第二十二話 花より団子な女子


 私たちが身なりを整えて宿を出たのはもう昼前でした。部屋の扉の前には大きな紙袋が置いてあり、フランソワはそれを拾い上げ、階下に降ります。


 宿代を払う時はすかさず私も財布を出そうと心構えをしていたのですが、受付には人も居ず、フランソワはすたすたと正面玄関から外に出るので彼に私も続きました。


 そして玄関前に待っていた辻馬車に私はフランソワによって乗せられました。宿代は後日請求されるのでしょうか、昨晩先払いした様子もありませんでした。私の荷物と紙袋を持って乗り込んでくるフランソワに尋ねました。


「フランソワ、ここの宿代ですけれども、私も出来る範囲内でお支払いします」


「何を言っているの、クロエ。そんな気遣い無用だよ。君と楽しい時間が過ごせて、いい思いをさせてもらった僕が払うに決まっているじゃない」


「そんな、良い思い出を作ってもらったのは私も同じですし……」


「いいの、宿代についての議論はこれで終了。分かったね、クロエ」


 フランソワがこんな強い態度に出る時は私も反論しない方がいいと分かっています。


「あの、何から何までありがとうございました」


「うん、そうやって素直にありがとう、って言ってくれるだけでいいから。あ、それから、朝食で食べたパンを包んでもらったよ。お母さんと妹さんにどうぞ」


 なんだか先程からパンの良い匂いがしていたのはその紙袋だったのです。そう言えば朝食の後、彼は給仕係を呼んで何か頼んでいました。


 私はそのまま再び寝台に連れて行かれ、パンの一つでもこっそりポケットに忍ばせておけば良かったと後悔しきりだったのです。まるでフランソワに心の中を読まれているようです。


「まあ……こんなによろしいのですか? わぁ、ありがとうございます! あの、宿泊料金を全て払って頂いたので、このパンのお代くらいは払わせて下さい」


 人生に一度きりの経験に、さらにこんな手土産まで至れり尽くせりです。あの美味しいパンを家族と一緒に再び食べられるということに思わず頬が緩んでしまいました。私たちが普段食べているパンの値段の数倍はするでしょう。


「ねえ、そんな嬉しそうな顔を僕に見せるの、初めてだよね、クロエ」


「そ、そうでしょうか?」


「その笑顔が見られただけでも僕は得した気分だから、気にしなくてもいいよ。財布はしまっておいてね」


 簡単に食べ物に釣られる食い意地の張った女だと思われたのでしょう。少し恥ずかしくなりましたが、このパンを家に持って帰れるという喜びは色褪せません。フランソワに呆れられるくらい何てことはありません。


「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」


「なんだか色気より食い気が大幅に勝っている感が半端なくて、僕は少々自信を失うよ」


 フランソワがボソッと何かつぶやいているのですが良く聞こえませんでした。


 辻馬車はとっくにバ・ラシーヌに入り、もうすぐ我が家に着きます。私の初体験はフランソワのお陰で素晴らしいものとなりました。勇気を出して彼に頼んで良かったです。相手がフランソワだったからからこそ、昨晩のようなめくるめく体験ができたのでしょう。


 これからのち、他の男性に肌をさらして体を許せるとは到底思えませんでした。それでもフランソワの方は他の女性とも同じように親密な性行為に及んでいるのだろうな、と考えると心臓がギュッと掴まれるような感じがして悲しくなりました。


 脇に置いている大きな包みから漂ってくる焼き立てパンの香りを胸いっぱいに吸い込んで、母や妹の喜ぶ顔を思い浮かべ、そんな感情は脇に押しやることにしました。


「フランソワのお陰で素敵な時間を過ごすことが出来ました。本当にありがとうございました」


「クロエ、どうして既に過去形なの?」


 昨晩のことですから、過去形なのは当たり前です。


「ねえ、今度一緒に食事しない? 元王宮調理師が旧港街で美味しい魚介料理を食べさせる店を開いてね、一度行ってみたいから」


「えっ? 今度、ですか?」


 今度、という言葉に過敏に反応してしまいました。フランソワは王宮本宮の外で再び会うことを提案しているのです。


「そこまで身構えなくても……魚料理好きだよね、クロエ」


 彼がどうしてそこまで知っているのか疑問でしたが、私は予算が許せば肉より魚介類の方を好んで食べます。


「はいっ、大好きです」


「こういう事だけ即答なの……とにかく、次の休みの前の晩、都合が良ければ」


 旧港という場所柄、格式もそこまで高くはないはずです。それでも頂いた桃色のドレスで行った方がいいかもしれません。私も彼に釣り合う装いがしたいのは山々です。


「あまり遅くならなければ大丈夫です」


 その次の日は朝からよろず屋の仕事です。あの事件や熱のせいでしばらく休み、年末に再開しました。今日は年明けでお店は閉まっているので朝フランソワとゆっくり出来て丁度良かったのです。


「良かった。とにかく、料理が気に入れば魚でも何でも好きなだけ頼んでお持ち帰りしてもいいし。まあ実際僕がお持ち帰りして食べたいのは君自身だけどね」


「持ち帰り……」


 普段は肉もあまり買わず、安価な干し肉が精一杯の我が家です。フランソワとは金銭感覚が違い過ぎることは分かっていました。彼に飽きられるまでの短い期間くらい無駄遣いをしても罰は当たらないでしょう。それに私だけでなく、母や妹にも美味しい料理をお土産に持って帰ることができるのです。


「あ、いや、それは冗談、いや本当は本気で……別に取って食べようとしているわけ、ではあるのだけど……」


 彼はまたもぞもぞと何か言っています。




 帰宅した私は、母に一言釘を刺されました。


「貴女はもう成人しているから、自分のことは自分で責任取れるでしょう。もう親の私が口うるさく指図出来る歳でもないのですから」


 母には全てお見通しだったのです。


「お母さまがいつもおっしゃることは私も身に沁みています」


「それでもテネーブルさまが貴女のお見舞いに来られた時は私も驚きました。彼はとてもお優しいのですね。今日も私たちのためにお土産まで持たせてくれたことですし。そんなことまでして貴女に取り入る必要なんてテネーブルさまには全くないというのに……」


 母の言葉には一々耳が痛くなります。恋の始まりは盛り上がっていて冷静な判断が出来ないから間違いを犯してしまうことも多い、貴族の男性なんて妻は形だけお飾りのものとしてめとって外では何をしているか分からない、というのが母の口癖です。


 その苦い教訓は彼女の実体験から来ているものなのですが、私もほぼ真実だと思っています。


「大丈夫です、お母さま。私は世間知らずですけれども、身の程知らずの恋に溺れるほどうぶではありませんもの」


 その日の夕方に帰宅したダフネは私が持って帰ったパンに感激していました。けれど焼きたてはもっと美味しかったのです。


「このもちもちした食感は何かしら? 冷めてもこんなに美味しいなんて、ああ幸せぇ。このパン職人のところに弟子入りしたいくらいだわ……」


「……今度フランソワにどこの店で焼かれたものか聞いてみるわね」


 まさか、私が処女を彼に捧げた連れ込み宿で出されたものだと言えるはずもありません。




***ひとこと***

次のデートも決定しました。食べ物につられている感じのクロエと、クロエを持ち帰る気満々のフランソワ、この二人まだまだ温度差があるのですよね。

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