公爵家の馬丁リシャール(一)
テネーブル家に馬丁として勤めているリシャールと申します。お前誰だよ、本編には登場していなかったぞ、とおっしゃるお気持ちも分かります。ガブリエル編と御者マルタン編に少しだけ登場していた私ですが、実はこの幕間のトリを飾るほどですから非常に重要な証人なのです。
私は以前、王都警護団勤務でした。若くて独身の頃は良いですが、やはり結婚して家庭を持つと勤務時間が決まっていて危険の少ない職に就きたいと思うようになったのです。そんな時、父親マルタンが勤めているテネーブル公爵家に馬丁として運よく雇われ、少し前からここで働き始めました。
いつものように
「君、マルタンの息子だよね。名前は確か……」
それはフランソワお坊ちゃまでした。急ぎで馬車か馬が必要なのでしょう。
「はい、リシャールと申します。お坊ちゃまの御前でこんな恰好で失礼致しました。申し訳ございません」
そこに掛けてあったシャツをすぐに羽織ろうとしました。
「いや、そのままでいいよ。いつも見ていたのだけど、君って結構鍛えていて良い体つきしているよね。ほら、特にこの腹筋とか……」
耳を疑いました。お坊ちゃまは上半身裸のままでいいとおっしゃって私に近付き、何とおもむろに私の腹周りを触り出したのです。思わず悲鳴を上げそうになったのを
たった今、いつも私のことを見ていたと言われたようです。私はそういう目をつけられて狙われていたのでしょうか。
「はい、以前警護団に勤めていたこともあって、鍛錬は欠かしません。この洗濯板を保持するのは中々大変ですが……」
動揺を隠そうとして、お坊ちゃまの前で洗濯板などと意味の通じないことを言ってしまいました。
「洗濯板? 僕、実物の洗濯板は見たことないけれど、その割れた腹筋のことだよね」
マッチョ男好きなのでしょう、流石お坊ちゃまは俗語にも通じておられるようでした。いえ、今はそんなことはどうでもいいのです。
「リシャール、そんな君を見込んで頼みがあるのだよ。もちろん報酬は弾むから」
私は目の前が真っ暗になりました。自慢の洗濯板を撫でられながらニヤニヤと笑う高貴な雇い主に札束をちらつかされたら……いえ、ちらつかされなくても、一介の馬丁である私はこのパワハラセクハラに屈する以外の道はありません。
私だけならともかく、父親は定年までこの屋敷で勤め上げさせてやりたいのです。そんな金があるなら下賤な俺に目をつけるよりも頼むから高級娼館にでも行ってくれよ、と心の中では毒づいておりました。
「あ、あの、お言葉ですが……お望みでしたらその道の専門家をお雇いになれば宜しいのでは……」
うちの父によると彼は穏やかな気性の方だそうですが、それでもあまり刺激しないように恐る恐る進言してみました。
「いや、そんな暇もあまりなくてね。君ならいつも屋敷にいるから気軽に頼めるし、なよなよした貴族の相手しかしていないような人間よりも、もっとこう、なんて言ったらいいのか、君のような武骨でワイルドな感じが良くてね……」
そう言いながらお坊ちゃまは大いに照れています。そんな彼を可愛いと思ってしまった自分に愕然としました。そして絶望で目の前が更に真っ暗になりました。
要するにお坊ちゃまの好みは高級娼館の
人の好みはそれぞれで、私が彼の性癖にがっつりはまってしまったということです。しかもお屋敷で毎日働いている私は即呼びつけられるのです。しかもしかも、父親を人質に取られている私は性のはけ口として使い放題なのです。
妻には心の中で謝罪しました。覚悟をして心の準備を万端にするために、大きく深呼吸をしました。
『あの……私の役割は多分攻めなのでしょうけれども、もしかして意外にも受けなのですか、それともまさかの両方ですか?』
そう聞こうとしたところでした。お坊ちゃままでいきなりシャツを脱ぎ始めるのです。
「お坊ちゃま、今すぐここでですか!? 他の馬丁が……私も心構えがまだ……」
「ねえリシャール、見てよ。僕も君のそんな逞しい洗濯板が身につけられると思う?」
テンパっていた私は『ねえリシャールゥ♡僕を見てよぉ♡』の部分しか耳に入っていませんでした。見られて興奮する
今ここに同僚が入ってきたら……もう自分も父親の立場もどうでも良く、シャツをひっつかんで逃げ出すことにしました。
「お、お坊ちゃまも……とりあえずお召し物を……」
「仕事の合間でいいから、どんな鍛錬をしているのか僕に教えてくれないかな。体を鍛えたいんだ。君のような見事な筋肉は流石に無理だろうけれど、どのくらいで見た目の変化が現れると思う?」
「は、はい? えっと……」
こうした経緯でお坊ちゃまと私は主従関係を越えた男同士の裸の付き合い(注:全年齢対象可)をするようになったのでした。
恋する一人の男子であるお坊ちゃまは先日クロエ様と騎士道大会を見に行かれたのでした。クロエ様とはお坊ちゃまが入れ上げている女性です。
まだ二人きりで出掛ける段階ではなく、テネーブル家の皆様もご一緒でした。とにかく、そこでクロエ様が目をハート形にして、むくつけき騎士団の男どもが剣を振るっている様子を見ておられたそうでした。
要するにお坊ちゃまは彼女がマッチョ好きだから一念発起されたのです。
お坊ちゃまは彼女のために専用の馬車も用意して、屋敷中の人間がその馬車のことをクロエ専用の『クロエ号』と呼んでおりました。
その麗しい見た目に社会的地位と経済力からして、ほとんどの女性は意のままに出来ると思われるうちのお坊ちゃまです。
次期公爵ともあろうこの方をここまでやる気にさせ、血の
絶世の美女に違いありません。御者として勤めている父なら彼女を見たことがあるだろうと思い、聞いてみました。
「普通の感じの良いお嬢様だ」
「あのお坊ちゃまがベタ惚れなんだよな」
「主家の方々の噂をするのは良くない」
昔気質の父はそれ以上何も教えてくれません。
さて、うちのお坊ちゃまは文官ですから筋トレをすると言っても騎士の皆さんとはスタートラインが違います。
「まあ確かに、男の大多数が巨乳好きであるように、多くの女性……と一部の男も筋骨隆々な逞しい身体にときめくのでしょうね。お坊ちゃまはゴリマッチョ系ではありませんから、細マッチョを目指しましょう」
「僕、頑張るよ」
「私の訓練は厳しいですよ。世の中には金貨をいくら積んでも買えないものも多いですからね。洗濯板も本人の努力次第です」
最初は貴族の御曹司の気まぐれですぐに飽きるだろうと私も思っていました。お坊ちゃまのおっしゃる報酬もあまり当てにしていませんでした。
大体うちのお坊ちゃまは別に洗濯板がなくて少々お腹が出ていても他に女性を惹き付ける要素はいくらでもあるのです。それでも、更に上を目指して精進するのはいいことです。
それから何度か御者の父の代わりに時々クロエ号を私が御することがありました。噂のクロエ様は父の言う通り、普通のお嬢様でした。まだ二人は交際するに至っていない、そんな感じで、お坊ちゃまの方がつれない彼女を追いかけているだけの段階のようでした。
「ありゃあどう見てもお坊ちゃまがヘタレでクロエ様は相当のツンデレだよなぁ」
「リシャール、そうして主家の方の噂は固く禁じられているだろう!」
父親にはそう叱られましたが、屋敷中の人間がそう思っているに違いありません。
(二)に続く
***ひとこと***
腐女子の皆さまが期待されるような展開にならず、申し訳ありませんと言うか……リシャールさん、主従関係を越えた裸の男同士でも健全な付き合いにとどまって良かったですね!
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