第20話 仕事と礼拝

 私は周囲を見まわし、使える物がないか探した。

 まずは脇机の上に水差しが置かれているのが目についた。水差しはプラスチック製。流石にガラス製と云う訳にはいかない。水はまだ半分ほど残っていた。



 試しに手に力を籠めてみる。……わずかに動いた。薬の分量が甘かったと看守を責めるのは酷だろう。いずれにしろ、力が入らないのだ。並の者には自殺など出来よう筈もない。

 伸ばした指さきが、壁らしきものに当たる。壁は漆喰が少し崩れていた。感覚の殆どない手で撫でると、また崩れた。

 使えるかも知れない、と思った。長い夜になりそうだ、とも。


 私は、壁の崩れた部分を搔き始めた。





 筋弛緩剤は一種の麻薬ハシッシュかも知れない。麻痺した体で単純作業を長時間続けて(一時間置きの巡回が、もう四度あった)、頭だけが妙に冴えてくる。いや。冴えたように見えて、実は酩酊しているのか――。


 醒か睡か定かならぬ高揚のなかで私は、標的ターゲットを想った。


 涙とともに親友を手にかけた君よ、義と誠をこそ至上と心得た君よ。自らを咎人とがにんと断じた君の審判を、私はたっとしとしよう。




 さて。

 私の作戦は、餅を喉に詰まらせるお年寄りに想を得たものだ。崩れた漆喰を砕いて、水差しの中に入れ掻き混ぜる。


 やがて出来上がった土塊つちくれのペースト。ベッドに横たわったまま、口の中へ注いでいく。

 食道も気道も諸共に埋めるよう念入りに。直ぐに息が苦しくなる。涙とはなみずが流れる。

 幾度もの自殺で培った精神力で、私はその苦痛に堪えた。

 尋常ならば私の意思に拘らず自律神経が働き、み下すかき出すかする筈だが、幸か不幸か筋弛緩剤で弱ったこの躯は、それ丈の力さえ残していない。


 最早もはや、肺へ酸素を届ける道は断たれた。数分のうちに、脳への酸素供給も止まるだろう。徐々に私の意識は薄れていく。




 遠くから朝の礼拝を促す声が聞こえてきた。隣の独房で何者かの起き出す気配がする。夜明けが近づいているのだ。

 イスラム圏ではお馴染みの、毎日五回の礼拝を促す音声は、此処ではモスクの塔からではなく廊下のスピーカーから流れる。美しい調べに乗って発せられる言葉はコーランの一節を誦唱しているのではなく、礼拝に来たれといざなうだけの内容らしい。



 死に行く君に代わって、神に感謝の祈りを捧げよう。最後の審判までの束の間、安らかな眠りを得るがいい。君がその手にかけた親友と、そのとき涙を流して抱きあえるならば――私も喜んで祝福しよう。

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