第三十二話 ラシーヌ川に架かる橋


 私は取るものも取りあえず部屋から出て階段を駆け下りました。妹と母が何事かとこちらを見ています。


「急用ができたので出掛けてきますっ!」


「クロエ、今何時だと思っているのですか?」


 母が私の後ろで叫んでいます。私が扉を閉める時にエレインが母に取りなしてくれているのが少し聞こえてきました。


「おばさま、本当に急ぎの大事な用事ですわ。それにきっと今晩は外泊になると思いますけれど、晴れて婚約が成立するのですから、大目に見てやって下さい」


「まあ、お姉さまはやっとプロポーズに色よい返事をする決心がついたのですね! 良かったぁ。私テネーブルさまが気の毒でしょうがなかったのですから」


「ここ数日クロエはまたひどく落ち込んで、悩んでいたようだけれど、もう心配事は解消されたのですね。先程ちらりと見た限りでは全て吹っ切れて晴れ晴れとした顔をしていたわ」




 私は商店の沢山並ぶ地区までの数分の道のりを走り、そこで辻馬車を捕まえました。


「カルティエ オ・ラシーヌまでお願いします!」


 私の人生でこんな大きな決断を迫られたことは初めてでした。不安ばかりで押し潰されそうでしたが、将来のことなんて分からないのは公爵だろうが庶民だろうが誰と結婚しても同じです。


 私はフランソワのことを誰よりも愛しているし、彼のご両親もガブリエルさまも大好きです。何を躊躇ためらっていたのでしょうか。


『クロエ、愛している』


 またフランソワの声の幻聴です。私の恋患いは相当な重症です。




 辻馬車の中で気ばかりが焦る私の目に窓から川の反対側、オ・ラシーヌの住宅街の灯りが見えてきました。そろそろ橋に差し掛かろうとしたところ、私の馬車の後ろから一台の馬車がかなりの速度で近付いてきました。私と同じく、オ・ラシーヌに住む誰かに急いで求婚の返事をしに行く方なのでしょうか。


 それにしても馬が気の毒になるくらいの速さです。私の辻馬車は少し右に寄り、道を譲りました。追い抜かれる時に目にしましたが、私の知るテネーブル公爵家の馬車と同じくらい立派な馬車でした。


「流石、貴族の馬車はあそこまで速度を上げられるものなのね」


 そんな呑気なことを呟いていた私です。そこで馬のいななきや車輪のきしむ音が聞こえてきたと思うと、急に私の体は横に揺られ、馬車が止まりました。


「よう、何なんだ? ちゃんと道は開けてやっただろーが!」


 御者の方が何だか叫んでいます。私は窓から外を見ました。少し狭くなっている橋の上で、私たちを抜いた馬車が前に立ちはだかっているのです。だから私の辻馬車が止まったのでした。


「あの、事故ですか? でしたら私はここから歩いて参りますので……」


「いや、それがね、お嬢さん……俺にも何が何だか……」


 私は御者に声を掛けました。暗い夜道ですが、治安の良いオ・ラシーヌなら一人で歩いていてもそこまで危険ではないでしょう。


「クロエェー!」


 再びフランソワが私を呼ぶ声がどこからともなく聞こえてきました。私の重い恋の病は彼の求婚に答えることで完治するのでしょうか……


 運賃を払うために私は財布を出そうとしていたところでした。辻馬車の扉が開かれ、なんとそこには私の愛してやまない男性がいました。


「やっぱり君だった。良かった、追いついた」


「フランソワ……」


 テネーブル公爵家の馬車に良く似ている馬車は本当にフランソワのものだったのでした。彼に手を差し出されて私は馬車から降りました。しばらく私たちは無言で見つめ合っていました。


 柔らかな外灯にの光に照らされたフランソワは少しやつれて見えました。きっと事件の対策で忙しかったのでしょう。無精ひげを生やしているところを初めて目にしますが、そんな男らしさが垣間見える彼に、心臓をギュッと掴まれたような感覚に陥りました。


「お嬢様、こんな夜更けにどちらまでいらっしゃるのですか?」


 フランソワは至極真面目な顔で私に尋ねます。


「カルティエ オ・ラシーヌに住む、愛しい男性の元へ参るのですわ」


「そ、それは、一夜の逢い引きの為?」


「いいえ。法律上婚姻関係を結んで、これからの人生を共に歩んで行きましょうと彼に告げるためです」


「……ああクロエ、君が結婚を了承してくれた……夢じゃないよね」


 彼は信じられないと言った様子でした。自分で自分の頬をつねっているのです。


「はいフランソワ、私も毎朝貴方と迎えたいです」


 その瞬間、私は彼の腕の中にしっかりと抱きとめられていました。


「うう、やっと君にハイと言ってもらえて僕は幸せ者だ、良かったぁ……ううぅ」


 フランソワが涙声になっています。口付けるために少し体を離した彼の顔を見たら本当に涙を流しているのです。彼の涙には触れないことにしました。そして私は激しく唇を奪われたのはいいのですが、思わず変な声が出てしまいました。


「きゃ、うふふ……フランソワ……髭がくすぐったいです、ああぁん」


「そんな声出しちゃって、くすぐったイイ? 実は感じているのでしょ、クロエ」


 フランソワはそんなことを言いながら私の首筋を髭でなでてきました。何だかチクチクゾクゾクするのです。


「あぁ、いやぁ……」


 そう言えば天下の公道だと言うのに二人で堂々と抱き合って口付けていたということに今気付きました。私はフランソワの体を離そうとしても、再び唇を奪われて彼の腕の中から抜け出せません。


「フランソワ、私たち橋の上でこんなはしたないこと……」


 彼の唇が一瞬離れた隙に言いました。


「今晩くらいいいじゃない、難攻不落のクロエ・ジルベール女史が求婚を受け入れてくれるなんて一生に一度あるかないかのことだから」


 私は辻馬車を待たせていることを今まですっかり忘れてしまっていました。


「それに私の辻馬車……」


「御者にも馬にも僕達のイチャラブを見せつけてやればいいよ」


 そんなこといけませんわ、と言おうとしても口が塞がれています。


 確かにフランソワの求婚を了承するなんて一生に一度の出来事です。夜更けの橋で柔らかい灯りに照らされながら恋人と親密な行為をするなんてことも何度も出来ることではありません。


 自分で言うのもなんですが、普段は規律に従うクロエ・ジルベール女史なのに開放的な気分になってしまいます。


「そろそろ帰ろうか。流石にもっと色々シたくなってきたから」


 どのくらい経った後なのでしょうか、私たちは橋の上に二人きりでした。


 フランソワの馬車は橋を渡った向こうで待機していましたが、私の辻馬車はもう居ませんでした。顔見知りになっていた公爵家の御者マルタンが運賃と心付けを立て替えてくれたのです。私は恥ずかしくてマルタンと目が合わせられませんでした。


「今日やっとあの事件の後始末に目途が立ったから、居ても立っても居られなくて君に会いたくて、お宅を訪ねてね。君が僕に会うために入れ違いに出て行ったとお義母様がおっしゃるから、夢中で追いかけたよ」


「後始末、ですか?」


「うん。全てにけりがついた。もう何も心配することはないよ」


 フランソワはそれ以降私が何を聞いても詳細は教えてくれませんでした。ですから私は相手の貴族令嬢も結局誰か知ることはなかったのです。


「良かったですわ。これでやっと枕を高くして眠れますね」


「何言っているの、クロエ。今晩は君を眠らせないよ。それから明日の朝一番に婚姻許可申請書を提出しに行くからね」


「えっ、明日ですか?」


 私はそのままテネーブル家の離れに連れて行かれました。久しぶりに彼と肌を合わせ、男らしさの増した無精髭の彼に抱かれることに今までになく燃えて乱れてしまいました。


 普段は朝が苦手なフランソワなのに、翌朝は疲れも寝不足も、ものともせず早起きをしていました。そして私たちは二人で出勤前に王宮本宮の戸籍課に寄りました。フランソワは何と既に申請書に双方の親の署名ももらっていて、後は妻となる私が署名するだけだったのです。




***ひとこと***

フランソワ君が感極まって泣いてしまうその気持ちも良く分かります。難攻不落のクロエちゃんがやっと求婚の返事をしてくれたのですから。

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