親友の細波のことであった。馬鹿だ馬鹿だとさんざん罵ってきた細波に比べても、私のなんと馬鹿なことか! 


 餌に食いついて釣られて食べられる魚に匹敵する低能は私の方ではないか。


 いや魚の方が身が美味い分私の方が能無しか。


 細波に心の中でこれまでの非礼詫び、そして本当は馬鹿でもモテたかったと懺悔のような祈りを抱えながら私は二○二号室の中に押し込められた。


「おう、来たか、近江」


 狭い廊下を抜けた先でキュウリにかぶりつきながらくつろいでいたのは、まごうことなく先ほど心の中で詫びた私の親友、細波であった。


  ◆


 築五、六十年はありそうなオンボロアパートに細波のような優男がふてぶてしく居座っている光景が私にとって衝撃的であったことは言うまでもない。


 振り返って、花江先輩を見る。そして、もう一度細波を見る。花江先輩のかわいらしい目尻も、親友の怠惰な姿もなんだか異様なオソロしさを放っているように感じる。


 すぐ背後に立っている花江先輩が、先ほどその協力無比な怪力によって無理やりこの二○二号室まで私を運んできたことが思い出される。


 私はそれに一切抵抗することはできなかった。花江先輩の身体に触れたという事実に私が反応していたということもあるが、抗い難き怪力によって私の抵抗はあくまで暴力的に押さえつけられていたのだ。


 つまりそれは今ここで花江先輩によって非人道的拘束を受けたとしてもそこから逃れる術はないということを意味し、私にとって花江先輩はとっくに恐怖の対象となっていた。


「なんだなんだ、オソロしくてたまらないって顔だな」


 細波はからかうようにケラケラと笑って茶化した。馬鹿のくせに昔から妙に勘の鋭い奴である。


「細波……お前、なんだってここに——」

「近江くん、細波くんは関係ないよぉ。会わせたい人は別ぅ」


 私の言葉を遮った花江先輩の指先は細波の座っている丁度向かい側を指さしていた。


 両手を枕のようにして寝そべっている着物姿の男にここまで私が気づかなかったのは、そんなことにも気がつかないほど動揺していたからだろう。


 実際、細波とその男がくつろいでいるその空間は非常に狭く、人が一人いるか二人いるか判別することなど本来ならば容易くできるはずだった。


 今すぐこの得体の知れない空間から逃げ出して、適当にラーメンでも食べてから一人暮らしをしている家に帰って眠ることが出来たらどんなに幸せなことだろう。


 私の体内虫はさっきからずっと警鐘を鳴らし続けている。


「やあ、はじめまして。近江くん。よく来てくれたね」

「はあ、どうも。近江です」

「うん。桜小路だ。よろしくね」

「はあ」

「まあ、狭いところだけどかけたまえ。椅子も用意できなくてすまないね。その代わりと言ってはなんだが、座布団はひときわ柔らかいものを使うと良い」

「ああこれは親切にどうも」


 和服姿の男の口調は拍子抜けしてしまうほど普通であった。そして驚くべきは、私があまりにも自然にその男の正面に座って大人しく話を聞こうとしていたことだ。


 それまで抱いていた不安や動揺は不自然なことにすっかり消えてしまっていた。


 それが男の態度や口調によるものであるのかはわからないが、とにかく男が話しだしてから妙に空気が和んだことは間違いない。


 花江先輩が男の隣に座り、細波もそれにつられて私と顔の向きを揃えた。私たちはちょうど二対二で向かい合う形となる。


 私にとって重要なことは、花江先輩が会わせたいと言っていた、サクラノコウジと名乗るこの男が一体何者であるのかということだ。


 面長の顔に細くて温和そうな目元。着物姿で肩にかかるほどの髪を後ろで結び、たっぷりと蓄えている白い口ひげを撫でつけるその仕草は、いわゆる仙人のそれであるように思われた。


「ええと、サクラノさん?」

「桜小路だよ。全部合わせて苗字だ」


 にこやかに訂正する間も、変わらずその右手は白髭を弄っている。


「サクラノコウジさん。随分珍しいような——いや、そうじゃなくて。ええと、とりあえず私が尋ねたいのは、どうして私が花江先輩にこんな……いえ、ここに案内されたのかということです」


「ふむ! 思ったよりも肝が据わっているみたいで非常によろしい。君にとっては得体の知れない環境であるにも関わらず、雰囲気に流されないところを見ると相当の精神力があるとわかる。花江くんが目をつけるだけのことはあるね」


 そう言っている間、花江先輩はせわしなく身体をゆすりながら「花江さんだってばぁ」とむくれていた。右へ左へ身体を揺らすたびにミルクのような甘い香りが男女四人ですし詰めになっている室内に霧散していく。


 細波は妙に落ち着いた様子でぴくりとも動かない。


「——で、だ。花江くんはどうやら君に何も知らせていないようだね。マア、花江くんは見てわかる通り少しばかり平和な頭をしているから、ボロが出ないように有力な人材は何も言わず僕に会わせるように普段から言いつけてあるのだけどね。


ふむ。何から話したものかな。とにかく突拍子もなくて奇妙な、それでいて少しばかり危険を伴うかもしれない話なんだ。そうだな、まずはこの地のタヌキにまつわる伝承から——」


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 私はすんでのところでサクラノコウジの話を遮ることができた。思わず聞き入ってしまうところであったので本当に危ないところである。


 話の流れは明らかにおかしな方向へと向かおうとしており、これ以上放置していたら突拍子もなくて奇妙で、なにより危険な話の渦中へと巻き込まれてしまうところだ。そんなことになってたまるか。


「尋ねたいとは言いましたが、そんな話を聞く気は毛頭ありません! 危険なことはまっぴらだ! 失礼ですが、もう帰らせていただきますよ」


 私が立ち上がると、細波やサクラノコウジや花江先輩が私を押さえつけようとしてくる——なんてことはなく、細波と花江先輩は相変わらずであり、サクラノコウジも「クカカカカ!」と豪快に笑うばかりである。


 私があっけにとられていると笑い終えたサクラノコウジが口を開いた。


「それは申し訳なかったね。危険なことに巻き込むつもりではあったのだが……まさか君がそれを拒むとは。いや、本当にすまない」

「ど、どういうことだかさっぱりだ!」


「近江、まあ落ち着けよ。あまり騒ぐな。……囲まれてるんだ」


 私をいさめたのは細波であった。花江先輩は変わらずミルクの香りを振りまいている。


「囲まれている? 何にだ! さてはサクラノコウジ、お前の手先だな! 花江先輩に私を案内させたように、今度も力づくで押さえつけようというわけだ。


 ここにいる三人では心もとないからさらに人を増やしたというところだろう! 生憎私は力の強い方であるが、更に韋駄天の豪脚をも持っているのだ。包囲されているからといってそれがわかっていながらみすみす捕まったりするものか!」


 私は言うだけ言って隙をつき、全速力で逃げ出した。空を切る音を聞いたのは久しぶりで、明日の筋肉痛のことを考えて少しばかり憂鬱になる。


 部屋を出る直前、サクラノコウジの声が聞こえた。


「僕のことはサクラノコウジではなく、ボスと呼べ!」

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