第十六話 備えあれど患いあり


 ウィリアムさんが迎えに来てくれたので、まだまだエレインに聞きたいことはありましたが、帰らないといけません。


「エレイン、色々ありがとう。私の初体験が素敵な想い出になるように努めるわ」


「学生の時に適当に男の子と付き合うこともなく、社会人になってデビューか……頑張ってね」


「えっと、男性のどの器官がどんな状態になって、それを相手のどの器官に差し込んで、という事は私でも知っているのだけど、本当に上手く出来るのか不安で……それでも子孫繁栄するために必要な人類太古の昔からの行為だから、ほとんどの大人が経験していることでしょう。でも、普通に考えて私の局部にその、陰茎が本当に入るのかまず信じられないの。それでもその同じ器官が出産時には胎児の頭が通って出て来る産道になるのよね……」


 私は立ち上がりながらまだブツブツ言っていました。エレインは再び笑いを噛み殺しています。


「貴女って、彼の前でもクロエ語炸裂な話し方なの?」


「クロエ語?」


「クロエ・ジルベール女史にかかると恋バナや猥談わいだんも生物学の講義みたいになってしまうのよね」


 司法を目指す職業柄か、私自身の性質なのか、私は気の利いた表現が出来ないことが多いのです。


「貴女の言うように彼はドンビキ?ばかりしているのでしょうね、きっと……」


 フランソワは私に呆れていることでしょう。職場の後輩として無理に付き合ってくれているだけかもしれません。


「違うわよ。彼はそんな真面目でお堅いクロエのことを開発、調教していくのが楽しみで萌えるのよね。なんか、彼の気持ちが手に取るように良く分かるわぁー。私が想像する限りでは貴女の彼ってそんな体目当てでもなさそうだし、こう言っちゃなんだけど女性に不自由もしていなさそうだもの」


 開発や調教に闘志を燃やすだなんて、私は物でも動物でもありません。分からないことだらけです。私の疑問は解決するどころか、益々謎が深まるばかりでした。


 それでもこの指南本を読んで備えることが出来るのです。少しだけ心が軽くなりました。


「クロエ、心得本は裸のまま抱えて帰らないこと。見る人が見たらすぐに分かるのだから。袋を貸すわ」


「そうなの? ありがとう」


 一見普通の学問書ですが、他人がどんな内容か分かるようではかなり恥ずかしいです。


 そして私はエレインと階段を降りました。彼女の婚約者、ウィリアムさんはとても優しい大人の男性です。何と言ってもあのエレインがぞっこんなのです。それに彼の方もエレインが愛しくてしょうがないというのは私が見ているだけでも分かります。


「女子会のお邪魔をしたのかな、私は」


「いえ、とんでもないですわ、ウィリアムさん。ご無沙汰しております」


「ウィル、出掛ける前にクロエをお家に送って行く時間はある?」


「もちろんだよ」


「お世話になります」


 あんな事件があったばかりです、近い距離ですが、母に心配を掛けないためにも送ってもらえるのはありがたかったのです。


 ウィリアムさんの馬車で、結婚を間近に控えた婚約者たちの向かいに座ります。愛し合う二人は私の目にとても微笑ましく映っていました。エレインの幸せを純粋に祝える気持ちでした。




 さて、エレインに貸してもらった心得本ですが……内容があからさまで私には刺激が強すぎました。結構な数の挿絵に思わず目を見開いてしまいました。


「ちょ、ちょっと動悸が激しくなってきたわ……」


 やっとフランソワが言っていた第一章、第二章という言葉の本当の意味が分かりました。


 この本を妹に見られないように隠しておく必要もありました。マセている妹ですが、やはりこの本の内容は教育上まだよろしくないような気もしました。


 実は妹のダフネは当時初体験こそまだだったのですが、この心得本など、とうの昔に友人に借りて読破していたということを随分と後になって知りました。この分野では私が一人遅れているだけだったのです。




 翌朝、私は恐る恐る出勤しました。事件のことは職場に知られていないようでした。


 フランソワが私のために出してくれた欠勤届の理由は体調不良だったので、同僚の皆さんが体を気遣う言葉を掛けてくれただけでした。純粋にほっとしました。


 そして昼休み少し前に席を外していた私が机に戻るとフランソワからの文が置かれていました。


『第三小会議室で昼食を一緒にとろう F』


 私は大抵お弁当を持ってきて、休憩室か一般職員用の食堂で食べています。そこでフランソワを見かけることはまずないので、彼は本宮の上層部にある貴族専用の食堂か、お弁当なら別の場所で食べているのでしょう。


 お昼休みになると私はお茶を入れて、お弁当を持って指定の会議室に行きました。フランソワはもう来ていました。


「やあ、クロエ。良かった僕の書き置きを見てくれて」


 私が会議室に入るなり、彼は私の唇に軽く口付けて鍵を掛けました。


「テネー……いえ、フランソワ、今日はお弁当を持ってこられたのですか?」


「うん」


 彼のお弁当は大きな籠に入っています。私の小さな包みとは大きさがまるで違います。流石、テネーブル家の調理人が用意したお弁当です。食い意地が張っているように見られる前にその籠から目をらしました。


 私は彼の隣に座らされ、二人で食事をしながらフランソワが決行の日の予定を話して聞かせてくれました。


「三日後のことだけど……仕事の後、直接出掛ける? それとも君が一度帰宅したいのだったら迎えに行くよ。食事をして、それから宿に泊まるから翌日の着替えなども必要だしね」


 私は食事も宿泊もする必要はないと思っていました。用事をさっさと済ませて即解散だと母に疑われることもない時間帯に帰宅できるでしょう。


 世の中の人々が情事にかける平均時間はあの本には書かれていませんでしたが、一時もあれば足りると思いました。


 連れ込み宿ですから泊まらず、一時や半時しか滞在しない客も多いことでしょう。宿の格にもよりますが、朝まで滞在すると宿泊料がかさむに決まっています。


「えっと……私はその、宿泊までする必要はないと……その夜のうちに帰宅したいのですけれど……」


「えっ、クロエ、朝まで一緒に居られないの? お家の人にはまた姉に引き留められて泊まることになったって言えばいいし」


 フランソワにそのキラキラの瞳でそう頼まれては断れません。母に嘘をつくのは忍びないですが、本当のことも言えるわけがありません。


 きっとフランソワが常連として通っている連れ込み宿なんて私はまず縁のない所です。彼にお手合わせをしてもらって、そのまま一緒に朝を迎えられるとしたら最初で最後の想い出はもっと素敵なものになることでしょう。少々の出費くらい何のことはありません。


「そうですね、折角の経験ですから……翌朝までの工程でよろしくお願いいたします」


 私はフランソワに深く頭を下げました。


「もうクロエったら、君らしいと言えばそうなのだけど……」


 昼休みが終わるぎりぎりまで私はフランソワと会議室にこもっていました。


 というのも食後は彼が持ってきた豪華お弁当のデザートや果物を分けてもらったのですが……実は口移しで……そのまま大人の口付けになったからなのです。




***ひとこと***

アノ本はやはりクロエには刺激が強すぎたようです。エレインもさぞかし面白がって、ではなく気を揉んでいることでしょう。


それにしてもフランソワ君、鍵を掛けた会議室でクロエと密会だなんて……

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