第4話 愛しき乙女とのデートを楽しめないのは往々にしてあることだ
その後の講義の内容はまったく頭に入ってこなかった。
中年でちびで禿げ頭の教授がなにか小難しいことをちょろちょろと喋っているなあと思いながらも、私の頭の中は別のことでいっぱいであったので、ちびはげ教授の話をそれ以上注意して聞くことはできなかったのだ。
ちびはげ教授よりも、花江先輩の方が大事であるのは言うまでもなく、そして仕方のないことである。
私は講義の間中ずっと迷っていた。花江先輩の待つ食堂へ行くべきか、それとも行かざるべきか。ちびはげ教授は学生を指名するようなことをしないので、十分に迷う時間があったから、私は全身全霊をかけて熟慮した。
結果として、私は花江先輩のところへ向かうことにした。どうせ誘われた時点で命運尽きているのだと気がついてから開き直るまでは実に早かった。
もしも「花江先輩親衛隊」が実在したとしてその圧倒的な情報量を駆使されていたとしたら、私が花江先輩と会話をし、あまつさえ食事に誘われたという事実は筒抜けているだろう。そして「花江先輩親衛隊」は私を決して許しはしない。彼らにとっての女神を汚す輩は即刻排除されてしまうだろう。
一介の大学生にとって、もはや「花江先輩親衛隊」から逃れる術はない。術はないのだからあれこれ悩むよりも、残り少ない人生を謳歌してしまおうというわけだ。
何よりも、花江先輩を食堂で待ちぼうけさせるわけにはいかない。
花江先輩のためなら後でどんなことになってもいいやと思いながら食堂へ向かうと、群衆の中でひと際目立つ、真っ白なワンピースの純朴華憐な乙女を見つけた。花江先輩である。
「お、来たねぇ」
花江先輩は私を見つけるなり、それまで読んでいた文庫本をぱたんと閉じて、正面に座るよう促した。「き、来ました」という返事が裏返ってしまい、自分でも驚くほど緊張しているのがわかった。冷や汗をドバドバと滴らせる私をみて花江先輩はくすくすと笑った。
「来てくれないかと思ったよぉ」
「そ、そんな! せっかくお誘いしてくれたのに!」
「ふうん。でもやっぱり講義の方が優先なんだもんねぇ」
私が返答に困るのを見て花江先輩はまたくすくすと笑った。意地の悪さがまた愛らしい。心なしか周りの人々から私に嫉妬ややっかみが向けられているような気がするが、緊張でよくわからなかった。
「冗談だよぉ。それより、なんか飲む? すごい汗かいてるし」
「いえそんな、自分で買いますよ」
「いいのいいの。来てくれたお礼だよぉ」
「じゃ、じゃあ、コーヒーを。ブラックのやつ……」
「はぁい」と言いながら花江先輩は席を立ちあがり、自動販売機で缶コーヒーを買ってきてくれた。待っている間も「ブラックなんて、大人だねぇ」と花江先輩がはにかむのを見ても、緊張が治まることはなかった。
「さてと。で、話なんだけどぉ——」
コーヒーをくぴくぴと飲んで何とか平静を取り戻そうとする私をよそに花江先輩は話を始めた。花江先輩の話し方はヒヨドリのように愛らしく、それでいてとてもゆっくりでしかもあまり要領を得なかった。
要約すると、「ここで詳細を話すことが難しいから、場所を変えたい。会わせたい人もいる。近江くんにとっても悪い話じゃないと思う」と、こんな具合のことを言っていた。これにはさすがに二つ返事で了承した。毒食わば皿まで。どうせ「花江先輩親衛隊」に始末されるならば、花江先輩とデート気分でも味わってから始末された方がいくらか良いだろう。
私はコーヒーをぐいと飲み干すと、くるくる回りながら先導してくれる花江先輩の後を追うようにして食堂を出た。
大学を出るまではひたすらに居心地が悪かった。すれ違う人全てが花江先輩に見惚れているようだったし、私を目の敵にしているようだった。わざと私に寄ってきて舌打ちしてくる輩もいた。私の方を指さして友人となにやらヒソヒソとなにやら話している女の子もいた。花江先輩はのんきに鼻歌を歌いながら両手を広げてゆったり回りながら歩いていた。
どうして私がこんな目に合わなければいけないのだと少しだけ後悔したが、花江先輩が楽しそうに歩いている。そのあまりに幸せそうな顔を見るとこちらまでなんだか心が洗われるようである。
そんな人と肩を並べて歩いているだなんて! 自分が今幸せの絶頂にあると必死に言い聞かせれば、多少の逆境などなんとか我慢することができた。
今さらながら、私は思い込みの激しい方である。
大学の外に出るとさすがにやっかみは落ち着いてきて、ついでにようやく私の緊張も落ち着いてきた。最寄りの駅を素通りして坂道を歩いていく途中で私が花江先輩の回転を受け止めることがでたのもそのためだろう。
「一体僕たちはどこに向かっているのですか。それと、僕に会わせたい人って誰なんでしょう」
花江先輩は急にそんなことを尋ねられて、もともと大きなくりくりとした目をさらに大きくあけてまん丸にしていた。どうやら驚いているみたいだ。私の語気が少し強かったせいかもしれないと少し反省したところで、花江先輩はまたくすくすと笑った。
「いいところだよぉ。きっと、近江くんも気に入ると思うなぁ」
それだけ言うと花江先輩はまたくるくると回りだし、真っ白なワンピースのスカートがひらひらと舞った。私はそれ以上追及することも、振り切って逃げだすこともできず、ただただ花江先輩の数歩後ろをとぼとぼとついていく他なかった。
これでは花江先輩ではなくて大きな白い独楽と歩いているようなものだ。
そんな風に空を見上げていると、急に花江先輩が立ち止まり、それで私は不意にその背中にぶつかって「わぷっ」と情けない声を漏らしてしまった。
「着いたよぉ」
最後にくるりと一回転。そして半回転して私の方を向き、花江先輩はそう言った。
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