マダム・サジェス(二)
フランソワ・テネーブルという名前を聞いて驚きを隠せませんでした。私だって新聞記者の端くれです。テネーブル公爵家くらい知っています。公爵家の貴公子が帽子を取り、ただの町娘である私に頭を下げたのです。
「次期公爵さまがしがない庶民の私に何をお聞きになるとおっしゃるのですか? とりあえずそちらにお座り下さい」
動揺を悟られているのは分かりましたが、なるべく落ち着いたふりをしました。
「まず、クロエ・ジルベールさんの親友である貴女に彼女のことを色々聞きたくてね。彼女の好きな食べ物とか好みとか、苦手なもの、そうだね、それに理想の男性のタイプ。あ、クロエは僕の職場の後輩でね、君のことを時々話してくれる」
彼の口調が少しくだけたものになりました。クロエの想い人である高級貴族が何故かうちの店まで押し掛けてきたのです。
私は数秒間、目を見開いてぽかんと口が開いたままになっていたことでしょう。そして意外なことを私に聞いてくる彼が何だか可笑しくて、笑いを堪えるために声が震えてしましました。
「ほ、本人に直接お聞きにならないのですか?」
「あまり根掘り葉掘り聞くよりも……彼女のことを良く知っているだろう君に聞く方が正確な情報を掴めると思ったから。それに仕立屋の君にたってのお願いもある」
「そうですか……」
クロエの嗜好などは正直にテネーブルさまに伝えました。彼はメモも取らずに私の話を熱心に聞いています。一体何なのでしょうか。
「それで仕立屋としては何をして差し上げればよろしいのですか?」
「クロエもここでドレスを時々作るのだろう? 客の採寸の記録は残してあるよね。クロエのサイズを教えてもらえないかな。彼女が公式の場に着て行けるドレスを作ってやりたいから」
何となくですが、彼のその言い方にカチンときてしまいました。
「それはお断りします。お客さまの個人情報を漏らすわけにはいきません。どうして私が商売敵の注文を増やすようなことをしないといけないのでしょうか? お貴族さま御用達の仕立屋なんてうちなんかが逆立ちしても商売敵とは呼べないかもしれませんけれども。それに、貴方さまから理由もない高価な贈り物をされてクロエが単純に喜ぶような子だとお思いですか?」
なるべく感情を露わにしないように気を落ち着けました。
「それはもちろん、ただでとは言わないよ」
目の前に金をちらつかせてきました。クロエが好きになった人だというのに、もしかしなくても貴族だけあって傲慢野郎なのでしょうか。
「そうですか、でも私、お金ではなくて……そうですわねぇ……」
私はこの次期公爵とやらを試してみることにしました。得意の妖艶な笑みを浮かべ、彼に顔を近付けて彼の耳にある提案を囁いてみました。
この後の私とテネーブルさまのやり取りは一生クロエには内緒です。テネーブルさまが時効だと思う頃に彼女に話すには構わないでしょう。
結局クロエのドレスはうちの仕立屋で縫うことで丸く収まりました。私とテネーブルさまが密談中、私を迎えに来てくれた婚約者ウィリアムの発案でした。
ウィリアムが布地と全ての材料を提供し、うちの仕立屋がドレスの意匠と縫製、テネーブルさまが仕立て代を担当することになったのです。ウィリアムが外国から取り寄せた上等の絹地の中から私がクロエの大好きな桃色を選びました。出来上がった美しいドレスを着たクロエを見るのが楽しみでした。
それにしても次期公爵さまもただの恋する男だということが分かりました。クチュリエ・ロシュローが心を込めて仕上げたドレスにクロエが袖を通すことになるのはいつなのか、今か今かと私は待ち受けていました。
そんなある冬の夕方のことでした。クロエが私を自宅に訪ねてきたのです。真剣な顔で話があるというから何かと思いました。
「エレイン、『じょしりょくあっぷ』なるものに協力して欲しいのよ。ほら、貴女が前言っていた『ソッチノテク』というものを教えてくれる? 私は堅物の処女で全くの初心者だから……男女の性行為の知識と技術を身につけないといけないの、それも急に決まったから数日中に。お願いよ!」
そうまくし立てるクロエに目を見開かずにはいられませんでした。あのドレスは一緒に出掛けるために作ったのではなくてただ脱がせるためだったのでしょうか……
「あらあら、クロエちゃんもついに……それにしても、貴方たちってもう
先日テネーブルさまに会った限りでは、まだまだデートにも漕ぎつけていないような感じだったというのに、展開が早すぎます。
「彼とは一緒に出掛ける間柄でも恋人同士でもないのよ。ただ私が一方的に憧れている人で……私の方からお願いしたのですもの。今日はそこまで話す時間はないのだけれど、私にも色々事情できたのよ。要するに後悔する前にさっさと初体験だけは済ませてしまいたくなって、それでその……記念すべき処女喪失の相手はその彼でないと嫌だったから……」
どうしてクロエがここまで切羽詰まった様子でとにかく彼とベッドインしたいと思うようになった経緯が良く分かりません。それでもこの二人は両片想いだということだけははっきりしました。
だったらクロエをけしかけて二人が一線を越えてしまっても、そのまま上手くいきそうです。
今は弟の部屋にある『淑女と紳士の心得』を彼女に貸すことにしました。勉強家のクロエには、本の内容は参考にする程度で丸暗記して全て実行しなくてもいいのだ、と釘をさしておきました。これは面白くなりそうでした。
その後、年末年始の休みにクロエに一度会いました。まだ彼女の処女喪失計画は実行されていないとのことでした。
クロエは誘拐事件や熱を出したことなどを色々と報告してくれました。それにしてもキモいストーカーのことは知りませんでした。
「そんな事件なんて新聞の三面記事には恰好のネタよ。ハイエナのような記者たちに嗅ぎつけられたのかどうか、私が知る限り、全く記事になっていないわ。公にならないように事件を完全に握り潰したなんて流石公爵家ね。愛されているのね、クロエ」
私がテネーブルさまから受けた第一印象は、ただのほほんとした金持ちのボンボンでした。それでも、彼が陰で色々と糸を引いたからこそ、その事件は闇に葬られたのでしょう。優男な外見とは裏腹に策略家なのかもしれません。私のつてで少しその犯人がどんな裁きを受けたのか調べてみることにしました。
「とにかく、私はあの事件があったからこそ、もう後悔しないようにと一歩前に踏み出せたのよ」
クロエのその気持ちは良く分かります。彼女が事件のことを気に病んで恐怖に駆られている様子ではなく、前向きに考えていることは良いことです。
「まあ、あまり力まずにリラックスして臨みなさいね。貴女の恋が上手く行ったら私たちの結婚式でお二人に付添人をお願いしたいから」
「付添人だなんてそんな大役……それに……」
先日テネーブルさまに、クロエは付添人を頼むくらいの特別な友人だと私は言ったのです。そうしたら彼は男の付添人は自分がやると大層乗り気でした。
クロエが私の式で他の男性と付添人を務めるのが許せないそうです。確かに相手役とは腕を組んだり、踊ったり、しかも二人で付添人を務める男女は特別な仲であることが多いのです。
「私の付添人は貴女以外には居ないわよ」
「それは光栄だけれども……」
「まあ、そういうこと」
私はニヤニヤ笑いを隠せませんでした。
(三)に続く
***ひとこと***
フランソワ君がわざわざエレインの仕立屋に足を運んだ甲斐あって、ドレスは無事に仕立て上がりました。『メーキングオブあのドレス』の続報でした!
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