第3話 スカーフと飲酒

 イスタンブルとアンカラとを結ぶ高速鉄道は、開通してから幾らも経っていない。

 車両は清潔で快適だ。全席指定の座席はほぼ埋まって、私の隣にもビジネスパーソンらしい着こなしの女性が座っている。

 席に着いたとき軽く挨拶したきり私が眠り込んでしまったためそれ以上の会話もなかったが、改めて見ると美人だと気づいた。凛とした眉、大きな瞳。ウェーブのかかった濃茶の髪にはスカーフをしていない。


 トルコ共和国は人口の99%がイスラム教徒だが、女性は必ずしもスカーフを着けると限らない。

 これは救国の英雄にして共和国建国の父・アタテュルクの方針に由るもので、政教分離を強力に推し進めた各種改革は服装にまで及び、かつては公共の場でのスカーフ着用が禁じられることさえあった。


 だが時代はめぐる。

 数年前にこの地を訪れた時よりスカーフ着用者が増えている気がするのは、現在の大統領がイスラム回帰を志向している為だろう。

 いずれにせよ、トルコ人と話していて思うのは、彼らのイスラム解釈や生活への反映の仕方が人に依り大きな幅を持っていることだ。


 例えば飲酒にしても、調理用にワイン一滴垂らすことさえ許さない者から、自家内限定で酒を嗜む者、堂々と屋外で飲酒する者まで様々だ。

 なにしろ、ほぼ全国民がイスラム教徒でありながら、街には酒を出すレストランがあり、スーパーにはビール、ワイン、ラク(トルコの蒸留酒)、ウォッカなどの酒がずらりと並ぶのだ。イスラムの戒律と云えば禁酒を想起する多くの者達にとって、これは不可思議な光景に違いない。私も初めて見た時は首を捻った。


 飲酒派の友人曰く、「神は、酒そのものを禁じたのではない。酒で人に迷惑をかけることを禁じたのだ」と。

 云われてみれば、酒に飲まれて大暴れする者を、トルコで見たことはない。


 ここまで考えて、鞄の中に潜ませたビール缶を取り出すのは止めにした。ほんの三時間とは云え、折角旅のともとなった美人のお嬢さんに嫌われるリスクを冒すことはない。

 先刻から凄まじい勢いでスマホに何やら打ち込み続ける彼女の指遣いに見れていると、視線に気づいたかお嬢さんは顔をこちらへ向け、頬笑んだ。

 実に好感の持てる笑顔だ。

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