第二十八話 王子、見切り発車で滑る


 しばらくしてフランソワは割にすっきりと目覚めたようでした。いつもは中々起きられない人なのです。


「クロエ、明日は出勤前に二人で書類の手続きに行こうね」


 彼は寝台に体を起こし、私の唇に軽く口付けると満面の笑みを向けてそう言いました。


「フランソワ、今朝は寝覚めがとても良いようですね。ところで何の書類ですか?」


「何って、婚姻許可申請書に決まっているじゃない」


「婚姻許可申請書というものは双方の両親に許された婚約者もしくは交際中の男女が提出する公式書類ですわ」


「僕だって文官の端くれだよ、そのくらい分かっているよ! さっき僕が君と毎朝一緒に迎えたいって言ったら私も、って答えたよね、クロエ!」


「そんな起こり得そうにもないことが実現したら素敵だなって思っただけですけれども……」


「起こり得るよ! 君だってうんと言ってくれたじゃない!」


「そうでしょうか? だって毎晩私と共にするほど予定は開いていないですよね、フランソワは。私だって家事やよろず屋の仕事で毎晩泊まり歩くわけにもいきませんし」


「君と交際を始めてからは毎晩君のために開けているよ! いや毎晩は無理でもほとんど毎晩ね、っていうか、僕はそんな意味で言ったわけでもないし、それにいつまでよろず屋で働くつもりなの、クロエ?」


「私の副業が今の私たちの会話に何の関係があるのでしょうか?」


 再び前回の口喧嘩と同様の展開になってきました。これ以上続けるのはよろしくない気がしました。


「直接は関係ないけれど、将来関係してくる。とにかく、毎朝一緒に迎えたい、なんて君の作った味噌汁が飲みたいと同義語で求婚の言葉って相場が決まっているじゃないか!」


「ミソシルって何ですか? フランソワ、貴方も時々俗語をお使いになりますよね」


 険悪な雰囲気になってしまいそうでした。


「とにかく、僕はたった今君に求婚したの!」


「きゅうこん……それでも先ほど貴方はまだ半分眠っておいでで……あれは寝物語の延長というか、その場限りの愛情表現の一種だとばかり……」


「酷いよクロエ、じゃあちゃんと目覚めたから改めて言うからね!」


 そこで彼は寝台から飛び降りて床にひざまずきました。


「クロエ・ジルベール様、貴女のお手を取り祭壇の前で永遠の愛を誓う栄誉をどうかこの私にお与えください。私はもう貴女なしでは生きていけません」


「そ、そんなこと、いけませんわフランソワ。どうかお立ち下さい」


「ほら、花束はないけれど、この誇り高い僕が君に頭を下げてひざまずいて結婚を申し込んでいるのだから」


「それはそうなのですけれども……あの……貴方さまに全裸で土下座されても私、真面目な顔で対応できませんし……」


 誇り高いと自分で言うフランソワですが、何もまとっていないのです。ちょっと可笑しくて、でも笑えない雰囲気だったので、堪えるために腹筋がふるふると震えてしまいました。


「全裸? あっ、本当だ。下も何も履いていなかった。でもとにかくクロエ、君は快く承諾すればいいだけなの!」


「それでも、うふふっ……お立ち下さい、と先程から申しておりますよね……ふふふ……」


 口を開くと爆笑してしまいそうでしたが、彼の誇りを傷つけないように、と必死な私は笑わない代わりに目から涙が出てきました。


「この僕に全裸で土下座までさせたのだから責任取ってよね、クロエ!」


「も、もう駄目です……わたし……あはは……」


 私は寝台に突っ伏して涙を流しながら笑い転げてしまいました。


「僕が一世一代の求婚をしたって言うのに……それでも君をそんなに笑わせることができたなんて初めてだ。ちょっと複雑……」


 そのまま彼の言う求婚はうやむやになってしまったのです。その日は休みで、私はよろず屋の仕事が入っていたので急いでドレスを着て帰宅しました。




 そしてその夕方私が仕事を終えてよろず屋から帰宅するとお客さまがありました。母と誰かが話しているのが家の外から分かったのです。


 何とそのお客さまはフランソワで、家の前に馬車が止まっていなかったので彼が来ているとは分かりませんでした。私が扉を開けようとしたら、母の声が聞こえてきました。


「まあ、貴方さまが本気でクロエのことを望んでくれているのは分かりました。けれども、私も経験上、娘を貴族に嫁がせるのは躊躇ためらわれるのです。それはご理解いただけるでしょうか。そもそも私は離縁された訳ではありませんが、数年で別居いたしましたし。クロエの父親のことはご存知でしょうか?」


「あ、いえ。数年前に亡くなったことしか存じません」


「あちこちに愛人を作っていて散財した上に、体を壊して亡くなりました。長年の飲み過ぎがたたったのです。私たちには貴族の端くれだという誇りと借金が残されただけですわ」


 扉を開けるのが躊躇ためらわれました。


「クロエさんが副業までして家計を助けているのはそのためだったのですね」


「娘たちにも苦労をかけているのは母親として申し訳ないと思っているのです。若い頃の私がしっかりしていなかったせいで、あんなろくでなしと結婚してしまって……クロエにもダフネにも私のてつを踏むことだけは避けて欲しいと思うのです」


「それでも御義母上がジルベール男爵と結婚されたお陰でクロエさんが生まれ、私は彼女に出会うことが出来ました。確かに、これから一生クロエさんだけを愛すると誓います、と口約束をするだけなら簡単です。けれど彼女が私と同じ部署に就職してきた時に出会ってから、たった今この瞬間まではずっと彼女一人だけを愛しています。それに、これからも私が妻と呼べるのは彼女しか居ないと確信しております」


 母にこんな真面目な話をしているフランソワは本気で私に求婚するつもりだったのです。


「そうでございますか。そんな正直なお言葉ですからこそ、かえって信じられるというものです。というより、もう成人した大人同士の恋愛です。親の私が口を挟めることではありませんわ」


 私が扉の前で盗み聞きをしているところにダフネが帰って来ました。


「お姉さま、何をなさっているのです?」


「ダフネ、静かにして……あのね、今フランソワがお母さまと大事なお話をしているの」


 ダフネはそれですぐに理解したようでした。


「まあ……もしかして、そんなに話が進展しているのですか? お姉さま、おめでとうございます!」


「しぃーっ!」


 そこで扉が内側から開きました。


「二人共お帰り。そこに立っていないで中にお入りよ」


 私たちが扉の外に居ることが中のフランソワには分かっていたようです。


「テネーブルさま、こんにちは」


「ただ今帰りました」


 私は何だか照れくさくて、フランソワには会釈をしただけで家に入りました。昼間、彼は何か大事な用事があったのでしょうか、正装でした。


 紺の高級文官服も素敵なフランソワですが、金ボタンの襟が高い黒の正装も凛々しくて、ちらりと見ただけでも惚れ惚れしました。狭い我が家にはあまりに似つかわしくない彼の存在でした。正に掃き溜めに鶴です。


 彼は私が上着を脱ぐ間もなく、食卓の上に置いていた見事な赤い薔薇の花束を掲げながら私の前にひざまずきました。


「クロエ・ジルベール様、祭壇の前で貴女のお手を取る栄誉をどうかこの私にお与えください。私の全身全霊をかけて貴女を幸せにして差し上げると誓います」


「キャーッ、素敵ぃ!」


「ダフネ、静かになさい!」


「あの、フランソワ……貴方のそのお気持ちは嬉しいです。それでも……私に少し考える時間を下さいますか」


 私は彼の顔が見られなくて、深く頭を下げてそのまま自分の部屋に駆け上がりました。




***ひとこと***

はぁぁー、題名通りの展開、フランソワ君痛恨の空振り三振となってしまいました。それでもお母さまとダフネちゃんは彼の味方のようです。

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