第十五話 現在も読み継がれるアノ本


 私が帰宅した時、妹は学院に行っている時間帯で留守だと分かっていました。幸いなことに母も留守でした。私が家の前ではしたなくも男性と抱き合って口付けていた現場を彼女たちに見られていなかったことにほっとしていました。


 近所の人には目撃されたかもしれませんが、それはもうしょうがありません。私は急いでドレスを着替えました。


 事件に遭ったことはもちろん、このドレスのことも家族に隠しておけません。あまり大騒ぎされないように伝えるにはどう言えばいいか考えました。


 フランソワにはゆっくり休めと言われましたが、貧乏性ですから掃除や片付けを始めました。一休みしてお茶を飲もうかと思っていた時に丁度母が帰宅しました。重い荷物を抱えています。


「お帰りなさい、お母さま」


「まあクロエ、どうしたのですか?」


「とりあえず荷物を置いてお着替えになって下さい。その間に私がお茶を淹れますから」


 それから母とお茶を飲みながら昨晩と今朝あったことを手短に話しました。事件のことが公になることはない、と言ってくれたフランソワのことを信じていないわけではありません。もしかしたら捜査の続きのため、警護団の方たちが我が家に私を訪ねてくることもあるかもしれないのです。母に隠し事はせず、自分の口で伝えるべきだと思いました。


「私と一緒に居たためにガブリエルさまも事件に巻き込まれたのに、テネーブルさまはとても親切にして下さったのです。私をお屋敷に泊めて下さって、その上もう誰も着ないからと親戚の女性が着ていたというお古のドレスまで頂いたのです」


「そう、怖い思いをしたのですね。けれど貴女を含め皆無事で良かったわ。クロエ、本当に大丈夫ですか?」


「私、さらわれて怖かったというよりも、私を助けるためにテネーブルさまたちが動いてくれたことに感動したという感情の方が大きいのです。嘘ではありません」


「私からもテネーブル家の皆さまに貴女がお世話になったお礼の文をしたためておきましょうね」


 母には一部始終もっと詳しく聞かれると思っていました。しかし母はそのまま黙ってしまいました。


 私が時々次期公爵のフランソワにこの家まで送ってもらい、ガブリエルさまと仲良くしていることにあまり良い顔をしていないのです。母の気持ちも良く分かります。


「お母さま、これからエレインのところに行ってもいいですか?」


「もちろんですよ。でも暗くなる前に帰って来なさいね」


「はい、すぐに帰ってきます」


 私は彼女に聞きたいことが山のようにあり、居ても立ってもいられませんでした。彼女の家は歩いてすぐのところにあります。丁度エレインは在宅していました。


「どうしたの、クロエ。こんな時間に珍しいわね」


「エレイン、貴女に色々お願いがあるの。少し時間ある?」


「もちろんよ。お茶がいい? それともコーヒー?」


「何も要らないわ、ありがとう。お茶を飲みながら出来るような話ではないし、暗くなる前に帰らないといけないから……」


「じゃあ丁度いいわね。今晩はウィリアムと食事に出掛けるの。彼が迎えに来てくれるから、食事の前に貴女をお家まで送ってもらえるわ」


 エレインは思いつめたような顔の私を部屋に通してくれました。彼女の家族が私達の会話を耳に挟む居間では出来ない話だと私が言わなくても分かってくれたようでした。エレインの部屋に入ってすぐに私は口を開きました。


「エレイン、貴女に『じょしりょくあっぷ』なるものに協力して欲しいのよ。ほら、貴女が前言っていた『ソッチノテク』というものを教えてくれる? 私は堅物の処女で全くの初心者だから……男女の性行為の知識と技術を身につけないといけないの、それも急に決まったから数日中に。お願いよ!」


 そうまくし立てる私にエレインは目を見開いていました。驚くと言うより面白がっている様子です。


「あらあら、クロエちゃんもついに……それにしても、貴方たちってもうねやに入る仲になっちゃったの? 貴女の彼はそんなにがっついているの?」


「彼とは一緒に出掛ける間柄でも恋人同士でもないのよ。ただ私が一方的に憧れている人で……私の方からお願いしたのですもの。今日はそこまで話す時間はないのだけれど、私にも色々事情できたのよ。要するに後悔する前にさっさと初体験だけは済ませてしまいたくなって、それでその……記念すべき処女喪失の相手はその彼でないと嫌だったから……」


「もしかしてクロエ、その剣幕でいきなり彼に『抱いて下さいっ!』って迫ったの? ちょっとした見ものね。普通女性の方から告白するにしても、まず交際して下さい、一緒にどこかに出掛けませんか、とかお願いするものじゃない?」


 エレインは笑いをこらえています。


「最初は彼も驚いていたわ。彼との交際にも憧れるけれど……でもそれより私は初性交渉の方が大事だから」


「彼が驚くのも無理はないわよね……お堅くて重そうな貴女が体の関係だけを迫るだなんて」


「重い?」


「体重のことではなくて、男女の付き合いの真剣さの程度というか……」


「なるほど。でも彼も結局は満面の笑顔で快く承諾してくれたのよ……僕に任せてと言ってくれたわ」


「彼は貴女ともっと真面目なお付き合いがしたいのではなくて? 少しくらい重くても良さそうなものなのに」


「ええ、彼も本当はデートを重ねて、まずは第一章から入って第二章と段階を踏んだ方が……なんて私が分からないことを言っていたのだけれど、こんな私を受け入れてくれるみたいなの」


 そこでいきなりエレインは立ち上がります。


「一章二章で思い出したわ。ちょっと待っていてね」


 部屋を出てそれからすぐに戻ってきたエレインの手には厚い本がありました。


「弟に貸していたのだけれど、貴女に丁度いいわ。これを読んで予習することね」


「淑女と紳士の心得? まあ、もしかしてねやでの作法が書かれている本なのね。こんな便利なものがあるだなんて。正に今の私に必要なものだわ。改訂第五版……相当な部数が売り上げられているみたいね」


 重厚な表紙に題名から、最初はただの礼儀作法の本だと思いました。


「時代を越えて愛読されているのよ。その時代に合わせて少しずつ内容も変えられているのだけど、まあぶっちゃけて言うと今も昔も人類の夜の行為は基本的に変わっていないでしょうね」


「良かった。ありがとう、エレイン。これでしっかり勉強して決戦に挑むわ」


「それでもね、クロエ。貴女のことだから……読んだことを丸暗記して実行しようとしても彼にドン引きされてしまうだけよ。本の内容はあくまでも知識として頭に入れておいて、実際には自然体で彼に任せていれば良いのよ。と言っても完全なマグロ状態でもなくてね……とにかく、貴女のフランソワさまはそのままの貴女が好きになったのだと思うから」


 私はエレインにフランソワの名前を言ったことがあったでしょうか? なかったような気がしますが、一回くらいは思わず口からこぼれてしまったのかもしれません。


「どんびき? 鮪?」


 エレインは婚約者のウィリアムさんか他の人ともう初体験もとうの昔に済ませているのでしょう。とても頼りになります。


「エレイン、ウィリアムさんがみえたわよー」


 エレインのお母さまが呼ぶ声がしました。


「今クロエと恋バナ中なのよ、五分で降りて行くわ!」


「こいばな?」


 彼女の使う俗語の知識も全然ない私でした。




***ひとこと***

遂にこの作品でも出てきました。シリーズ作に時々出てくるお馴染みの問題作『淑女と紳士の心得』です。前作「子守唄」でもクロエとフランソワの馴れ初めを語るにあたって少々匂わせておりました。


サンレオナール王国庶民の間でのベストセラー、ねやでの技術を磨くための本です。時代が下っても変わらず読み継がれており、既に第五版まで! 第一章は女性の純潔を損なわないで楽しむ方法、第二章は基本的には何でもありで、女性が身籠みごもらないようにする方法などもあり。第三章は紳士と紳士バージョン、第四章はなんと淑女と淑女なのです。

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