辻馬車の御者の皆さん
辻馬車の御者その一です。
それは年の瀬も迫りつつあった冬の朝のことでした。貴族の立派な屋敷に出向き、そこで若い男女を乗せ、バ・ラシーヌまで行くように言われました。その二人はバ・ラシーヌのその辺りに縁があるようななりをしていませんし、何事かと思いました。
その日は不運が重なった日でした。
まず道中、黒猫だか犬だかいきなり馬の前を横切るので急に止まらざるを得ませんでした。
「ヒヒーン!」
馬まで大袈裟に
「申し訳ないです旦那、たった今猫だか犬だかが前を横切って馬がびっくりしたもので……」
「い、いや。大丈夫だ」
寛容な御仁のようでした。ところが、今度はろくに整備もされていない道に入り、馬車の揺れ方に嫌な予感がしてきました。バ・ラシーヌではこんな道は当然のことですが、揺れが酷いと苦情を言われるのではないかとビクビクしていました。
ついていない時はとことんついていないもので、今度はガクンと音がして馬車が少し傾き、私の体が衝撃で跳ね上がりました。車輪が壊れたのかどうか、ガガガゴゴゴと非常に不吉な音がしています。
心の中で悪態をつきながら馬車を減速して止めました。降りて確認すると、案の定車輪が路面の穴にはまった衝撃で痛んだのです。男の方の客も様子を見るために降りてきました。かなり不機嫌そうな顔をしています。
「こりゃあ駄目だ、修理に出さねぇと。旦那全く申し訳ないです、今他の車をつかまえて来ますのでそちらをお使い下さい」
「分かった……」
貴族を乗せている時に限ってどうしてこんな事ばかり……馬車の点検を怠ったことはありません。辻馬車が捕まえられそうな路地まで走り、運よく一台見つけられました。顔見知りの同僚の御する馬車でした。
「あーあ、ここまでの運賃、払ってもらえねぇだろうなぁ……金持ちに限ってやたらけち臭いんだよなぁ……」
「まあまあそう気を落とさなくってもいいさ」
そいつにまで同情される始末です。ところが、その若い貴族は私が代車をすぐに見つけられたから機嫌を直したのか、そこまでの運賃に心付けまでくれました。
***
辻馬車の御者その二です。
ある日バ・ラシーヌの路地で客待ちをしている時、同僚の御者に故障した彼の馬車の代わりに客を乗せてくれと頼まれました。彼によるとやたら金を持っていそうな貴族の若い男女だそうでした。
そして私は落ち込んでいる同僚を乗せて現場に向かいました。行き先はそこからそう遠くはない庶民の住む地区でした。貴族にはまるで縁のないような場所です。
連れの女を先に馬車に乗せた男が私に囁きました。
「郊外の方まで遠回りをして、半時くらい適当に流してくれないか。それからなるべく舗装された道を通ってくれ、また馬車が故障しても困る。バ・ラシーヌの指定の住所で彼女が降りた後は王宮正門へ向かってくれ」
「分かりました」
朝っぱらからサカっているのは別に私に関係もありませんし、構いません。出来ればこっちが恥ずかしくなるような喘ぎ声や嬌声をあげず静かにヤッて欲しいもんだと願いながら馬車を走らせました。車内を汚されたり、あまりに激しい行為で座席を破壊されたりも困ります。
私は指示に従い、半時ほどの遠回りをしました。幸いなことに淫らで
さて、目的地に近付いてきました。指示通りに時間稼ぎもしましたが、車内でまだ盛り上がっている最中で馬車を止めても中々降りて来なかったらどうしようなどと心配になってきました。
女の方はここで降りると言っていましたが、ただのボロ借家のようです。あまりに彼らは場違いなのです。人には言えない仲で、パパラッチを避けての密会かもしれません。
「もしスクープされたら『貴族〇〇、白昼堂々ゲス不倫!』とかいう見出しで記事になんのかなぁ。俺のところにも記者が来て目撃証言を求められたりしてさ……最近はただの不倫にもやたら名前が付くんだよな、確か。だとしたら辻馬車不倫とか、出勤前不倫とかだな……」
そんなことをボソボソと
私の不安をよそに、馬車を止めると男が先に出てきて、女の手を取って降ろしていました。住所は確かにここで合っているようでした。
私が横目でちらちらと眺めていると案の定、別れ際に口付けていました。二人共特に衣服は乱れていないようです。女は手慣れた様子でボロ家の鍵を開け、中に入って行きました。男は彼女の背に向かって投げキッスなどしています。
そして男だけを乗せた私の馬車は王宮正門に向かいます。到着するとやたら機嫌良さそうな彼から運賃と過分な心付けをもらいました。その心付けの多さに気を取られて、車内を汚していないかすぐに点検し忘れ、気付いたら男は王宮の中に消えていました。幸いなことに座席の破損もなく、車内は綺麗なままでした。
***
辻馬車の御者その三です。
ある夜、バ・ラシーヌの商店街で客待ちをしていました。店も大部分が閉まり、人通りも少なくなってきたので今日はもう客は取れないだろうと思っていたところでした。若い女が手を上げながら全速力で駆けてくるのです。
「カルティエ オ・ラシーヌまでお願いします!」
しかも何故か凄い剣幕です。ここからこんな時間にオ・ラシーヌに行くなど、住み込みの侍女が貴族のお屋敷に戻るのだろうと思いました。門限でもあるのでしょう。
そして言われた通り、大貴族様のお屋敷に向かってそろそろ橋に差し掛かるところでした。私の馬車の後ろから一台の馬車がかなりの速度で近づいてきました。
同じく、オ・ラシーヌに住み込みの使用人が門限に間に合うように帰るところでしょうか。それにしても馬が気の毒になるくらいの速さです。私は馬車を少し右に寄せ、道を譲りました。橋の真ん中で私を追い抜いたのは立派な馬車で、使用人ではないようでした。
「お貴族様の馬車はあんなにぶっ飛ばせるもんなんだなぁ」
そんなことを呟いていた私です。そこでいきなり前の馬車が道を塞ぐように急停車したのです。馬が
「よう、何なんだ? ちゃんと道は開けてやっただろーが!」
そう叫ばずにはいられません。
「あの、事故ですか? でしたら私はここから歩いて参りますので……」
「いや、それがね、お嬢さん……俺にも何が何だか……」
そこで前の馬車に乗っていた人物がこちらに駆けてきました。
「クロエェー!」
その若い男は私の馬車の扉を開け、私の客の手を取って降ろしていました。
そして男女は橋の真ん中で向かい合い、何か二言三言交わした後に抱き合っています。貴族のボンボンが侍女に手を出したという筋書きでしょうか。
「お盛んなのは分かったし、構わねぇけど……イチャイチャ始める前に運賃払ってくれよぉ……」
前の貴族の馬車は橋を渡りきっています。私もしょうがなくその馬車について橋を渡りました。
そうすると、向こうの御者がなんと私に運賃と心付けを払ってくれたのです。流石お貴族様は使用人まで気前が良いのです。ボンボンの火遊びの手引きをする御者という役割でしょうか。
「まあお互いに夢中で周りなんて目にお入りではないでしょうが、恋人達の邪魔をしないように、念のため他の橋を渡って帰ってもらえますか」
「そりゃもちろんさ。いやあ悪いね」
お陰で一杯飲んで帰る資金も出来、私は上機嫌で馬車を発車させたのでした。
***ひとこと***
御者その一さん、不運が重なってしまって残念でした。フランソワ君は念願のキスが出来なかったにもかかわらず、律儀に運賃+心付けまで払ってくれました。
御者その二さん、考えていることがかなりキワドイですが、作者はこの方を書くのが一番楽しかったという……フランソワ君はやっとキスが出来て、しかもクロエにムフフなお願いをされて、彼に遠回りするように頼んで大正解でした!
御者その三さんは言わずと知れた、最後のロマンティックな橋のシーンで登場した方です。彼のお陰もあって二人はハッピーエンドを迎えたのでした。
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