公爵家の御者マルタン(一)


 読者の皆様こんにちは。マルタンと申します。テネーブル家に御者として勤めて早二十年近く経とうとしております。ガブリエルお嬢様とフランソワお坊ちゃまがまだお子様だった頃からこのお屋敷に仕えております。


 この私が将来テネーブル公爵夫人となられるクロエ様を初めて馬車にお乗せしたのは年が明けたばかりのある寒い日のことでした。彼女が当時お住まいの地区は公爵家の方をお連れするような場所ではありませんでしたから、私は不案内でした。


 それでも私はガブリエルお嬢様が少女の頃にこの近くまで彼女を送り迎えしたことが何度かありました。お嬢様の片割れと呼ばれる存在であるザカリー様の生家があったからです。クロエ様もそのすぐ近くにお住まいでした。


 その日はお坊ちゃまから直々に、仕事帰りの迎えは何故か使用人用の馬車で来るようにと命じられておりましたし、ガブリエルお嬢様もご一緒でした。それに平民の住宅街に向かえと言われたので良く覚えております。


 私もこの道三十年の御者でございます。不案内ながらも、ろくに整備もされていない狭い路地を進み、幸いにも迷うことなくクロエ様を自宅まで送って差し上げることが出来ました。




 その後すぐにお坊ちゃまは厨房の使用人や執事が使うその馬車をご自分の普段使いの馬車にする代わりに彼らにはもっと立派な馬車を新調されました。


 それからというもの、度々公爵家を訪れるクロエ様を自宅までお送りする時にはその使用人の馬車を使い、お坊ちゃまがいつも同乗されておりました。


 使用人達は新しい馬車について純粋に喜んでおり、ご家族の皆様はお坊ちゃまがそこまですることを面白がっておられるようでした。その馬車のことを旦那様と奥様がクロエ様専用の『クロエ号』と冗談で呼び始め、屋敷中にその呼び名が浸透しました。


 その頃から既に私達使用人はクロエ様が将来の公爵夫人になられるお方なのだろうという予感と期待がございました。私はよくクロエ様をご自宅までお坊ちゃまとお送りしておりましたから、より確信を深めておりました。


 その頃はまだお坊ちゃまだけが先走っておられるような感じでございました。クロエ様の方はまだお坊ちゃまと恋人同士という感覚がおありでなかったようなのです。


 というのも私はしっかり目撃していたのです。ご自宅に入って行かれるクロエ様の背に向かってお坊ちゃまは毎回熱烈な投げキッスを送っているところをです。何とも微笑ましい若いお二人でした。


 同じくお屋敷で馬丁として働いている息子のリシャールも私の代わりに時々馬車を御することがありました。息子はいつもこんなことを申しておりました。


「ありゃあどう見てもお坊ちゃまがヘタレでクロエ様は相当のツンデレだよなぁ」


 私は古い人間ですから息子のような主家の方々への馴れ馴れしい言葉遣いや噂話は許せないのです。へたれ、つんでれ、その他若者言葉は良く分からないながらも、毎回注意しておりました。


「リシャール、そうして主家の方の噂は固く禁じられているだろう!」


「へいへーい、いやだけど、旦那様奥様始め、屋敷内の全員が思っていることだよ。親父だって同じ意見だろ?」


 意味が分かりませんから同意のしようもありませんでした。




 そして季節は巡り、再び寒い冬がやってきました。そんな時にあの恐ろしい事件が起こったのです。


 その日はガブリエルお嬢様がザカリー様の御実家にりんごをお裾分けしたいからと、お仕事の後『クロエ号』をお使いでした。お嬢様は丁度王宮でクロエ様にお会いしたのでしょう、彼女も送って行くことになりました。


 りんごを届けた後、クロエ様のご自宅に向かっているところでした。狭い人通りのない路地で、いきなり男が馬車の前に現れたので馬車を止めました。すんでのところでいてしまうところでした。


「危ないっ!」


 その男は何故か素早く御者台に上って来たのです。私が次に何かをいう前にお腹に一撃を加えられ、そこで不覚にも私は意識を失ってしまいました。


 目が覚めた時には湿った冷たい地面の上に手足を縛られて横になっていました。情けないことに、私がやっと状況を把握出来るくらいに正気が戻った時には全てが終わっていたのです。


 誘拐犯の男は蝙蝠こうもりふくろうに攻撃されており、そして強い風のようなものに押されて後ろに吹っ飛んで伸びていました。


 後から知ったのですが、それはお嬢様が使った攻撃魔法だったそうでした。私の手足の縄が解かれたのもお嬢様の魔法だったようです。


 クロエ様はお坊ちゃまの腕の中で泣きじゃくっておられました。ザカリー様までいらしてガルリエルお嬢様に抱きつかれています。そうこうしているうちに警護団の方々が大勢駆けつけ、男をしょっ引いていかれました。


 クロエ様のご様子から、大層怖い目に遭わされたのだということが分かります。真っ先に意識を失ってしまった私は申し訳ない気持ちでいっぱいでした。


 お坊ちゃまとザカリー様はリシャールの御する公爵家の馬車で私達を救出に来られたのです。ガブリエルお嬢様はザカリー様とご一緒に先に帰宅されたようでした。『クロエ号』は証拠の品としてしばらく警護団に引き取られることになり、私達は公爵家の馬車で帰宅しました。


 馬車にはお坊ちゃまとクロエ様がお乗りになり、私はもちろん御者台のリシャールの隣に座りました。


 テネーブル公爵家に無事に戻ると、クロエ様はまだ泣いておられたのに、ご自分のせいで事件に巻き込まれたことを私に謝られました。私の方が申し訳ない気持ちで一杯でございました。


 とにかく若いお嬢様お二人には怪我もなく、何もされなかったことに安心しました。息子のリシャールにも大層心配を掛けたようでした。


「普段は超ヘタレで何だか頼りなさそうなお坊ちゃまだけど、愛しい彼女とガブリエル御嬢様と優秀な御者の危機となったら別人のように男らしくて冷静でさ、見直した。まあとにかく皆無事で良かったよな、親父」


 また主家の方のことをそんな風に話して、と今日ばかりは叱る元気もありませんでした。とにかく今晩はゆっくり休むことにします。


 私は翌日警護団の方に事件の被害者として話を聞かれました。と言っても真っ先に気を失った私ですから特に証言することはありませんでした。


 息子のリシャールは馬丁としてテネーブル家に職を得る前、警護団に数年間在籍しておりました。事件の後、リシャールが元同僚に聞いたところによると、誘拐犯は捕らえられて二年ほど牢獄で服役した後は釈放されても王都追放というなんとも厳しい罰を与えられたそうでした。




(二)に続く




***ひとこと***

優秀な御者であるマルタンさん、最初にクロエの家まで行った時には全然迷わずにすぐに着いてしまったのでフランソワ君に少々恨まれていたのですよね……


さて、ここにも投げキッス目撃者がいましたよ!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る